銀行には顧客を賢くする義務がある

銀行には顧客を賢くする義務がある

森本紀行
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商業の一般原則として、より大きな社会的付加価値を創造してこそ、より大きな利益を得ることができることは、近江商人の「三方よし」を引き合いに出すまでもなく、常識に属することです。銀行業も例外ではなく、付加価値を大きくするために、顧客の視点に立って、よりよいものを提案することで、よりよいものを求める顧客の需要を創造していく必要があります。さて、銀行は、この基本に忠実であり得るのか。
 
 金融の常識、世の非常識といわれるように、銀行では必ずしも商業の一般常識が通用するわけではありません。なぜ、そうなってしまうのか、これは高度な難問であって、監督官庁の金融庁にも十分に解明できているとは限らないことですが、少なくとも間違いのないことは、金融行政の重点課題としては、銀行にも商業の常識の貫徹が求められていることです。
 商業の常識とはいっても、金融庁特有の用語でいえば、顧客との共通価値の創造とか、あるいは顧客本位となるのですが、金融庁自身、それを説明する際には、近江商人の「三方よし」を例にあげているのですから、特に新規な要素を含むものではないのです。
 
顧客の利益がないところに、銀行の利益もないはずだということですね。
 
 銀行が企業に融資して金利をとる、これぞ銀行業の中核ですが、さて融資を受けた企業は、その資金を事業活動に投下して付加価値を生む、付加価値を生むからこそ、そこから金利が払えるのですし、金利を払っても剰余が残るからこそ、企業の利益となるのです。また、企業が付加価値を生むのは、社会の要請に適切に対応しているからであって、そこには社会の利益もあるはずなのです。
 こうして、銀行と、銀行の顧客である企業と、社会との三者が共に利益を得ること、これが金融庁のいう顧客との共通価値創造のあり方ですし、古くから近江商人の「三方よし」といわれてきたことの本質です。
 
そうはいっても、事業には浮き沈みがありますから、いつも「三方よし」になるとは限りませんよね。
 
 「三方よし」は、「三方よし」が簡単には実現しないからこそ、行動原則として掲げられるのです。このことは、金融庁の施策においては明白で、顧客との共通価値創造とは、客観的な事実認識の問題ではなくて、銀行に対して求められている行動原則であり、その行動原則を律する理念なのです。
 例えば、金利を払ったら何も残らない、あるいは損になるようでは、企業としては、融資を受ける意味がないのですし、そのような経営状態の企業に融資している銀行としても、元本の弁済に不安が生じます。また、一定の顧客基盤と従業員や取引先をもった企業が倒産してしまえば、それなりの社会的損失は避けられません。だからこそ、そこに、「三方よし」を実現するような力が働くべきなのです。
 つまり、この場合、銀行としては、自己のもつ債権の保全のために、企業の経営を様々な方法を通じて支援する利益誘因があり、企業の側にも、経営継続のために、適切な支援を受けられるように銀行に積極的に業況に関する情報を提供する利益誘因があるはずです。しかし、銀行経営の現実においては、なかなか理屈通りにはいかないのであって、故に、金融庁の重点施策として、顧客との共通価値創造が掲げられるわけです。
 
なぜ、理屈通りにいかないのでしょうか。
 
 「三方よし」というのは、社会的価値の創出が巡り巡って自己の利益につながるとの信念なくしてはなりたたないものです。その信念を銀行が揺るぎなきものとして保持し、ときに困難に直面しても断固として貫徹することにより、銀行自身の利益も、企業の利益も、社会の利益も、中長期的に実現してくるのです。ここには、銀行の短期的な利益追求とは、相容れない側面があります。
 実際、銀行としては、業況が悪化した企業について、積極的な経営支援を行うことよりも、融資の回収を急ぐほうが容易で確実な対策かもしれませんし、企業側には、業況の悪化を積極的に銀行に知らせることで、弁済を迫られたり、融資条件の変更を求められたりするのであれば、隠しておく方向にこそ利益誘因があることになってしまい、銀行が支援しようにも、適切な時期における対応の機会を逸してしまうかもしれないのです。
 
「三方よし」が実現するためには、どうすればいいのでしょうか。
 
 理念としてのフィデューシャリー・デューティーを徹底することです。フィデューシャリー・デューティーという言葉は、金融庁の施策に登場してから未だ三年足らずですが、今では金融界を席巻する勢いで普及しています。その意味するところを煎じ詰めれば、専らに顧客の利益のために最善を尽くして働くべし、ということになります。要は、「三方よし」のいい換えにすぎないのですが、「三方」に順位をつけて、銀行よりも顧客の利益を先にすべきことを求めた点が異なるのです。
 また、フィデューシャリー・デューティーは、金融庁が日本における金融行政の方向を示すものとして利用している用語ですが、元を糺せば、英米法の概念で、フィデューシャリーが負う高度な義務を指すのです。そのフィデューシャリーとは、他人からの特別な信頼を得て職務を遂行する人のことであって、代表例として、医師を考えればよいでしょう。
 さて、患者は、医師に自分の病状を隠したりするでしょうか。最善の治療を受けられるように、自分の体の状態について、全てを包み隠さずに申告するでしょう。医師のほうは、最善を尽くして治療に当たらねばならず、患者の利益以外のことは一切考慮してはならないのですが、この医師の負う高度な義務がフィデューシャリー・デューティーなのです。実は、医師がフィデューシャリー・デューティーを負うからこそ、患者は全ての申告をするのであって、ここにフィデューシャリー・デューティーの要諦があります。
 この医師と患者の関係を、銀行と企業の関係に当て嵌めて考えたらどうなるか、これが金融庁の提起した課題です。銀行が顧客である企業に対して最善を尽くして経営支援する旨を確約していたら、つまり、銀行が顧客に対してフィデューシャリー・デューティーを負うとしたら、企業としては、業況の悪化を隠すどころか、積極的に銀行に伝えて支援を求める、そうすれば、銀行としても早めに適切な対応を行うことができて、「三方よし」が実現するはずだ、これが金融庁の仮説なのです。
 
