詐欺と、詐欺紛いの行為の区別は、極めて困難です。客観的にみて、あの人は、どうも騙されているのではないかと思われるときでも、当の本人が満足していて、故に、全く騙された自覚がないときには、そもそも被害がないのだから、詐欺になるはずもないのです。
例えば、実質的価値を著しく超える価格で羽毛布団が販売されていることについて、詐欺ではないのかなと疑われても、購入した当人は、高額であるが故に高品質だと信じていて、周辺が量販店の特売品と全く同じでしょと諭したところで、でも暖かいからというのであれば、それはもう、どうしようもないわけです。
こういう商法は、間違いなく高い顧客満足度を実現するのですし、故に、撲滅することが不可能なのですが、顧客本位の姿勢であるかどうかは、大いに疑問です。もっとも、ここは経済の本質にかかわるところであって、商品が純機能的に構成されて、実質的価値を基準に価格形成されるとしたら、経済は劇的に縮小するでしょうし、おそらくは、成長への誘因を喪失してしまいますから、顧客本位を貫くことは、反経済的ですらあるでしょう。
事実として、服飾、飲食、娯楽など、現代社会の消費を支える領域においては、衣食住の実質的な機能をはるかに超えたところに、また、必需をはるかに上回って、付加価値が創出されているのですから、それを否定すれば、経済どころか、人間の文化的生活の向上そのものを否定することにもなってしまいます。あからさまにいって、無駄な消費という病理こそ、社会の進化の推進力なのです。
医療、教育、交通、金融など、無駄を排した実質的機能の向上が問題とされる分野も少なくないようですが。
おそらくは、規制業というのは、人間の社会生活にとって必要不可欠な機能を、公正な価格で、公平にいきわたらせることを目的として、規制を正当化しているのだと思われます。つまり、資本主義の原理に委ねてしまうと、供給面や価格面において、必要な機能を得られない人が生じ得ることから、規制されているということです。
ところが、規制には、弊害も多いわけです。なぜなら、規制とは、裏側において、人工的な参入障壁の構築、価格統制、競争制限など、必ず業者の保護になるからであって、保護は、不可避のこととして、業界の非効率と成長進化の抑制を生むからです。
そこで、規制手法については、適切な競争を通じた効率化と進化成長を促す工夫が必要なのですが、その要点は、結局のところ、一部に市場原理を導入することに帰着するのですから、そこには、消費の一般原則と同じように、必需を超えた需要の創造や、無駄な機能の膨張による表層的な付加価値の追求が起きるわけです。つまり、顧客本位を超えた顧客満足の追求です。
実際、医療産業や教育産業の現状、また、弁護士の広告をみればわかるように、顧客本位から乖離した顧客満足を求める需要創造が行われていることは、一般事業と同様なのです。そうなると、当然のこととして、本来の規制の趣旨にたち返った反省も生じてくるということでしょう。
今、まさに、金融において、その規制改革が行われているのですね。
金融が本来の社会的機能を超えて暴走するとき、極めて重大な帰結を招くことは、よく知られています。代表例としては、日本の昭和の時代の不動産バブル、最近では、2008年の世界金融危機の原因となったサブプライムがあります。いずれも、不動産需要に金融が応えるのではなくて、逆に、金融の力により、不動産需要を創造したことが破綻の原因となったのです。
融資を得て不動産を取得した債務者は、その瞬間には、大きな満足を感じたに違いありませんが、結果的に、多くは破産したのですから、一時の顧客満足は、顧客本位に著しく反した結果になったということですし、それを金融機関の立場からみれば、一時の大きな利益は、それを上回る巨額な損失に帰結したということです。しかも、そうした巨大損失は、金融システムをも動揺させ、更に大きな社会的損失すら齎したのです。
そこで、現在の世界の金融規制の潮流は、日本も含めて、規制強化の方向にあるわけですが、なかなか金融の病理は治まるものではなくて、今の日本でも、金融庁が強く警鐘を鳴らすように、本来の需要を超えたアパートローンの膨張などが起きているわけです。
そこで、金融庁は、強く、顧客本位の業務運営を求めるに至ったのですね。
昨年の10月に公表された当事務年度の金融行政方針では、「顧客本位の業務運営(フィデューシャリー・デューティー)」ということがいわれています。これは、括弧書きでフィデューシャリー・デューティーと呼び換えられているように、主として投資信託等を念頭に置いて、資産運用業務に関する施策として、登場しているのです。しかし、顧客本位は、何も、資産運用に限ったことではなくて、森信親長官の基本思想を示すものとして、全ての金融分野に適用される理念でしょう。
そうはいっても、投資信託の問題に関連して、金融における顧客本位と顧客満足の違いを検討することは、有益です。なにしろ、投資信託に重点を置いて、金融庁が顧客本位の業務運営を求めているということは、それだけ、投資信託においては、顧客本位と顧客満足との間の矛盾が深刻に露呈しているということだからです。
ひところ流行ったダブルデッカーなど、酷いものでしたね。
ダブルデッカーというのは、ロンドン市内を走る有名な二階建てバスのことですが、つい最近まで業界に横行していた投資信託の類型に付された綽名です。つまり、例えば、欧州の低格付社債(低格付だからこそ高利回り)に投資して、その本来は主としてユーロ建てであるはずの通貨を、もっと高金利な通貨、例えば、トルコのリラだとか、ブラジルのレアルに変換するというように、リスクが二階建てになっている投資信託のことです。
