弊社は、大口の機関投資家だけを対象とした投資運用業者であって、しかも、顧客ごとに真に顧客が求めるものを個別に提供しているので、一件当たり極めて大きな金額が必要となります。故に、自分の資産を弊社に預けて運用してもらうことは、残念ながら、富豪でもない私には不可能なのです。もちろん、残念なのは、富豪にあらざる我が身ではなくて、自分の資産を自分で運用できないことです。
ただし、私のささやかな資産は、その大半が弊社株式なのであって、その株式の価値は弊社の投資運用業者としての価値に依存し、その投資運用業者としての価値は弊社の運用能力に依存する以上、私の資産の大半は弊社の運用能力に賭けられているのです。しかも、極めてリスクが増幅された格好で賭けられているのです。
今のところ弊社では個人投資家向けの投資信託の運用は行っていませんけれども、いつか投資信託の運用を始めることがあれば、また始めたいとも思っているのですけれども、そのときは、そこに自社株式以外に残された私の僅かの資産を投資することは当然であると考えております。
そうした思いは、日本の投資運用業界では、稀でしょうね。
そうした思いが稀であるよりも、私のような境遇に身を置くものが稀なのです。日本では、資産運用の専門家が独立して自分たちの投資運用業の会社を作ることは未だ珍しいことであって、それでも最近では、そうした会社も増えてはいますが、大きな会社に成長したものは少ないのです。
しかし、大きな金融機関に所属していても、投資運用業や、それに関連する事業に携わる限りは、意識の問題として、自己の人生を賭けて業務に従事するのでなくてはいけません。それは、投資運用業では高度な専門家としての能力が求められるからです。
専門家は自分の能力だけで生きる、つまり、自分の能力に賭けて生きるほかありません。だとすれば、自分の能力の成果は、自分に立ち向かう厳しい課題であると同時に、自分の分身のように愛おしいものでなければならないのです。このことは、職人と作品の関係をみてもわかります。職人は、自分の作品に永遠に満足できない、だから、精進するのですし、自分の作品のなかに自己実現する、だから、それは自己自身として愛おしいのです。
投資運用業に携わるものは、体は雇われの身でも、心は独立した誇り高き職人でなければならない、作品は会社のものでも、作品に籠めた心は自分のものでなければならない、心を安く売り飛ばすことはできない、心が籠められた作品は、顧客と自分を永くつなぐものでなければならず、顧客と自分との共通価値の証でなければならない、これが投資運用業の要諦です。
その自己の心を籠めたものに自己の財産を投じることは、少なくとも理念的には当然至極のことであって、そこにこそ投資運用業の哲学的基礎があるのです。
その哲学的基礎の確立には、ほど遠い業界のようですが。
私は、かつて遠くもない過去において、業界の集まりで、某投資運用業者の代表が述べた言葉を忘れることができません。彼は、日本の投資信託の根本的な問題点を指摘して、「何よりも問題なのは、我々専門家の目からみて買いたいと思える商品が全く存在しないことである」と断じ切ったのでした。お見事です。実に的確に日本の投資信託の問題点を突いています。しかし、お馬鹿です。君は、評論家ではないのだ、そのような堕落した業界にした重責を負う当事者なのだ、そのことを忘れては困ります。
こうした発言がまかり通る業界のなかで、弊社は孤高の立場を維持してきたのですが、森長官のもと、ついに金融庁が業界改革の断行に踏み切ったので、弊社も改革推進に多少とも寄与できるように微力ながら努力しているところです。
自分が買いたいものしか自信をもって他人には勧め得ない、それは真実ですが、自分が買いたくないものでも堂々と顧客には勧め得るとしたら、現実は狂っていますね。
