賢人が真の賢人で、凡人の集団が真に統治されているのならば、賢人の独裁も、凡人の集団統治も、同じような結論を導くのでしょう。しかし、真の賢人を得ることも、真の統治を実現することも、限りなく不可能に近いことで、むしろ、現実にあり得る危険は、賢人を騙る人の独りよがりと、凡人の統治なき無秩序なのだとしたときに、どちらの危険の害が大きいかを衡量して、人類の叡智は、凡人の集団統治を一般社会の基本構造に採用したのです。
凡人の集団統治を基本にするとしても、そこには、より優れた凡人の知見を活かそうとする努力がなされますから、凡人の集団は、均等な権限をもつ凡人の単なる集団ではなく、内部に権限の分散と集中の配賦関係をもつ構造化された集団として組織され、より優れた執行能力をもつ凡人に権限の集中を図る一方で、より冷静な判断力をもつ凡人による集団監視体制を整えているのです。
こうした集団統治の構造は、日本を含む文化的に成熟した先進経済圏の諸国では、政治組織、企業等の経済組織など、あらゆる組織に遍く適用されていて、それが平和と繁栄の礎になっているのです。
日本の繁栄に陰りが萌しているのは、統治なき無秩序の危険が顕在化してきているからでしょうか。
社会の成熟に伴い、統治構造は確実に進化しているはずであって、劣化しているという事実はないでしょうし、これまでの輝かしき日本経済の成長の歴史は、統治構造が立派に機能してきたことの証明でしょう。問題があるとしたら、変化への対応力だけではないでしょうか。
成功し成長していたときに形成された統治構造は、それ故にこそ強固な揺るがないものとして確立されたのでしょうが、同時に、それ故にこそ強固すぎて変革対応力を欠いてしまったと思われます。今、特に企業において、統治の欠陥がいわれるとしたら、統治一般の不在ではなくて、外部環境の変化に速やかに対応できる自己変革力を内包した組織構造の不在が問題なのでしょう。
優れた執行能力をもつ経営者も、自分を否定する次世代経営者を抜擢するほどには、優れてはいないのですね。
真に優れた凡人なら冷静な自己評価ができるのでしょうが、優れた執行能力をもつ凡人は、得てして自己評価において賢人化するのでしょう。故に、経営者を冷静に客観評価する仕組みが必要なのであって、それが冷静な凡人による監視体制なのであり、企業の取締役会の機能だとされているのです。日本企業のガバナンスの問題は、まさに、この取締役会の機能不全に帰着するわけです。
投資のガバナンスについても、同じことがいえるでしょうか。
ここでいう投資とは、年金基金等の機関投資家が行う職務としての投資ですが、日本は投資の後進国ですから、投資のガバナンスについても後進国です。ですから、ガバナンスのあり方が問題になっているというよりも、ガバナンスの問題自体が欠落しているのです。しかし、投資の先進国である米国の実情をみれば、投資のガバナンスこそ、運用成果を規定する決定的に重要なものであることがわかります。
米国の事情についていうならば、投資のガバナンスにおいても、凡人の集団統治を基本として、より優れた運用能力をもつ凡人に権限を集中させる一方で、冷静な凡人による監視体制を整えることが重要になっているのです。その代表的な事例がエンダウメント・モデルです。
エンダウメントというのは、もともと寄付金のことですが、寄付金から形成されている財団をも意味します。米国には、大学の財団など、大きな財団がたくさんあり、機関投資家の代表的存在として、投資の世界で極めて重要な役割を演じているのです。エンダウメント・モデルは、そこで採用されている投資のガバナンスです。
エンダウメント・モデルでは、能力の大きさに応じて、最も優れた個人を最高投資責任者に任命して、投資成果に一番大きな影響を及ぼす資産配分の決定権限を集中し、各資産のなかの戦略配分、その戦略を実行する外部の投資運用業者の選任については、次段階の複数の投資責任を負う担当者に権限移譲しているわけです。
監視体制としては、最高投資責任者の独裁を阻止するために、投資判断の決定の各段階において、投資責任を負う担当者からなる意思決定の委員会をおき、最高投資責任者を委員長として、集団統治の形態を整えるのです。そして、頂点には財団の理事会があり、そこで下部の専門家の決定を承認する手続きをとっているわけです。
エンダウメント・モデルは、より賢人の統治に近いようですね。
確かに、頂点には凡人の集団統治の仕組みとして財団理事会をおいているにしても、実質的権限は、賢人に近い位置づけの最高投資責任者、および、その下の賢人に準ずるような担当者に大胆に委譲されているので、賢人統治を目指すものといってもいいでしょう。
投資は、最高度に知的な創意の発現として、賢人統治に馴染むのではないか、また、それ故にこそ、優れた投資成果を実現できているのではないか、そのような問題意識から、米国では、エンダウメント・モデルが注目されてきたのだと思われます。
