顧客本位ということは、顧客の求めに対して、そのまま素直に応えることではありません。簡単な話、顧客の誤認に基づいて、本来の目的とは異なる商品を購入しようとしているときは、意図を再確認して、適切な商品を供給しなければならない、例えば、女性用と男性用とがある場合に、男性が女性用を求めようとするときは、念のために、それでいいのか確認する、これが顧客本位です。
煙草についても、健康への悪影響に関する警告が大きく箱に掲示されていることは、一つの顧客本位の現れです。しかし、こうした情報は、喫煙者にとっては、疾うに承知のことですから、顧客満足を殺ぐだけのおせっかいです。また、男性が意図をもって女性用を求めようとするとき、本当にいいのか確認されることも、おせっかいとして不快に感じられる場合があるでしょう。ここに、顧客満足との関係で、顧客本位を貫くことの難しさがあるのです。
実際、販売等の営業の現場においては、顧客本位と顧客満足との間の微妙な関係を適切に処理するところにこそ、ノウハウがあるに違いありません。しかし、一般に、営業だけに、顧客満足を優先する方向に引っ張られる傾向は帯びるでしょう。煙草の警告にしても、もしも規制がなければ、あのように、煙草を吸わないほうが身のためだというような形には、決してならないはずです。
故に、重要な社会性をもつ領域においては、顧客本位の方向へ強制的に業者の行動を向かわせるために、規制があるのです。医療においては、顧客満足のために患者の欲しがる薬を処方することはできず、顧客本位で患者の病状に適した処方をしなければならないのですし、教育においては、顧客満足のために学位を濫発することはできず、顧客本位で学生の学問的能力を高める努力をしなければならないのです。
金融も、規制業として、顧客本位に努めなくてはいけないのですね。
かつて、信用金庫業界の発展に尽力した小原鐵五郎がいったように、融資を本業とする信用金庫においても、「貸さぬも親切」な場合があるのです。例えば、投機的な不動産取得のための資金などは、貸せば顧客満足を得られるでしょうが、最終的に顧客の身を滅ぼすことにもなりかねないので、顧客本位を貫けば、貸すべきではないのです。
不動産投機のような極端な場合でなくとも、企業からの融資の申し入れについては、顧客本位で深く検討するとき、遊休資産の売却や、経営合理化等によって、新規融資を不要にできる可能性もあります。そのときは、貸さないで、企業の経営改革を指導することこそ、銀行や信用金庫に課せられた社会的使命です。ときに、顧客満足に反して、顧客にとって耳痛いこともいう、これぞ、金融における顧客本位なのです。
金融庁も、重点施策として、「顧客本位の業務運営(フィデューシャリー・デューティー)」を掲げています。これは、主として、投資信託の販売と運用に関する施策として掲げられているのですが、金融庁を率いる森信親長官の改革路線からいえば、金融全般に適用のある基本理念といっていいでしょう。
特に、単なる顧客本位ではなくて、専らに真の顧客の利益のために働くべしという意味のフィデューシャリー・デューティーが括弧書きで添えられているところに、金融庁のいう顧客本位の徹底度が示されているわけです。
何が顧客の満足かはわかりやすいですが、何が顧客の真の利益かはわかりにくいですね。
融資の場合についてみると、貸せるかどうかという与信判断を行うためには、顧客企業の経営状態の分析を行わなければなりませんが、その分析は、貸せるかどうかという一点に絞った分析です。そこで、優良な財務状況のもとでは、当然に貸せるわけですが、同時に、貸す必要もなく、逆に、一時的な経営不振に陥っていれば、貸せない財務状況になっているはずですが、同時に、貸す必要が大きいという矛盾を生じます。
これは、信用分析において、借りる側の視点ではなく、貸す側の視点で、判断するからです。要は、少しも、顧客本位ではないのです。ところが、顧客本位に考えて、借りる側の視点で考えれば、借りられるが、借りないですむ方法として、何があるか、借りられないが、借りられるようにするには、どのような経営改革が必要か、という問題のたて方になる、これが真の顧客の利益を考える顧客本位の姿勢です。
ところが、ここで大きな問題が生じます。顧客本位を貫くと、貸すか、貸さないか、という単一の判断から、多様な選択肢を求めて、そのなかから最適解を探る複雑な判断に移行してしまうわけです。
複雑すぎるので、人工知能が必要だということですか。
ある閾を超えてテクノロジーが進化してしまうと、本質的な変化が起きてしまう領域があると考えられます。例えば、医療ですけれども、人間の生物としての仕組みの完全な解明が行われれば、症状から病因が直ちに特定され、最適な対処法が一義的に決定されますから、医師の機能は、医療技術上の問題に限定されて、医学上の判断は不要になるはずです。
これは、判断の機能が医師からテクノロジーに移転したのではなくて、全てが確実性のもとで既知になることで、判断そのものを不要にしたということです。判断とは、あるいは、決断とは、不確実なこと、未知のことについて、既知のことからの合理的な推論で、蓋然性の高い答えを求めることだからです。
ところが、そうした医療の夢が実現するには、まだ少し時間がかかるでしょう。当面は、未知なことについて、不確実性下で、患者の命にかかる判断をしなければなりませんが、それは、現状、医師の知識と経験に依存しているわけです。その判断の精度は、テクノロジーの利用によって、向上させることができるはずですが、こうした不確実性下の判断を代行するものが人工知能です。
与信判断でも、スコアリングという財務情報等の分析のシステム化が広く導入されていますが、これは、完全に金融機関の立場からする判断であって、少しも顧客本位ではなく、医療に例えれば、医師の立場で、自己の能力に照らして、治療可能な患者かどうかを判断するようなものです。しかし、顧客本位では、患者の立場で、どのような医療体制が最適かを判断することになります。
