スルメ金融からイカ金融へ

スルメ金融からイカ金融へ

森本紀行
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企業は、生きたイカのように、元気に泳ぐ生き物です。それに対して、財務諸表等の数値に表現される企業は、過去の泳ぎの一姿態にすぎず、死んで干乾びたスルメです。金融庁は、銀行等の企業融資において、スルメの成分の静態解析に基づく判断を改めて、イカの動態を評価する方向への転換を強く求めています。さて、スルメ金融からイカ金融への脱皮は、可能なのか。
 
 金融庁は、企業の生きた動態を事業性と呼んでいて、銀行等に対して、事業性の評価に基づいた融資判断を強く求めています。逆にいえば、過去の財務諸表の数値、担保の有無や担保価値、また保証の有無等の静的な基準に依存する融資では、真の金融機能の発揮はできないとの判断があるわけです。
 ここで金融庁が考えている銀行等の金融機能とは、金融支援力により、企業のもつ成長余力を解放し、もって、経済の成長に資することですから、企業活動の生きた動態に基づく融資判断は、必須のものとなるわけです。
 わかりやすく具体的にいえば、例えば、景気変動等の影響で、直前数期連続赤字に陥っていたり、自己資本の厚みが薄くなりすぎていたりする企業は、その時点の静的指標により評価する限り、銀行等の取り組みとしては、少し難しい先となるでしょう。しかし、まさに、こうした状況における支援こそ、金融の社会的機能そのものでもあるわけです。
 このことは、晴れには傘を貸し、雨が降ると傘を取り上げる、などと揶揄され、金融の解き得ない矛盾として、古くから常に問題とされてきました。もちろん、二律背反のないところに、経営能力など必要ないわけですから、銀行等の経営の要諦は、この矛盾が露呈する都度、それに真正面から対峙することによって、顧客の視点で、金融の社会的責務の貫徹を図ることであったのです。
 
論点は、経営不振が一時的なものか、構造的なものか、構造的なものとしても、改革可能なものか、ということに帰着すると思われますが、そのような判断は、銀行等になし得るものなのでしょうか。
 
 金融庁は、静的な企業の過去の断面ではなくて、企業の営む事業の未来への動的な展開力を評価して、いうなれば、企業を内側から評価して、融資判断を行うように強く求めているわけですが、そもそも、企業の外部者たる銀行等にとって、そのようなことが可能であるかどうかは、一つの問題であるわけです。
 企業の財務諸表等の静的な数値や、担保や保証の存在、担保の保守的に見積もった換価価値は、いずれも、客観的事実であって、銀行等の経営の健全性や能力の限界を考えるに、そのような客観的事実に基づく判断こそ社会的責務の履行のあり方だとする見解は、実は、正当なものであって、事実、森信親長官による改革以前の金融庁の立場は、明確に、そういうものだったのです。
 そして、森長官といえども、この正当な見解を放棄したわけではないのです。森長官のいわれていることは、数字等に表れる客観的事実だけでは、合理的な融資判断はできず、必ず、企業の事業性の将来展開力に対する何らかの判断を介在させないわけにはいかないはずだということです。つまり、あまりにも表層化した銀行等の形式主義を批判されたまでのことなのです。
 生きたイカの泳ぎを観察するだけでは、融資判断に必要な情報を得ることなど、不可能です。やはり、死んだイカを解剖したり、スルメに干したりして、成分等の解析をしなければなりません。これは、必須のことです。しかし、逆に、スルメからは、イカの動態を知ることはできません。
 また、イカとともに泳ぐことなど、銀行等にはできません。肉体的に不能です。しかし、だからといって、イカとともに泳ぐ気概なくして、真の融資が可能だとも思えません。解剖学なくして医学はなりたたず、解剖学では、患者を、精神的にも、肉体的にも、救えないのと同じことです。
 
