顧客本位な金融機関は、そうでない金融機関に負けるのか

顧客本位な金融機関は、そうでない金融機関に負けるのか

森本紀行
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顧客本位金融庁が強力に推進する施策ですが、その実現については、新しい行政手法の実践として、法令等の強制力のあるルールの策定は行われず、全て金融機関の自治自律に委ねられています。故に、可能性としては、真面目に顧客本位に取り組む金融機関の顧客に対して、顧客本位を口先だけでいう金融機関が攻勢をかける、あるいは、その逆の構図もあり得るわけですが、さて、勝ち目は、どちらにありや。
 
 もう昭和の不動産バブルも遠い昔のことに属しています。思い起こすに、当時の金融機関の経営において、今の金融庁がいう顧客本位が貫徹していたのならば、投機的な不動産取得を目的とする資金需要に対して融資がなされることはなく、バブルは起き得なかったのではないでしょうか。
 
顧客本位を象徴する「貸さぬも親切」の哲学ですね。
 
 信用金庫業界の指導者であった小原鐵五郎の名言に、「貸すも親切、貸さぬも親切」というのがありますが、これは、顧客の資金使途を検討し、貸さないほうが顧客の真の利益に適うと判断したときは、融資を断るという経営姿勢を表現したものです。まさに、バブル期の不動産の投機的取得を目的とした融資の申し込みこそ、その典型的な事案というべきです。
 ところで、顧客の資金使途の正当性を問題にすることは、金融機関の立場からいえば、真の顧客の利益に基づく経営支援としての適切な助言であって、顧客本位そのものなのですが、それが顧客に理解されるかどうかはわかりません。ありがたい親切と思うかもしれませんし、余計なおせっかいだと思うかもしれません。つまり、顧客本位と顧客満足は必ずしも一致しないのです。
 しかし、その不一致は、金融機関の判断が正しければ、必ず解消されます。実際、融資が受けられなかったので投機的な不動産取得ができず、その結果、幸いにも、バブル崩壊による損失を回避できたのであれば、融資を断られたときは怒った人も、断ってくれた金融機関に深く感謝したことでしょう。
 こうして、顧客本位の貫徹は、顧客の真の利益に適う限り、一時的な顧客不満足になるかもしれませんが、最終的には顧客の現実的な利益となり、顧客満足につながるのです。そして、重要なことは、融資を実行していたならば避け得なかった債権の不良化を免れることで、同時に金融機関自身の利益にもなっていることです。顧客本位とは、顧客と金融機関の利益の方向性が一致することにほかならないのです。
 
バブル期の現実の問題として、他の金融機関が挙って融資残高を伸ばすなかで、自分のところだけ顧客本位を貫徹することはできたでしょうか。
 
 小原鐵五郎が理事長を務めていた城南信用金庫のウェブサイトには、次のような記述があります。
 「かつてのバブル期において、大手銀行は、株式や土地、ゴルフ会員権、変額保険などの投機を取引先に勧め、そのための融資を積極的に融資しました。その後のバブル崩壊、デフレ経済により、取引先は多額な損失を被り、不健全な融資を勧めた銀行に社会的批判が寄せられましたが、こうした中でも城南は「貸すも親切、貸さぬも親切」の姿勢に徹し、取引先のためにならない投機的な融資は断ったため、取引先に損害をかけず、同時に健全経営を貫くことができました。」
 これを信じる限り、少なくとも城南信用金庫においては、顧客本位を貫徹して顧客との間に共通価値の創造ができていたようです。しかしながら、他に顧客本位を貫徹できた金融機関があったにしても、その数は少なかったに違いありません。
 
やはり、集団心理的行動は避け得ないのではないでしょうか。
 
 顧客本位というのは、金融庁がいうところのプリンシプル、即ち行動原則であって、原則である以上、それは不変不動のものでなくてはならないのですから、同業他社の動向や短期的な収益変動などの環境要因によっては左右され得ないのです。
 つまり、城南信用金庫では、バブル期における例外として、顧客本位のプリンシプルが確立されていたということです。金融行政の視点では、こうした個社の問題よりも重要なことは、金融機関の大勢において顧客本位のプリンシプルが確立されていれば、バブル自体が起き得なかった、つまり、金融システムの不安定要因を排除できたということであり、金融庁の用語でいえば、マクロプルーデンスが働いたはずだということです。
 そもそも、バブル的狂熱に翻弄されるのは、心理的弱さが原因なのですが、心理的弱さを克服するための必須の要件こそ、プリンシプルの確立であるわけです。
 
心理的要因だけでなく、短期的な収益追求にも問題があるのではないでしょうか。
 
 顧客本位の徹底は、短期的には顧客不満足に帰結する可能性があるように、短期的な収益機会を積極的に放棄しなければならない可能性をも意味します。しかし、それが顧客の真の利益に適うのならば、中長期的には顧客満足に帰着し、顧客との共通価値の創造を通じて、金融機関の中長期的な企業価値の向上につながっていくのです。
 そもそも、短期的な収益課題に翻弄されるのは、中長期的な企業価値の向上を図る経営戦略が欠如しているからであって、顧客本位の貫徹というプリンシプルを確立することは、同時にビジネスモデルを確立することなのです。実際、城南信用金庫、少なくとも小原鐵五郎の時代の城南信用金庫では、顧客本位は、経営理念ではなくて、ビジネスモデル、あるいは経営戦略として掲げられていたはずです。
 