フィデューシャリー・デューティーは、投資信託の販売のルールではなかったのですね。
 
 そういう狭く貧しく浅はかな了見でいる銀行は、金融庁の森信親長官がいうところの淘汰される銀行です。しかも確実に淘汰される銀行です。もちろん、フィデューシャリー・デューティーは、投資信託の販売を激変させるだけの強力な行動規範ですが、その意味するところは、融資において銀行と顧客との間に求められる関係と同じ構造の関係を、投資信託の販売においても実現するように求めるだけのことです。
 そもそも、最適な資産管理のあり方を提案することは、投資信託や保険を販売することとは全く異なります。顧客の財産状況、所得構造、資産の保有目的等によっては、預金のままにしておくことが望ましいかもしれませんし、債務の弁済に充当したほうがよいこともあるでしょうし、生前贈与に適する場合も多いでしょう。さらには、不動産等の金融資産以外の資産の処分や利用も視野に入れる必要があります。
 銀行として、総合的な資産管理を提案しようとすれば、顧客の所得や財産の状況を詳細に知る必要がありますが、顧客の側では、どうせ投資信託や保険を可能な金額の上限まで売りつけられると思ったら、決して、そのような大事な個人情報を提供したりはしないし、最初から銀行に相談などしないでしょう。だからこそ、銀行と顧客の関係は、単なる投資信託や保険の販売の関係にとどまり、高度化しないのです。
 
フィデューシャリー・デューティーとは、銀行と顧客の関係を改革することで、真の資産管理の提案ができるようにする前提だということですか。
 
 フィデューシャリー・デューティーを貫徹することで、顧客に対して、顧客の利益の視点での最適で最善な提案を確約するからこそ、顧客から情報を得ることができるのですし、情報を得ることができるからこそ、優れた提案ができるようになるのです。投資信託や保険の販売というような狭小な低度な次元の話をしているのではありません。
 
そうしますと、フィデューシャリー・デューティーとは、ルールどころか、より大きな付加価値を顧客に提供するためのビジネスモデルの変革だというわけですね。
 
 「三方よし」は、ルールでも、商業道徳でもなく、顧客との共通価値の創造を通じて、中長期的な企業価値の向上を図るビジネスモデルです。価値創造は、顧客との共通価値である限り、顧客の利益と銀行の利益との間に相反の可能性はなく、故に、両者が協働でき、協働できるからこそ、より大きな付加価値を創造できる、逆に、銀行の利益を最大化するためには、顧客との共通利益を最大化するほかない、これがビジネスモデルとしてのフィデューシャリー・デューティーが教える行動規範です。
 
共通価値創出のための顧客と銀行との協働という場合、協働を導くのは、顧客でしょうか、銀行でしょうか。
 
 経済は需要優先が原則ですから、協働における主役は顧客でなければなりません。所詮、銀行は、業者にすぎないものとして、顧客を導くような僭越な立場にあってはならず、どこまでも、顧客を金融の技法で支援するだけの脇役でなければなりません。従いまして、共通価値の最大化のためには、顧客の需要の質的な高度化が決定的に重要なのです。では、いかにして、顧客の需要を質的に高度化できるか、やはり、そこには、供給側の努力が欠かせません。
 例えば、日本産のウィスキーは、今や、本場のスコットランド産に劣らない高度な品質に達したようですが、背後には、日本の顧客のウィスキーに対する嗜好の高度化、舌の肥えていく過程があったのです。所得の増加に伴って質の高いウィスキーが需要されたときに、顧客の舌を一歩先回りしたところに商品供給を行ってきたからこそ、日本産のウィスキーの高度化が可能になったのです。ワイン産業の今日の繁栄も、全く同じ原理に基づいています。
 つまり、質的には、供給は需要の少し先を行っていて、そこに新規の需要を創造しているのであって、だからこそ、量的には、供給は需要を追いかけるように拡大できるのです。実は、ここに、より高度で深い「三方よし」の理解があるべきです。アルコール飲料に限らず日本産業の全ての分野で、この高度な「三方よし」の徹底によって、成長を実現してきたということです。
 それに対して、金融は、銀行に限らず、産業の成長に寄生してきただけなので、質的成長が全くなかったのです。金融庁は、フィデューシャリー・デューティーの徹底を求めることで、そこを突いたわけです。故に、フィデューシャリー・デューティーの究極の理解は、顧客を賢くする義務となるのです。
 
以上

 
 次回更新は、8月31日(木)になります。
≪ アーカイブから今回に関連した論考 ≫
2017/07/13掲載「銀行と顧客のなれ合いを断て
2016/12/15掲載「スルメ金融からイカ金融へ
2015/10/08掲載「金融機関に創意工夫を促す強制力


森本紀行

森本紀行(もりもとのりゆき)

HCアセットマネジメント株式会社 代表取締役社長

東京大学文学部哲学科卒業。ファンドマネジャーとして三井生命(現大樹生命)の年金資産運用業務を経験したのち、1990年1月ワイアット(現ウィリス・タワーズワトソン)に入社。日本初の事業として、企業年金基金等の機関投資家向け投資コンサルティング事業を立ち上げる。年金資産運用の自由化の中で、新しい投資のアイディアを次々に導入して、業容を拡大する。2002年11月、HCアセットマネジメントを設立、全世界の投資のタレントを発掘して運用委託するという、全く新しいタイプの資産運用事業を始める。