金融のスルメ化、あるいは解剖学化は、融資だけのことではなくて、金融全般に広く蔓延した病理のようですが。
 
 例えば、投資運用業において、ある企業の発行する株式に投資するとき、本来は、生きたイカの事業に参画することでなくてはならないのですが、現実には、株券というスルメを取得しているだけではないのか、そのような疑問は、当然に、金融庁も抱いているはずです。ところが、極めて遺憾なことなのですが、現在の業界人のうち、銀行等の融資について金融庁が抱く問題意識を、自分の業務に引き付けて考えている人は、稀有なのでしょう。実に、残念です。
 融資は、いかにスルメ化しても、生きているイカとしての企業との関係性のなかで、実行されているわけで、本来的にイカ金融なのであって、金融庁のいっていることは、スルメ化したイカ金融の是正にすぎませんが、公開市場で取引される株式や社債は、制度的に、客観的な開示情報をもって完結するものなのですから、本来的にスルメ金融なのです。
 故に、投資運用業において求められることは、スルメ金融のなかに、いかにして、発行体企業の未来へ向けた動態をとらえるかというイカ金融的な努力なのであって、そこに、企業調査の本質があるのです。そして、その先に、いわゆるスチュワードシップ活動や、エンゲイジメントとよばれる発行体企業の経営との関係性の構築、即ち、程度の差こそあれ、何らかの経営への関与があるわけです。
 金融庁の施策は、首尾一貫したものとして、スルメ化した融資のイカへの回帰を強く求めると同時に、もともとスルメである投資のイカ化も強く求めているということです。
 
投資のなかでも、プライベートエクイティは、完全なイカ金融ですね。
 
 非公開企業の議決権を握って行うプライベートエクイティ投資は、極めて深い関係性のもとで、事業そのものへ投資することであって、まさに、生きたイカの動態に密着し、イカとともに泳ぐことですから、これぞイカ金融の王道というべきものです。
 資産運用では、世界的な傾向として、プライベートエクイティのようなプライベートな関係性のなかでの投資が拡大しています。また、融資についても、銀行等から資産運用業界への移転が進んできています。また、不動産等の実物資産投資も拡大していますが、これなど、資産の経済価値そのものを取得するわけですから、イカを生きたまま保有するようなものです。
 投資の世界の潮流は、明瞭に、イカ金融の強化なのです。
 
投資や融資のように、産業界への資金供給に関しては、顕著にスルメ金融からイカ金融への転換が進んでいるようですが、個人金融サービスにおいても、スルメからイカへの動きは必要ですね。
 
 金融機関として、預金、投資信託、保険、住宅ローン、その他の消費者ローン等の業務を取り扱うとき、本来は、そこには、生きて、動いて、悩んで、苦労し、喜んでいるイカとしての顧客がいるはずです。しかし、実際に金融機関の人間の見ているものは、年収、職業、年齢、家族構成等の一定の属性に還元されたスルメとしての顧客なのではないでしょうか。
 あるいは、スルメとしての顧客すら見えておらず、自分の手元で処理しなければならない事務手順と、記入されなければならない書類等だけが見えているのかもしれません。
 逆に、顧客が見たいと期待しているのは、本来は、自分の悩みや苦労を理解して、親身な相談にのってくれるはずの生きたイカとしての職員のはずですが、実際に見るものは、マニュアルに従って、干からびた説明をするだけのスルメなのではないでしょうか。しかも、しばしば、金融機関自身の利益のために行動する食えないスルメなのではないでしょうか。
 個人金融サービスは、それ自体としての価値はなく、生活の必要に密着したものとして、目的を実現してこそ、価値を生むものです。そこでは、決して、金融商品の販売や、金融サービスの提供という表層が問題ではなく、その表層の裏にある生活の必需こそが問題なのですから、生きたイカとしての人間の生活に密着しなくてはならないはずです。
 今、金融機関に求められることは、顧客を、スルメではなく、イカとして取り扱うことであって、金融庁の用語でいえば、「顧客本位の業務運営(フィデューシャリー・デューティー)」の徹底ということになります。
 