いまでこそ、金融庁は資産運用改革の柱として「顧客本位の業務運営に関する原則」というソフト・ローを定めていますが、もともと、この原則の理念的側面はフィデューシャリー・デューティーという英米法の概念を借用して説明されていました。それを煎じ詰めれば、専らに顧客のために最善を尽くすということに帰着します。
このことは、自己もしくは第三者の利益を一切顧みないという最高度の忠実義務と、職業的専門家として最善を尽くすという最高度の注意義務を内包するわけですが、立場を変えて専門家として自分の財産を運用することを考えてみれば、専らに自己の利益のために他人の利益を顧みずに最善を尽くすに決まっていることから、他人の資産を自己の資産と全く同じように運用すれば、フィデューシャリー・デューティーが貫徹することは明らかです。
資産運用の場合は、結果を保証し得ない以上、専門家として専らに顧客の利益のために最善を尽くすことは、自己の信じる最善を尽くすこと以上にはなり得ないわけで、その社会的評価は専らに結果に基づいてなされるにしても、自己の信念を貫いた以上、いかなる評価をも受け入れるほかないのです。そこに、専門家としての厳しい生き方があります。
その厳しさは、自己の財産をも自己の信念に賭けることをもって、一段と明確になります。逆に、それだけの厳しさをもって臨まない限り、真の最高度のフィデューシャリー・デューティーの履行はなされ得ないのです。
そもそも、自分の信じないものを売ることは、道義に悖りますね。
何を売るにしても、顧客の評価において優れているかどうかはともかくも、自己評価としては自信をもって優れているといえるのでなければ、商業は道徳的になりたたないでしょう。まずは、この道徳的基礎があり、そのうえに顧客の評価と自己評価が一致するという事実があってはじめて、商業が経済的に成立するのです。この原則について、投資運用業が例外であるはずもありません。
音響機器、車、オートバイ、カメラなど、ある種の趣味的なものに特別な思い入れをもつ人は少なくないでしょうが、おそらくは、そういう人は、メーカーにもこだわりがあるはずで、そのメーカーこそが理想的な就職先として想念されるものなのではないでしょうか。自分の愛するものを作り、信念をもって顧客に売ることで生計が立つなら、それに勝る喜びはないでしょう。
実際、そのような商品の場合、顧客もまた全く同じ価値観で購入しているわけですから、そこには、買う人と売る人の間に、共通価値があるのです。こうした関係性のうえに事業が構築されていることは、長期的に持続可能な安定利益を生むものとして、商業の王道を実現するものにほかなりません。
念のためですが、道徳的だから持続可能な利益を生むのではありません。顧客との共通価値を実現するから持続可能な利益を生むのです。顧客との共通価値を実現している限り道徳に反しない、道徳に反しないから持続可能なのです。つまり、商業は道徳ではないのですが、反道徳的な商業はあり得ないのです。
反道徳的商法は、心を病ませるが故に持続可能性がないということでしょうか。
悪徳商法を悪徳と思わない人もあるようで、そのような人にとっては悪徳も持続可能でしょうが、いつかどこかで顧客の側の心が病むとき、持続可能性がなくなるのではないでしょうか。ましてや、普通の人なら、よくない商品であることを内部者だからこそ熟知しているときに、よいと偽って顧客に売ることは精神的に持続可能ではありません。
そもそも、ごく簡単に考えて、楽しいから続き、どこにも社会的損失がないから続くのであって、楽しくなければ続かないし、社会的損失が発生すれば、楽しくても、そこで終るわけです。いいものを作るから楽しく、いいものが顧客に喜ばれるから楽しく、顧客が喜んでいる限り社会的損失はあり得ないから、そのような構造をもつ事業は持続可能な利益をあげるのです。
働き方改革の本質は、実は、その辺にありそうですね。
