イソップの「農夫と息子たち」という寓話は、むしろ、「葡萄畑の宝探し」として、有名だろうと思います。そして、これは、ジンメルやベンヤミンといった哲学者も引用していて、人間にとって苦労こそが宝物だという通俗的な寓意を超えて、思想的に深遠な意味をもつものなのです。
どこに哲学上の論点があるかというと、農夫の嘘は、事実として、息子たちに信じられたところです。原点における農夫の嘘は、息子たちにとっては、疑う余地のない歴史的真実だったのです。そこには、嘘を真実として通用せしめるだけの父親の権威があったということです。
この嘘の構図は、どの民族の起源にも、必ず、神話があり、伝承があって、多くは荒唐無稽な内容であるにしても、民族の成員は、程度の差こそあれ、神話を信じているのと同じです。逆に、神話が歴史の起源として権威をもつ範囲こそ、民族にほかならないのです。ちょうど、農夫の嘘を信じたからこそ、農夫の息子であったのと同じように。
嘘を信じなければ、苦労こそが宝物であることを知り得なかったのですから、知るために、信じなければならないというわけですか。
怠惰であった息子たちは、苦労、あるいは勤労の創造的意味を知りませんでした。苦労の意味を知るには、苦労しなければなりません。経験知の獲得には、理の当然として、経験が、即ち、行為が先行しなければならないのです。
ひとたび苦労の意味を知れば、後は、苦労の継続のなかに創意工夫が生まれて、その成果を知ることで、更なる創意工夫が生まれて、経験知は自己増殖し、そして、いつか苦労は勤労の喜びに転化していくでしょうが、さて、原初の行為は、いかにしてなされるのでしょうか。
このイソップの寓話では、原初の苦労は、宝物の存在を信じることによってなされました。というよりも、宝物の存在を信じることによって、実は、畑を隅から隅まで掘り返すことは、苦労としては、意識されなかったはずなのです。全ては、葡萄の豊作という事後的に知られた事実から、農夫の嘘の真意が知られたときにはじめて、苦労こそ宝物という勤労の意味の論理的理解に到達したということです。
苦労こそ宝物という道理を説くことによっては、息子たちに、その道理を理解させることはできなかったでしょうし、そもそも、苦労する気のない息子たちに、体験によって、道理を理解させることもできなかったでしょう。事後的に、理屈は生成されるのであって、事前には、理屈は機能しません。故に、どうしても、先に、嘘が、いうなれば宝物の神話が創造され、その神話が信じられることを必要としたのです。
ウェーバーの資本主義の精神の起源にも通じないでしょうか。
あの宗教改革の指導者カルヴァンが唱えた予定説、即ち、神による救済を受けられるものは最初から決まっているという説ですが、この予定説こそが神の摂理に従った合理的な経済生活、即ち、勤勉と節約に基づく経済生活への誘因として働いたとするのが、ウェーバーの資本主義の精神の起源にかかわる有名な学説です。
救済されるかどうかは予定されているにしても、自分が救済されるかどうかが不可知である以上、人々は、自己の内面の問題として、救済への確信を求めた、あるいは、求めざるを得なかったのです。その確信を高めるための宗教的精進の道こそが経済的な勤労と節約であった、そして、結果的に、それが産業資本の形成につながったということです。
「葡萄畑の宝探し」においては、嘘を信じることが原初にあり、資本主義の精神の起源においては、救済への信仰があったのです。信じることによってのみ、勤労は可能であり、勤労の齎した経済的成功は信仰を強めていきますが、いずれ、原初の信仰は後背に退き、勤労と経済的成功の関係に関する経験知の形成は、それ自体として、経済発展の原動力に転化していくのです。しかし、いかに信仰が希薄になろうとも、原初における信仰は決して完全には消滅しないはずです。
信仰は、どこまでも個人の内面の問題ですが、経済主体が企業になったとき、原初の信仰はどうなったのでしょうか。
資本主義の原点においては、成長の担い手は、個人の手工業者でした。そして、その手工業者の内面を支えたのは、宗教的な救済への信仰だったのです。その後、現代資本主義の形成において、成長の担い手が内部組織をもった企業に変わったとき、その企業の内部組織を支えたものは、企業内で共有されてきた何らかの世俗的な確信だったのではないでしょうか。例えば、成長への確信というようなものです。
資本主義の競争社会を生きることは、不確実性への賭け以外のなにものでもありません。賭けの結果は、神のみぞ知るものです。神の目から見れば、淘汰されていく企業も、革新の連続により成長を続ける企業も、予定されているのですが、結果が不可知である限り、成長への確信を得るために、不断の経営努力を続けなくてはなりません。この構図は、資本主義の原点における信仰と勤労の関係と同じではないでしょうか。
ただし、確かに、この確信は個人の内面のものではあり得ません。そうではなくて、それは、組織内で共有されるもの、即ち、創業の神話、企業の伝統、文化、風土、理念、哲学などと呼ばれるべきものではないかと思われます。いずれにしても、それは、間違いなく、創業者や経営者の個人的確信ではなくて、それが組織化し、組織内で空気のように自然に共有され、呼吸され、組織の所属員の行為を自然に律するものとなっていなければならないはずです。ちょうど、信仰が生活の欠くことのできない一部であるように。
かつては、日本の企業では、社歌を斉唱したり、経営理念を御経のように唱えたりと、程度の差こそあれ、多分に宗教的雰囲気を醸していたものですね。
