これが金融庁のいう顧客本位だ

これが金融庁のいう顧客本位だ

森本紀行
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金融庁のいう顧客本位の業務運営とは、金融機関本位を顧客本位に改めることだけでなく、顧客満足を顧客本位に改めることも含みます。さて、この顧客本位の理念について、どれだけの金融機関が平易な言葉の裏にある真の意味を理解し、その前提となる自律的統制への転換に真剣にとり組んでいるのか。
 
 まず、金融庁のいう顧客本位の業務運営について確認しておきますと、これは、少なくとも現段階での具体的施策としては、投資信託の運用と販売等をはじめとする資産運用関連業務に関していわれていることです。しかし、その主旨からすれば、全ての金融機能について、理念的な次元において、適用されるべきものですし、更にいえば、金融だけではなく、一般的商業倫理として、どの産業においても通用します。
 実際、端的に顧客本位というときは、その顧客は、金融における資産運用関連の顧客に限定される理由はなく、また、金融行政の施策として資産運用関連に限って顧客本位をいうにしても、そこで論じられることに真の意味がある限り、限定をとり払っても一般的意義を有するのでなくてはなりません。そうでなければ、金融行政としての有効性もないといわざるを得ないのです。
 ただし、逆に、商業道徳の常識として受けとられてしまうと、金融庁の施策としての重要な意味が見失われてしまいます。金融庁のいう顧客本位は、決して日常用語としての顧客本位そのものではないことに十分に注意しなくてはならないのです。
 
顧客本位というのは、言葉のうえでは自明な常識のようでいて、裏に金融行政の深い含意があるということですが、具体的には、どういうことでしょうか。
 
 金融庁においては、顧客本位の業務運営という表現に整理する前に、同じ概念をフィデューシャリー・デューティーという難しい英米法の用語を借用して説明していました。もはや、この事実だけで、顧客本位が日常語の範囲を超えるものであることがわかるはずです。
 つまり、顧客本位の本質はフィデューシャリー・デューティーの理念のなかにあると同時に、その用語が使われなくなったという事実は、顧客本位がもつフィデューシャリー・デューティーを超える射程の長さを意味するということです。そこで、まずはフィデューシャリー・デューティーとは何かを深く検討し、更にフィデューシャリー・デューティーをも超えるところに高度な顧客本位の本質をとらえる必要があるということです。
 
では、フィデューシャリー・デューティーとは何でしょうか。
 
 フィデューシャリー・デューティーは、フィデューシャリーが負うデューティー、即ち義務です。では、フィデューシャリーとは何かというと、他人からの高度な信頼のもとで職務を執行する人のことです。問題は、単なる信頼ではなくて、高度な信頼であることです。この高度な信頼には、信頼と区別して信認という言葉が使われます。
 つまり、人間関係は、信頼の程度の差こそあれ、全て信頼関係なのですが、その信頼について、ある高度な水準が観念されて、その水準を超えた人間関係、即ち信認関係について、その信認を守るべき義務を負う人がフィデューシャリーであり、その義務がフィデューシャリー・デューティーというわけなのです。
 信頼の高度さについて客観的な基準を認定することは、フィデューシャリー・デューティーが法規範として機能している英米法の国においてすら、必ずしも容易ではありません。しかし、資産の管理運用を他人に一任する場合、受任者がフィデューシャリーであることについては疑われておらず、事案も多く紛争も多いことから、長い歴史のなかで、判例によりフィデューシャリー・デューティーの中身は具体化されています。
 それを煎じ詰めれば、第一に、専らに顧客のために働くということ、即ち、最高度の忠実義務であり、利益相反の完全な排除であって、第二に、専門家としての高度な知見を前提にして最善をつくすこと、即ち、最高度の注意義務となります。
 要は、フィデューシャリー・デューティーとは、従来の日本法のもとで考えられてきた忠実義務と注意義務について、適用の範囲を広げ、質の高度化を図る理念であるということです。そして、忠実義務の高度化の方向に、金融機関の利益に対して顧客の利益を絶対的に優先させることが、注意義務の高度化の方向に、表面的な顧客満足を得ることではなくて真の顧客の利益に適うことが、それぞれ導かれてくるのです。
 