働き方改革の問題は、おそらくは、第一義的には、物理的な労働時間の問題ではないでしょう。そうではなくて、精神的な労働時間の問題ではないでしょうか。楽しいはずもない単純作業を長時間やれば、肉体的によりも、精神的に疲弊するのではないでしょうか。楽しい時間は短く感じられ、楽しくない時間は長く感じられます。労働を楽しくすることが先決課題なのだと思われます。
感覚の問題だけではなくて、楽しいからこそ、創意工夫が行われる面も重要です。創意工夫は作業効率の改善につながり、それが真の意味で労働時間の短縮につながるのです。故に、創意工夫自体も楽しいものになるのです。
自分の信じるものを、自分が好きなものを、顧客に勧めることは、楽しいでしょう。少なくとも、自己を偽る精神的な負担はないはずです。それに対して、自分が信じてもいないもの、欠点を熟知しているもの、自分の嫌いなものを、単に生活のためだけに、無理に顧客に勧めることは、楽しいでしょうか、心を病む原因とはならないでしょうか。
金融庁が金融機関に横行するノルマ営業を厳しく批判するのは、いうまでもなく、こうした論点に基づくのです。ノルマ営業自体が問題なのではありません。ノルマ営業の対象となる商品の質が問題なのです。質がよければ、従業員は喜んで売り、顧客も喜ぶ、そういうときに、なぜノルマなど必要なのか、ノルマが必要なのは商品の質が悪いからではないのか、そう金融庁はいっているのです。
働き方改革が注目されるきっかけになった電通問題も、同根ですね。
広告とは何なのでしょうか。出来の悪い商品の質を偽って売りやすくするための工夫でしょうか。そうならば、そのような愚劣な努力のために長時間こき使われたら、自殺したくなるかもしれません。
真の広告とは、商品のよさを前提として、よい商品だからこそもつ需要創造の力を解放することではないのでしょうか。ならば、広告代理店の真の顧客は、依頼主ではなくて、依頼主の顧客です。おそらくは、依頼主の満足を得ようとすることは、楽しくもなく、ときに苦痛でしょう。しかし、真の顧客の立場にたって顧客本位の広告を考えることは楽しいでしょう。少なくとも苦痛ではないはずです。
電通は、とうの昔に、広告の哲学を忘れてしまったのかもしれません。広告の真の顧客を見失い、依頼主の歓心を買うためだけの広告を作り、結果として従業員に苦痛な長時間労働を強いる、その本質的な病理を表層的な労働時間の問題に矮小化しているのならば、電通に未来はありません。
金融庁のいう顧客本位は、それが真の顧客本位である限り、従業員本位につながりますね。
顧客本位と従業員本位とは、企業本位の否定形である点で共通するものがあります。顧客の接点は、抽象的な企業ではなく、企業で働く生身の人間です。顧客も人間であり、法人顧客といえども、その接点は、そこで働く生身の人間です。人間と人間の間に共通価値の創造がなされる限り、双方共に楽しいのですから、それは顧客本位であり、同時に従業員本位です。
顧客本位を真剣に考えれば、その先に従業員本位がみえてきて、働き方改革の真の意味がみえてくるはずです。そうなれば、その投資信託を売る君よ、自分でも買いたいと思うか、そう問い質す必要もなくなるのです。
2017/03/09掲載「これが金融庁のいう顧客本位だ」
2017/01/19掲載「顧客満足に反してこその金融」
2017/01/12掲載「顧客満足は顧客本位ではない」
森本紀行(もりもとのりゆき)
HCアセットマネジメント株式会社 代表取締役社長
東京大学文学部哲学科卒業。ファンドマネジャーとして三井生命(現大樹生命)の年金資産運用業務を経験したのち、1990年1月ワイアット(現ウィリス・タワーズワトソン)に入社。日本初の事業として、企業年金基金等の機関投資家向け投資コンサルティング事業を立ち上げる。年金資産運用の自由化の中で、新しい投資のアイディアを次々に導入して、業容を拡大する。2002年11月、HCアセットマネジメントを設立、全世界の投資のタレントを発掘して運用委託するという、全く新しいタイプの資産運用事業を始める。