少し前までの日本に限らず、現代のグローバル経済においても、企業の存立と成長のためには、宗教的というかどうかはともかくも、信念の共同体としての象徴を必要としていることは、間違いありません。今、その象徴に適当な名前を与えるとしたら、それがブランドというものでしょう。
「××社製の製品は、やはり、違うな」とか、「××は、○○社製でなくちゃいけない」というような顧客からの評価は、とりもなおさず、その企業の価値そのものであって、それがブランドであるわけですが、顧客の評価とはいっても、実際には、神話といってもいいような思い込みに近いものでしょう。しかし、そのような神話を創造できているからこそ、ブランドとして機能し、企業価値を支えているわけです。
しかも、より重要なことは、神話は企業のなかにおいても、信じられていなければならないことです。なぜなら、企業内において信じられていない神話を顧客に振り撒くことは、欺瞞であり、顧客に対して誠実な態度ではないからです。社内において信じられている神話だからこそ、社外に対しても、神話として通用するわけです。
神話は、社外においては、自社の製品やサービスに対する顧客の信頼の象徴であり、社内においては、自社の製品やサービスに対する誇りの象徴ですが、同時に、その自負は、顧客からの信頼を裏切ることはできないという責任へと昇華されることで、ブランドとして、企業価値として、確立されるのです。
そうしますと、ブランドは、企業内における日々の革新と創造なくしては、維持し得ないものとなりますね。
現代社会の変化の速度からして、ブランドに安住したとたんに、顧客の信頼を裏切ることとなり、企業価値は崩壊するでしょう。顧客の信頼を決して裏切ることはできない、その責務の貫徹は、企業を必然的に、日々の革新と創造へ向かわせるはずなのです。
信仰は、日々新たなるものとして、精進により深められるからこそ、信仰なのです。ブランドもまた、日々新たなるものとして、企業の経営努力により、進化され、深化されるからこそ、神話なのです。神話は、日々想起され、その意味は、日々再確認されなくてはなりません。信仰に日々の祈りがあるように、神話にも、日々の儀式が必要なのかもしれません。例えば、頌歌を捧げるごとくに、社歌が斉唱されていたように。
日本は、もはや、神話を失ったようですが、どうすれば、神話を再興できるのでしょうか。まさか、社歌の斉唱の復活でもありますまいに。
企業活動は、未来の不確実性への賭けです。というよりも、人が生きるということ自体、未来への賭けです。不確実性は、不安をもたらす、その不安を超克するためには、信仰、あるいは信念が必要です。信念の自覚的側面を強調するなら、確信といったほうがいいでしょう。
飛行機は一定の確率で墜落します。にもかかわらず、飛行機に乗ることができるのは、墜落しないという信念があるからです。しかし、その信念は、少しも自覚的ではなく、心の底に眠っているものであって、確信ではありません。
同様に、昭和の時代、経済成長に対する信仰のもとで、企業活動が営まれていたとき、その信仰は、おそらくは、少しも自覚的ではなく、盲目的なものだったのでしょう。故に、不確実性が支配するようになったとき、日本企業は神話を失ったのです。
経済再生のためには、自覚的に神話を創造することが必要なのですね。例えば、技術力の神話であるとか。
高度な加工技術をもつ中小企業等が極めて困難な課題に挑戦して、それを成功させて、世の注目を浴びるというような企画は、色々となされているようですが、そうした企画自体には、おそらくは、何らの経済的意味もありません。そこで、意図されていることは、もはや神話の域に達した技術力への確信の形成なのです。
金融庁の森信親長官も、金融界における神話の創造に努力されている方ですね。
経済を再成長軌道にのせるためには、金融機能の強化が極めて重要な要件です。故に、森長官の大胆果敢な改革の断行があるのです。そのなかで、重要な役割を演じているのが徹底した顧客の視点であって、それを象徴するのは、金融仲介機能についていわれる「顧客との共通価値の創造」であり、資本市場機能についていわれる「顧客本位の業務運営(フィデューシャリー・デューティー)」です。
これら二つの概念は、全く、「葡萄畑の宝探し」の神話と同じです。金融機関が自己の利益ではなく、顧客の利益を考えて行動するとき、結果的に、金融機関の利益にもつながるということは、金融機関がもつべき確信でなければならず、その限り、それは神話なのです。その神話は、農夫の嘘と同じです。金融機関も、顧客の神話を信じることによってのみ、豊かな実りを得るのです。息子たちは、嘘を信じたからこそ、豊かな葡萄の実りを得たように。
以上
次回更新は、12月15日(木)になります。
2016/10/13掲載「金融における葡萄畑の宝探し」
2016/09/08掲載「銀行の食文化革命」
2016/09/01掲載「銀行よ、カネに豊かな色をつけてみよ」
2016/07/28掲載「創造的な闘争としての金融のリスクテイク」
2016/04/21掲載「弁護士はフィデューシャリーとして喜んで成仏すべきか」
森本紀行(もりもとのりゆき)
HCアセットマネジメント株式会社 代表取締役社長
東京大学文学部哲学科卒業。ファンドマネジャーとして三井生命(現大樹生命)の年金資産運用業務を経験したのち、1990年1月ワイアット(現ウィリス・タワーズワトソン)に入社。日本初の事業として、企業年金基金等の機関投資家向け投資コンサルティング事業を立ち上げる。年金資産運用の自由化の中で、新しい投資のアイディアを次々に導入して、業容を拡大する。2002年11月、HCアセットマネジメントを設立、全世界の投資のタレントを発掘して運用委託するという、全く新しいタイプの資産運用事業を始める。