なぜ、フィデューシャリー・デューティーという言葉が使われなくなったのでしょうか。どこで顧客本位はフィデューシャリー・デューティーを超え出たのでしょうか。
 
 第一の理由は、日本におけるフィデューシャリー・デューティーは理念にとどまるのであって、それを規範として具現化する必要があることです。故に、金融庁において、「顧客本位の業務運営に関する原則」として、客観的な規範に再構成されたのです。
 ただし、この規範は、法令上の根拠に基づくルールではなくて、各金融機関が自己のプリンシプル、即ち経営原則として、自律的に定めるもの、いわゆるソフト・ローと呼ばれるものです。ソフト・ローのもとでは、コンプライ、即ち受け容れて準拠するか、あるいは、エクスプレイン、即ち受け容れないで、その理由を説明するか、その選択が金融機関の自律的な経営判断に委ねられます。
 これに対して、英米法におけるフィデューシャリー・デューティーは、ソフト・ローではなくて、法律、即ち柔らかくない本当の堅いローです。ここも、顧客本位がフィデューシャリー・デューティーと大きく異なる点です。
 第二の理由は、英米法のフィデューシャリー・デューティーは、資産の管理運用業務に関する限り、歴史的に内容の具体化がなされていて、外延がはっきりしていることです。
 ところが、金融庁の施策としての顧客本位は、例えば投資信託については、販売、資産運用、資産管理等の広範な領域を含むものであり、対象となる業者も、外延が特定されないままで金融事業者と呼ばれるなど、広く認定されていますから、英米法のフィデューシャリー・デューティーの領域を超えてしまっているのです。
 
金融機関の側にコンプライすることへの利益誘因がなければソフト・ローは機能しないと思われますが、どこに金融機関の利益があるのでしょうか。
 
 高度な忠実義務の履行という意味では、顧客の利益よりも自分自身の利益を優先させる金融機関とは、誰も取引したいと思わないでしょう。高度な注意義務という意味では、顧客の真の意向に反しても自分にとって都合のいいものを売りつけようとする金融機関や、営業技術が優れているわりに商品内容が劣悪であるような金融機関とは、誰も取引したくないでしょう。
 ですから、本来は、公正な自由競争のもと、市場原理に委ねれば、自動的に顧客本位の業務運営は貫徹するはずです。それは、競争の激しい飲食業をみれば明らかです。そこでは、高くてまずい店が存立できる余地は全くないのです。
 このことは、金融庁自身が明確に認めるところであって、金融行政の課題は、金融庁による強制によって実現されるものではなく、顧客の選択に基づく市場原理によって、良い金融機関は伸び、そうでない金融機関は淘汰されることをもって実現されるべきだとされているのです。
 例えば、飲食業界では、各業者が同じ価格ならば質を競い、同じ質ならば価格を競うという商業の基本に忠実であることを通じて、顧客本位が貫徹しているわけで、そこでは、規制当局の強制は必要ではなく、業者の自律的な行動原則のもとの切磋琢磨があるだけなのです。そして、業者の利益は、競争を勝ち抜くことによって、結果として生じるものにすぎません。
 「顧客本位の業務運営に関する原則」というソフト・ローは、全く同様の市場原理に従い、各金融機関の自律的な経営原則のもとでの切磋琢磨を通じて、真の顧客本位を実現しようとする金融行政手法の適用なのです。もちろん、飲食業と同じで、健全なる競争を通じた顧客本位の貫徹こそが金融機関自身の利益につながるとされているわけです。
 
しかし、飲食業については、味、顧客サービスの良し悪し、内装、雰囲気、客層、価格などは、行って、座って、メニューを見て、店員に相談して、注文して、食べて、払えばすぐにわかることですが、資産運用関連の業務の場合は、そう簡単にいかないようですが。
 