こうなると、処理情報量が多くて、解が多様なので、人工知能の利用が必要になるでしょう。いわば、融資のためのスコアリングという単機能システムを廃して、融資を解の一つに相対化して、総合的な企業財務コンサルティング機能を行うプロフェッショナルをロボット化するということです。
ロボットは、人間のできない高度な判断をするのでしょうか、それとも、人間のできる判断を効率化するのでしょうか。どちらにしても、人間を不要にするのでしょうか。
確実性下の問題は、必然ですから、判断不要です。判断は、常に、不確実性下の合理的な賭けであり、決断です。故に、医学の極限のように、全てが既知になれば、判断が不要になり、医療技術だけが残るのですが、経済や金融のような人間社会の問題は、人間の自由な創造性のもとで、永遠に未知な未来への賭けであり続けますから、判断はなくなりません。
真の創造とは、過去からの断絶として、未来への飛躍として、根拠なきものとして、偶然によりたち現れるでしょうから、論理的に予測できません。それは、人工知能を備えたロボットによっても不可能です。判断、というよりも決断というほうがふさわしいのですが、決断は、永遠に人間のものであり、決断からしか、社会の創造的進化は生まれないのです。そして、何よりも、ロボットは責任を負わない。決断は責任と表裏一体であり、それは永遠に人間のものです。
従って、ロボットは、少なくとも金融においては、人間ができない判断をすることもなければ、人間の判断を不要にすることもありません。では、判断の効率化のためのものかといえば、確かにそうですが、従来のシステム化とは、根本の思想において異なるということです。
例えば、情報の対称性ですね。
フィンテックという名前のもとで、金融におけるテクノロジーの利用が齎す本質的な革新が論じられていますが、そのなかの一つの重要な要素は、情報の対称性です。
典型的には、融資において、高度なテクノロジーを利用することで、債務者にかかわる巨大な情報の取得を可能にして、財務諸表等に依存していた従来型の審査に比して、与信判断の飛躍的な高度化を図ることです。つまり、債務者をよりよく知れば、よりよく与信できる、即ち、貸せる範囲を拡大でき、かつ金利等の条件の適正化を実現できるということです。
情報量の拡大は、情報収集の方法自体において、テクノロジーが利用されるのでなければ、実現しません。フィンテックの名のもとでとりあげられている技術は、この情報収集の自動化にかかわるものが多いようです。また、処理情報量の拡大は、従来からあるスコアリングなどの信用分析システムの能力を大きく上回る技術を導入しないと対応できません。ここも、フィンテックの重要な機能です。
しかし、量の拡大は、必ずしも本質的な革新を齎しません。いかに、情報量が増えても、与信判断の構造は、どこまでも、貸す側の論理で、貸せるかどうかという一点の判断に絞られるのです。こういうテクノロジーの利用は、間違いなく効率化を意味しますが、人工知能というほどの革新ではないのです。なぜなら、それは、情報の対称化とはいっても、貸す側からの対称化にすぎないからです。
顧客本位の視点があってはじめて、革新になるのですね。
情報の対称性とは、供給側と需要側、売り手と買い手が同じ情報を共有することです。融資において、貸す側が債務者情報を大量に得ても、それだけでは対称的ではありません。借りる側でも、融資以外の代替方法も含めて、サービス供給側の情報を大量に得る必要があるのです。そして、それに基づいて、需要側が最適な方法を選択できるようにしてこそ、供給側と需要側との間の真の情報の対称性が成立するのです。テクノロジーの進化は、この革新を可能にする点に、本質的な意味があると考えられます。
顧客本位の融資のあり方とは、顧客の視点で、融資を単なる一つの選択肢として含むにすぎない多様な提案をなすことであり、また、その過程で、顧客に関するより深い情報を得ることですから、まさに、情報の対称性を目指すことです。そして、このような情報の対称性の確立のためには、テクノロジーの利用が不可欠になるはずなのです。
このとき、判断の論理構造は、貸す側からの一方的なものではなくなって、双方向的な高度に複雑なものになるでしょう。まさに、人工知能が必要になる局面です。では、その人工知能に最終判断ができるかというと、それはできない。人工知能は、どこまでも効率化の道具であって、最終的な責任ある判断は、人間のものとして残る、いや、残さねばならないのです。創造的進化は、永遠に人間の決断によるものだからです。
以上
次回更新は、2月2日(木)になります。
2017/01/19掲載「顧客満足に反してこその金融」
2017/01/12掲載「顧客満足は顧客本位ではない」
2016/12/22掲載「金融機関監督庁から金融機能強化庁へ」
2016/12/01掲載「投資運用業者の質の「見える化」」
2016/11/17掲載「森信親長官らしい金融再編論」
2016/04/21掲載「弁護士はフィデューシャリーとして喜んで成仏すべきか」
森本紀行(もりもとのりゆき)
HCアセットマネジメント株式会社 代表取締役社長
東京大学文学部哲学科卒業。ファンドマネジャーとして三井生命(現大樹生命)の年金資産運用業務を経験したのち、1990年1月ワイアット(現ウィリス・タワーズワトソン)に入社。日本初の事業として、企業年金基金等の機関投資家向け投資コンサルティング事業を立ち上げる。年金資産運用の自由化の中で、新しい投資のアイディアを次々に導入して、業容を拡大する。2002年11月、HCアセットマネジメントを設立、全世界の投資のタレントを発掘して運用委託するという、全く新しいタイプの資産運用事業を始める。