原理的には、ある事業を永続的なものとして開始するために、その推進主体としての企業が設立され、その事業の継続遂行のためにのみ企業の存続が求められるのであって、時間の経過とともに、企業が先にあって事業を遂行しているように当の企業が錯覚するようになるにしても、企業の原点において事業が先にあることは動かし得ないことです。
しかし、企業は、創業の事業に加えて、順次、事業の数を増やしていきます。いわゆる多角化ですが、そこには、コーポレートガバナンス上の大きな問題点を指摘し得ます。つまり、多角化が事業の合理性の視点でなされているのか、それとも、企業先にありきの論理により企業内部の都合でなされているのか、必ずしも明瞭でない場合が多いからです。
現実には、事業の立場からする多角化ではなくて、企業の立場からする多角化があり得ます。実際、裏の真の理由が企業の立場、特に企業の人事の立場に基づく場合でも、それを技術、人材、設備、販路等の経営資源の共有として正当化することは容易なのです。極端な場合、退任していく役員の再就職先の確保にすぎないことすらあり得るのだと思われます。
今日の大企業においては、事業と企業が同一である場合は稀有であって、複数の事業を営むのが普通ですから、企業と事業は全く次元の異なるものになっているのです。従って、コーポレートガバナンスも、下部の事業の次元におけるものと、上部の企業の次元におけるものとは、峻別されなくてはならないのですが、コーポレート、即ち、企業のガバナンスというからには、その核心部が企業の次元にあることは間違いありません。
では、企業の次元におけるコーポレートガバナンスの要諦は何でしょうか。
いうまでもなく、複数の事業間の真の有機的連結に基づく新たな付加価値を創出できること、即ち、事業価値の単純合計値よりも大きな企業価値を創出できること、簡単にいえば、一足す一が二よりも大きくなることに帰着します。しかし、この要請は実現することが極めて難しいのです。
このことは、古くから、コングロマリットディスカウントという現象として、知られてきました。コングロマリットというのは、多数の事業を営む企業のうち、各事業の独立性が高く、事業間の相互の関連が希薄になっているものをいいます。日本では、おそらくは、総合商社が代表例でしょう。ディスカウントというのは、割安ということで、企業の株式の時価総額が各事業の理論価値の合計を下回っている状況をいいます。
上場企業の場合、コングロマリットディスカウントが慢性化する状況では、株主に対する責任が十分に果たされているとはいえないので、ディスカウントが解消するように、会社分割や事業譲渡等を検討しなくてはなりません。これがコーポレートガバナンスの要諦なのです。
このことは、コングロマリットといえない企業、即ち、事業間に相互連関があるようにみえる企業の場合にも当てはまります。産業構造は速く変化するのですから、事業結合の合理性も時間の経過とともに失われていくわけで、企業経営は、そうした環境変化に常に適合していかなくてならないのです。それがコーポレートガバナンスの要請です。
さて、今、世を騒がしている東芝ですが、これなど、コーポレートガバナンスが全くなっていない事案なのでしょうか。
おそらくは、東芝のもつ多数の事業は、その多くが高い事業価値をもつものであり、その価値は、企業としての東芝の混迷にもかかわらず、基本的には不変なのでしょう。そして、間違いなくいえるのは、その各事業の価値の合計値を大きく下回るところに、時価総額で評価される現在の東芝の企業価値があるということです。故に、客観的な事実として、東芝のコーポレートガバナンスが全く機能していないことは明らかであって、事業価値を毀損する企業経営がなされているというほかありません。
東芝の現況というのは、原子力事業等の特定の事業の損失により、他の事業の価値が消し飛んでしまっているということですが、その損失は過去の経営判断に起因するものです。重要なのは、もはや動かし得ない過去ではなくて、自由に設計し得る未来です。では、今の東芝の経営において、将来に向かって企業価値を事業価値の合計値にまでに戻す真剣な努力がなされているかというと、到底、そのようにはみえません。
事業の切り売りがおかしいのでしょうか。
切り売りという表現は、事業売却自体が目的となって、そこに何らの未来へ向かっての戦略がないということを意味しているはずです。ならば、確かに事業の切り売りはおかしい。
では、なぜ事業売却を急ぐかというと、売却益を計上しない限り原子力事業等に内包する損失を埋めることができないからであり、なぜ損失を埋めなければいけないかというと、そうしなければ企業の存亡が危機に瀕するほどの巨額債務超過になるからであって、そこには企業の存立だけが目的としてあり、その存立の目的であるはずの事業戦略はないのです。こういう事態をコーポレートガバナンスの不在というのでなくして、何と呼ぶのでしょうか。
そもそも、簡単に事業の切り売りができるということなら、事業結合の付加価値という本来の企業としての東芝が追求してきたはずのものは、何らの実態もなかったということなのでしょうか。東芝というのは、単なる無秩序な事業の集合だったということなのでしょうか。
守るべき中核事業のために他を捨てるということなら、それもまた、未来へ向けた一つの戦略ではないでしょうか。
その通りですが、今の東芝は、何が守るべき事業なのか、残された事業の相互連関はどうなるのかということについて、未来戦略を公表することなく、企業の存立のためだけに奔走しています。
東芝の価値は、第一義的に、東芝の個々の事業価値の単純合計であって、東芝という企業は、第二義的に、その上に事業結合による付加価値創造するためだけにあるのです。にもかかわらず、今の東芝では、事業と企業の地位が逆転して、企業の存立だけが経営課題になってしまっているのです。
では、本来、東芝は、どうすべきだったのでしょうか。あるいは、今後、どうすべきなのでしょうか。