 ですから、金融庁は、「見える化」ということをいっているのです。例えば、投資信託を購入すべく、金融機関へ行って、職員に相談して、説明解説を受けて、正確な価格を知り、ある商品を注文して、買って、帰って、待って、結果が実現したときに、当該金融機関の良し悪しが明瞭に認識できること、「見える化」とは、そういう意味ですが、それが実現すれば飲食業と同じ市場原理が働く、これが金融庁の考えです。
 さて、「見える化」を積極的に推進できるためには、少なくとも、価格が適正であることと、味のいいこと、即ち運用成果のいいこととは、必須の要件となります。逆に、適正価格で高品質を提供できる金融機関は、積極的に「見える化」を推進し、そうでない金融機関は、「見える化」に後ろ向きとなるでしょう。その対応の差自体も、顧客には見えてしまいます。
 「見える化」のもとで、顧客に見えてしまう指標について、切磋琢磨によって改善する努力が促され、その努力のなかでは、「見える化」の水準自体を高度化していく競争も生まれる、そのようにして、「見える化」は、相乗的に急速に資産運用の質を高めていくことで、真の顧客本位を貫徹していくと考えられます。
 
ところで、顧客本位と顧客満足は、どこが違うのでしょうか。
 
 飲食業における顧客本位がわかりやすいのは、ほとんどの場合、顧客満足に一致するからです。しかし、飲酒こそが顧客満足であるにもかかわらず、顧客の体を気遣って飲みすぎを注意するような居酒屋の親仁もいるはずです。飲酒を制止することは顧客満足に反しますが、過剰な飲酒は健康という真の顧客の利益を損なう可能性があることから、それを制止することは顧客本位となります。
 つまり、簡単に表現すれば、顧客本位とは、顧客満足を損なってでも、真の顧客の利益のためにするおせっかいだということです。ただし、おせっかいなのか親切なのかは顧客の感じ方の問題ですから、実質において親切であることが顧客本位なのです。
 この点について、金融庁は、顧客ニーズと真の顧客ニーズとの違いとしても表現しています。例えば、どのようなおかしげな投資信託でも、現に売れているという事実からすれば、そこに顧客ニーズがあり、顧客満足があるといわざるを得ないのですが、真の顧客の利益、真の顧客ニーズには反している場合もあって、そのときは顧客本位ではないということなのです。
 
顧客満足と顧客本位が相反する例として、どのようなことがあり得るでしょうか。
 
 競馬、競輪等の公営ギャンブル、また宝くじなどは、いわゆる射倖契約として、著しく顧客満足が高い半面、全く顧客本位ではありません。金融においても、FXをはじめとする投機性の高い商品やサービスがありますが、それらは、顧客満足が高いとしても、顧客本位ではありません。
 投資信託にも顧客本位とはいえない投機性のあるものがあり、現に販売されていますし、また、毎月の分配金がある投資信託は、顧客満足が高いとされていますが、元本をとり崩して分配している事案では、顧客本位に反していると考えられます。
 いうまでもありませんが、金融庁は顧客満足を否定しているわけではありません。実際、例えば、本来は賭博である競馬や競輪ですら、地方自治体等の資金調達手段として、合法化されているくらいですから、賭博とはいえない投機を金融行政として否定することはできないのです。しかし、金融機関は、顧客満足が顧客本位に反する可能性を強く念頭において、業務運営をしなくてはならない、それが金融庁のいう顧客本位の本質です。
≪ アーカイブから今回に関連した論考 ≫
2017/02/02掲載「金融のない社会のほうが望ましい
2017/01/19掲載「顧客満足に反してこその金融
2017/01/12掲載「顧客満足は顧客本位ではない

森本紀行

森本紀行(もりもとのりゆき)

HCアセットマネジメント株式会社 代表取締役社長

東京大学文学部哲学科卒業。ファンドマネジャーとして三井生命(現大樹生命)の年金資産運用業務を経験したのち、1990年1月ワイアット(現ウィリス・タワーズワトソン)に入社。日本初の事業として、企業年金基金等の機関投資家向け投資コンサルティング事業を立ち上げる。年金資産運用の自由化の中で、新しい投資のアイディアを次々に導入して、業容を拡大する。2002年11月、HCアセットマネジメントを設立、全世界の投資のタレントを発掘して運用委託するという、全く新しいタイプの資産運用事業を始める。