これは、誰でもわかるように、投機的ともいえるリスクをとって、表面的な利回りを人工的に高くしたものであって、その見かけ上の高利回りにより、高水準の配当を謳ったものですが、さて、それで、総合収支でも高利回りになるかどうかは、ギャンブル的なリスクの発現効果次第というわけです。しかも、こうした投資信託を作って、売って、金融機関は法外な手数料を得ていわたわけですから、金融庁が問題視したのも当然です。
それでも、売れていたということは、それなりの顧客満足があったということでしょうか。
このダブルデッカー問題を一つのきっかけとして、二年半前に、金融庁がフィデューシャリー・デューティーという耳慣れない片仮名の施策を公表したとき、金融界は、その意図を理解できずに、大変に驚き当惑したのです。
なぜなら、当時、投資信託を巡っては、法令違反の事実どころか、そのおそれすら皆無に近い状態であり、一定の顧客満足があったことの証左として、苦情殺到という事実もなく、なによりも、売れているという事実は、需要の存在を示していたからです。
しかし、それは、法令遵守は最低限の要件(金融庁のいうミニマムスタンダード)にすぎず、そのことだけでは、金融機関の社会的責務は果たせないこと、また、金融機関の社会的地位と信用のもとで、売れているという事実は、必ずしも、真の顧客需要の存在を意味しないことを、当時の金融界は理解していなかったからなのです。
なぜ、おかしげな投資信託にも、顧客満足が得られたのでしょうか。
一つの理由は、高水準の現金配当でしょう。事実上、元本を取り崩して配当し、結果として、元本の価値が低下していれば、高水準の現金配当は、少しも、高水準の運用成果を意味しないわけですが、それを素人が誤認したとしても、不思議はありません。
現金配当が好まれる背景は、高齢者の年金代替としての利用だと思われます。ですから、毎月分配が主流なのです。例えば、年率6%を分配すれば、月次で0.5%ですから、元本1000万円購入すれば、毎月5万円の配当があるので、丁度、年金の補完になるというわけです。
ところが、6%は、日本の金利状況では絶対不可能な水準ですから、投機的ともいえるリスクをとってでも、海外に投資して、表面的な数字の辻褄を合わせるしかない、こうした思考様式が当時の金融界を支配していたのです。しかも、利用目的が高齢者の年金代替ということであれば、元本価値の保全は第二義的でよいとする考え方もあったかもしれません。
そうなると、投資信託とは何か、その社会的機能は何か、という本質的な疑念に逢着せざるを得ませんね。
そこで、金融庁は、投資信託の機能を、明確に、国民の資産形成として再定義し、その機能の充実のために、金融機関に対して、「顧客本位の業務運営(フィデューシャリー・デューティー)」を求めるに至ったというわけです。ですから、ここでいう顧客本位とは、表層的な顧客満足ではないのです。そうではなくて、国民の資産形成という機能に対して忠実な投資信託事業の運営ということです。
国民の資産形成という機能からすると、毎月分配は、少しも必要でないことになりますし、ましてや、そのために、投機的ともいえる過剰なリスクをとることも、不適当になります。なによりも、高齢者という顧客属性自体にも、疑義が生じます。ということで、顧客本位の業務運営は、投資信託のあり方を根本的に革新するものとなるのです。
しかし、顧客満足はどうなるのでしょうか。確かに、投資信託に対して、資産形成という機能を求める顧客にとって、顧客本位は、同時に、顧客満足でしょうが、そうでない顧客にとっては、顧客満足にはならないのではないでしょうか。
まさに、その論点こそ、森信親長官による金融改革の要諦なのだと思われます。従来の金融庁の視点では、金融機関にとって、投資信託はどうあるべきかという問題のたて方になるのですが、今の金融庁の視点では、国民の利益の視点で、投資信託はどうあるべきかという問題のたて方になるのです。
そこで、投資信託を資産形成という機能に純化させようとするとき、そこから、不純な機能は分化させられ、それには、また別のサービスなり商品なりで、対応すればいいことになるでしょう。投機は、否定されるべきいわれはないのですが、それを投資信託にもち込むことは不適当であるし、元本をとり崩して年金化することは、それに適した方法で、低コストで実現すればいい、ただ、それだけのことです。
つまり、国民の利益の視点で金融機能を純化させて、それぞれの機能について、顧客本位を貫徹すれば、顧客本位と顧客満足は、矛盾なく両立するということです。
2016/12/22掲載「金融機関監督庁から金融機能強化庁へ」
2016/12/01掲載「投資運用業者の質の「見える化」」
2016/11/17掲載「森信親長官らしい金融再編論」
2016/04/21掲載「弁護士はフィデューシャリーとして喜んで成仏すべきか」
森本紀行(もりもとのりゆき)
HCアセットマネジメント株式会社 代表取締役社長
東京大学文学部哲学科卒業。ファンドマネジャーとして三井生命(現大樹生命)の年金資産運用業務を経験したのち、1990年1月ワイアット(現ウィリス・タワーズワトソン)に入社。日本初の事業として、企業年金基金等の機関投資家向け投資コンサルティング事業を立ち上げる。年金資産運用の自由化の中で、新しい投資のアイディアを次々に導入して、業容を拡大する。2002年11月、HCアセットマネジメントを設立、全世界の投資のタレントを発掘して運用委託するという、全く新しいタイプの資産運用事業を始める。