まず、巨額損失を内包しているとされる原子力事業等について、その事業価値を明らかにすべきです。その際、損失は過去の経緯から生じているのですから、未来に向かっての事業価値とは何ら関係はないわけです。大切なのは、過去の損失を切り離した後に残る未来に向かっての事業価値です。
ところで、一般に、ある事業が未来に向かって価値を完全に喪失するとしたら、過去との断絶ともいえるほどの劇的な環境変化を想定しなければならず、それは極めて稀な事態であると考えられます。故に、東芝において、原子力事業等の大きな問題があるとされる事業についても、一定の価値があると考えるほうが自然なのですから、それらを戦略的に中核事業と位置付け続けることには誰も反対できません。
しかし、仮に一時的であるにしても、おそらくは、事業価値の大幅な減少が生じているのでしょうから、その未来へ向けた損失と、過去に発生した損失とを合わせて償却しなければなりません。その減損額は巨額でしょうが、それでも、未来へ向けた事業性がある限り、そして、経営の意思として事業継続に賭ける限り、損失計上すればいいことです。
損失計上すれば巨額な債務超過は避け得ず、故に、損失の穴埋めのために事業売却を急ぐことから、見かけ上は、戦略なき事業の切り売りになっているだけではないでしょうか。東芝には、それなりの覚悟があるのではないでしょうか。
そうした東芝に対する見方は、おそらくは、最も好意的なものです。かなり疑わしいですが、一応は、その線にそって考えてみましょう。
要は、問題の核心は、債務超過が問題となるのは金融債務があるからで、それに対して、どのような金融的な手当てがあり得るかということに帰着します。理論的には、債権を放棄してもらうか、自己資本を補強するか、その二つの方向にしか解はないのです。
債権の放棄を求めるためには、法的な手続きに移行せざるを得ず、その場合には、銀行等の金融債権者の利益が問題となるだけではなくて、株主、債権者、顧客、取引先、従業員等の全ステークホルダーの利益衡量が考えられなくてはなりませんから、大変に面倒なことです。そして、おそらくは、社会的損失の大きな処理方法となるでしょう。
故に、自己資本強化の方向が望ましいわけです。さて、そのためには、二つの方向があり得て、一つは、現に東芝が行っているように、事業や資産を売却して含み益を実現することです。もう一つは、外部資本を調達することですが、それには、普通株式の発行だけではなく、優先株や劣後債等のメザニン調達もあり得ます。
一般に、東芝のような事案では、自己資本不足は一時的な問題だと考えられますから、未来に向かって根本的に企業戦略を変えてしまうような事業売却を避け、また株価が低迷しているときに大量の普通株式を発行して希薄化を招くことも避けなくてはなりません。故に、まずは非中核事業や資産の売却を行い、そのうえで優先株や劣後債等のメザニンの発行が検討されるべきです。
そこで、東芝について疑問になることは、なぜ中核事業の売却が検討され、メザニン等の手法の検討がなされないのかということです。
資本不足が巨額すぎて、メザニン調達の現実味がないからであり、また、大きな中核事業を売らない限り必要な売却益が見込めないからではないでしょうか。
一つには、日本の金融構造の問題があることは間違いありません。企業金融において銀行が圧倒的に大きな地位を占める現状のなかでは、メザニン等のように融資機能の限界を超えた事案は処理しにくいわけです。
しかし、最近では、東芝のような一時的自己資本不足の事案も多く、金融界でも多少の創意工夫はなされてきていて、メザニン等の発行も珍しくはなくなっています。それでも、確かに、東芝の事案は金額的に限界を超えているでしょう。そこで、必要額から逆算して、半導体事業なら損失に見合う価値があるはずだから、というような事業売却の発想になるのでしょう。
もっとも、そうした発想のもとで事業売却していけば、東芝という企業の存在意義は小さくなっていくでしょうが、東芝を離れた事業も、かろうじて東芝に残る事業も、それゆえに、あるいは、それにもかかわらず、成長発展していけば、それで社会的には何らの不都合もないので、どうでもいいのです。
ノー・モア・トーシバといいますか、今後の日本のコーポレートガバナンス改革に与えた衝撃は大きいので、ここから学ぶべきことは多いですね。
第一に、コーポレートガバナンスの二層、即ち、事業経営の次元と企業経営の次元、この二つが全く異なることについて、日本の経営者は深く反省すべきです。東芝には、明らかに、事業経営者はいるにしても、企業経営者はいません。このことは、実は、日本のほとんどの企業に当てはまるでしょう。ここに、日本のコーポレートガバナンス改革の最大の論点があります。
第二に、企業戦略の合理化を貫徹できるように、金融を高度化することが必要です。鍵は、過去の損失を早急に処理し、経営資源を常に未来に向かって活用できるようにすることであって、そのための一時的損失を補完するメザニン等の金融機能の高度化が必要なのです。
以上
次回更新は、3月23日(木)になります。
2017/02/16掲載「ポピュリズムを克服した東京電力の成長戦略」
2016/07/21掲載「なぜキヤノンのマスゾエ的行為は批判されないのか」
2014/07/17掲載「オブジェクトへの金融」
森本紀行(もりもとのりゆき)
HCアセットマネジメント株式会社 代表取締役社長
東京大学文学部哲学科卒業。ファンドマネジャーとして三井生命(現大樹生命)の年金資産運用業務を経験したのち、1990年1月ワイアット(現ウィリス・タワーズワトソン)に入社。日本初の事業として、企業年金基金等の機関投資家向け投資コンサルティング事業を立ち上げる。年金資産運用の自由化の中で、新しい投資のアイディアを次々に導入して、業容を拡大する。2002年11月、HCアセットマネジメントを設立、全世界の投資のタレントを発掘して運用委託するという、全く新しいタイプの資産運用事業を始める。