金融の場合、差別性を作りにくい面もあって、どうしても力による市場シェアの確保が目指されるようになってしまうのではないでしょうか。
 
 差別性の全くないなかで、靴をすり減らし、頭を下げて外交して歩くことは、何らの付加価値の創出もないことであって、付加価値がない以上、真の顧客の利益に適うこともなく、結果として、金融機関の中長期的な企業価値の増大につながることもありません。
 例えば、住宅ローンの過当かつ不毛な競争にみられるように、融資業務においては、日本全体としての絶対量が伸び得ないなかで、他の金融機関の顧客基盤に攻勢をかけて自己の融資額を伸ばそうとすることは、同時に、自己の基盤に対する他からの攻勢を誘発するのですから、出口のない泥仕合となって、競争による金利低下だけが帰結して徒に体力の消耗を招いているのです。
 こうして自ら中核の収益基盤を崩壊させていきつつ、結果として生じる収益不足を、一方で、投資信託等の販売手数料等で補おうとし、また他方で、カードローン等の過剰な拡大により埋め合わせようとすることは、金融庁が厳しく警告しているように、著しく顧客本位に反することです。
 もはや、全ての金融機関は、立ち止まり、冷静に身の処し方を考えるべきです。そして、金融庁がいうように、中長期的な視点でビジネスモデルの再構築を行うべきなのです。そのとき、顧客本位の徹底のなかにしか金融機関経営の差別性はあり得ないことに気が付くでしょう。
 顧客本位における顧客とは、現にある顧客のことであって、新たに獲得しようとする見込み顧客ではありません。その顧客に真剣に向き合うことから、真の顧客の利益に適うような提案が生まれてくる、それが金融機関の差別性であって、そこにしか収益源泉はないのです。新たな顧客は、現にある顧客の先に、自然と生まれてくるのであって、そこにしか金融機関の成長戦略はないのです。
 
成長の機会は顧客のなかにある、それが顧客本位の本質だということですか。
 
 少なくとも日本の国内では、金融は量的に拡大できる見込みは全くないのです。そのなかで、体力勝負で量の拡大を図ることは、金融庁の指摘を待つまでもなく、持続可能性がありません。持続可能性のあるビジネスモデルは、顧客本位の徹底によって現にある顧客のなかから潜在需要を掘り起こしていくような質的な高度化以外にはあり得ないのです。
 金融庁の森信親長官は、しばしば、金融機関の淘汰に言及されますが、その淘汰は体力戦の果ての消耗死ではありません。そうではなくて、顧客本位に徹底できない質的に劣る金融機関が淘汰されるといっているのです。
 
しかし、仮に顧客本位の理屈を理解するにしても、また現在の競争が愚劣なものだと悟っているにしても、ひとり競争から離脱することには、どの金融機関も恐怖心を抱いているのではないでしょうか。
 
 これまで上に述べてきたことについては、どの金融機関の人も、理屈は完全に理解できる、金融庁のいうこともわかるといいます。そして、同時に、現実は理屈通りにいかない、自分だけ真面目に顧客本位に徹することはできない、そうすれば他からの攻勢の前に草刈り場になってしまうともいうのです。しかし、実は、こういう金融機関の人は根本を少しも理解していません。
 顧客本位の根本は、それがプリンシプルだということです。プリンシプルとは行動原則であり、行動原則の根本には、自主自律の経営理念があり、中長期的視点で確立されたビジネスモデルがなくてはなりません。他の金融機関からの攻勢に対する恐怖心に基づいて行動することは、その大切なプリンシプルの欠如を明瞭に露呈しているわけです。つまり、これが森長官のいう顧客本位を口先だけでいう金融機関のことなのです。
 森長官は、顧客本位を口先だけでいう金融機関、顧客本位に徹することのできない金融機関は淘汰される、あるいは、より強く、そうした金融機関が淘汰に追い込まれるように金融行政を遂行すると明言しています。顧客本位に徹する金融機関が草刈り場になって淘汰される事態など、全く想定されていないのです。
 
他の金融機関からの攻勢を恐れるということは、自分の顧客基盤の強さに自信がないということでもありますね。
 
 顧客本位の前提には、金融機関は、顧客から信頼されているものであり、だからこそ、その信頼に責任をもって応えるべき高度な義務を負うという考え方、即ち、英米法の用語を借りて金融庁がいうところのフィデューシャリー・デューティーの理念があるのです。
 信頼に責任をもって応えることで、信頼は強化されますが、そのように高度化した信頼を信認と呼びます。フィデューシャリー・デューティーを敢えて日本語にすれば、信認をうけたものが負う高度な義務となるでしょう。
 さて、他の金融機関からの攻勢を恐れるということは、自分の顧客からの信頼に自信がない、顧客の信頼を得ていないので失う可能性が大きいと心配している、そう認めるのと同じではないでしょうか。ならば、対抗策は、信頼を強化し、信認にまで高めることではないでしょうか。それは、とりもなおさず、顧客本位に徹するということです。
≪ アーカイブから今回に関連した論考 ≫
2017/06/22掲載「口先だけの顧客本位で淘汰される金融機関とは
2017/03/09掲載「これが金融庁のいう顧客本位だ
2016/10/13掲載「金融における葡萄畑の宝探し


森本紀行

森本紀行(もりもとのりゆき)

HCアセットマネジメント株式会社 代表取締役社長

東京大学文学部哲学科卒業。ファンドマネジャーとして三井生命(現大樹生命)の年金資産運用業務を経験したのち、1990年1月ワイアット(現ウィリス・タワーズワトソン)に入社。日本初の事業として、企業年金基金等の機関投資家向け投資コンサルティング事業を立ち上げる。年金資産運用の自由化の中で、新しい投資のアイディアを次々に導入して、業容を拡大する。2002年11月、HCアセットマネジメントを設立、全世界の投資のタレントを発掘して運用委託するという、全く新しいタイプの資産運用事業を始める。