もちろん、金融規制においても、スルメからイカへの転換が起きているわけですね。
 
 金融庁の森長官は、今年の4月に、銀行規制に関して、「静的な規制から動的な監督へ」と題する有名な講演を行っています。ここで、森長官は、金融行政の目的を、金融力の強化を通じて経済の成長を実現して国民の厚生の増大を図ることとし、その目的を実現するには、外側から自己資本規制等の厳格な数値規制を課すだけでは不十分で、銀行と対面して議論することが不可欠であると述べておられます。
 つまり、銀行の現況を示す客観的な数値規制を静的に課すスルメ規制を脱して、生きている銀行の動態を対話によって把握して適切な対応をしていくイカ監督に移行すると宣言されたわけです。監督という伝統的な用語は、今では、やはり伝統的な用語である検査と統合されて、モニタリングと呼ばれていますが、それは、対話と同義と考えられています。
 静的な数字は、死んで干からびてスルメに化していますから、それとは、対話できません。対話は、生きているイカとの間でしか、成立しないのです。こうしたイカの動態のモニタリングという考え方は、銀行だけでなく、全ての金融機関に対して、適用されています。
 
森長官ほどの方はともかくも、金融庁の人は、イカの言語を話すというか、イカとともに泳ぐことができるのでしょうか。
 
 そこは、森長官の金融庁改革の要諦なのでしょう。金融庁の人にとって、イカを殺して切り刻んだり、スルメに干したりすることは、得意中の得意なのでしょうが、イカとともに泳ぐとなると、不得手というよりも、不可能事だと思われます。
 また、泳ぎの下手な金融庁がイカの金融機関とともに泳げば、泳ぎの能力に勝る金融機関に引っ張られてしまう危険性があります。これは、規制の虜(レギュラトリキャプチャ)という現象で、日本では、過去の原子力規制において、東京電力を頂点とする事業者の力の優越のもとで、機能不全を生じていたことにより、広く知られるようになりました。
 実は、金融庁がイカとともに泳ぐとしても、泳ぎの相手のイカは金融機関ではなくて、国民なのです。従って、金融庁は、必ずしも、金融機関の言語を話す必要はないのですが、国民の言語を話さなくてはならない、この徹底した顧客の視点、あるいは国民の視点は、森長官の行政手法を特徴づけるもので、それは、金融庁職員に国益への貢献を求めていることに、象徴的に示されています。
 具体的には、この10月に明らかにされた金融行政の手法に、「見える化」というものがあります。これは、金融機関のサービスの質を、国民の視点で客観的に評価できるようにして、国民の選択行動により、良いものは伸び、悪いものは淘汰されることで、全体の質の向上を図るものです。
 つまり、もはや、金融庁は、金融機関をスルメに干すこともなく、単に、国民のイカとともに泳ぐのです。ならば、金融機関も、国民のイカとともに泳げるようにならないといけない、溺れて沈むものが続出したとしても。
 
以上

 
 次回更新は、12月22日(木)になります。
≪ アーカイブから今回に関連した論考 ≫
2016/12/01掲載「投資運用業者の質の「見える化」
2016/11/17掲載「森信親長官らしい金融再編論
2016/10/13掲載「金融における葡萄畑の宝探し
森本紀行

森本紀行(もりもとのりゆき)

HCアセットマネジメント株式会社 代表取締役社長

東京大学文学部哲学科卒業。ファンドマネジャーとして三井生命(現大樹生命)の年金資産運用業務を経験したのち、1990年1月ワイアット(現ウィリス・タワーズワトソン)に入社。日本初の事業として、企業年金基金等の機関投資家向け投資コンサルティング事業を立ち上げる。年金資産運用の自由化の中で、新しい投資のアイディアを次々に導入して、業容を拡大する。2002年11月、HCアセットマネジメントを設立、全世界の投資のタレントを発掘して運用委託するという、全く新しいタイプの資産運用事業を始める。