エンダウメント・モデルが注目されるということは、米国でも、凡人の集団統治に重点をおいている機関投資家が多いということでしょうか。
例えば、米国には、地方公務員を加入者とする年金基金が多数あって、なかには、カリフォルニア州の州政府職員の年金基金、同州の教職員の年金基金など、巨大で著名なものもあり、米国の資産運用の世界で極めて重要な役割を演じています。
こうした公的年金基金は、地方政府の一部門として存在しているのですから、開示を前提とした意思決定手続きの透明性が求められていて、地方政府の最高幹部を含む理事会へ権限を集中する度合いを強くせざるを得なくなっています。つまり、ここでは凡人の集団の合議によって意思決定がなされるわけですから、エンダウメント・モデルとは大きく異なるのです。
公的年金基金のなかにも、著名な大学財団と並んで、先進的な取り組みで運用成果をあげているところが少なくないようですが。
真の賢人を得れば賢人の独裁でよく、真の統治を実現できれば凡人の集団統治でもよいということの実例ではないでしょうか。実際、著名な大学財団でエンダウメント・モデルが有効に機能しているのは、経験が豊かで実績のある真のプロフェッショナルを高給で採用しているからでしょうし、著名な公的年金基金で高度な資産運用がなされているのは、優れた理事会運営がなされているからでしょう。
この二つの両極を比較したとき、広く一般性があるのは、やはり、凡人の集団統治でしょう。実際、エンダウメント・モデルの欠点として、真のプロフェッショナルは極めて稀少で、稀少故に著しく高価であることに加えて、高度に属人的な運営を許容できるのは財団等に限られるという側面があるのです。
しかし、同時に、公的年金基金における優れた理事会運営というのも、理事の属人性に依存することは間違いなく、故に、多数ある公的年金基金のガバナンスの水準は、上から下まで大きな幅をもっているのでしょう。
いずれにしても、何か大きな損失でも出ない限り、ガバナンスが問題になることはありませんね。
ガバナンスが問題になるのは、失敗したときだけだというのは、人間社会の動かし得ない現実です。成功している限り、誰もガバナンスを問題にしません。この事態を理屈で説明すれば、成功しているのはガバナンスが有効に機能しているからで、失敗するのはガバナンスに欠陥があるからだという論拠になるのでしょうが、論理的に、これは典型的な後件肯定の誤謬です。しかし、社会心理的には、論理的誤謬も罷り通ります。
こういう社会の避け難い制約のもとでは、凡人の集団統治は、うまく機能しません。失敗を恐れる凡人の合議は無決定に陥るからです。まさに、この点を衝いたのがエンダウメント・モデルです。その最大の利点は、賢人に準じた専門家の判断で決めることだからです。
そうしますと、投資のガバナンスの要諦は、凡人の集団統治において決断できることですね、それができている公的年金基金は、エンダウメント・モデルと同様に優れた運用ができているということですね。
投資は、合理的判断を基礎にしたとしても、未来の不確実性に賭ける要素を払拭できないわけですから、凡人の合議による決定には馴染まないわけで、この難点を克服しない限り、凡人の集団統治は機能しません。米国では、優れた公的年金基金や企業年金において、この難問を解く努力がなされてきたからこそ、資産運用の発展があったのです。
例えば、どのような取り組みでしょうか。
要は、決めるという一点だけが問題なのですから、エンダウメント・モデルの方向にしか解はないのですし、そこでは、賢人的な専門家の高度な知見を活かすことが鍵になっているのですから、最高意思決定機関における凡人の合議においても、下部機構である事務局のなかにいる専門人材の知見を尊重するように議事を進めればいいのです。
実は、どこの公的年金基金においても、有力な財団ほどではないまでも、専門的知見と経験をもった投資のプロフェッショナルが何人もいて、事務局の資産運用部門を構成しているのです。エンダウメント・モデルとの違いは、権限の委譲構造だけですから、理事会の合議において、専門家によって策定された事務局提案を尊重した意思決定のあり方を工夫すればいいわけです。
例えば、否決するときは、否決の理由を議事録に明瞭に記載するなどです。議事録が開示されることを考えれば、専門的知見に基づく合理的な事務局提案を素人の心理的動揺で否決することは、簡単ではないでしょう。理事会の機能は、形式的には議決であっても、実質的には専門的判断を行うことではなくて、凡人ならではの冷静で中立的な視点による監視にすぎない、そのように理事会が自覚すればいいのです。
実質的には、エンダウメント・モデルと大きな違いはなくなりますね。
形式を整えることは大事ですが、綺麗に整った形式に実質の中身がなければ意味はありません。現にある形式のなかで、実質の高度化を徹底したときに、はじめて形式の限界が露呈するのであって、形式を変えるなら、そのときに変えればいいのです。
2017/04/20掲載「ついに金融庁が動くか、年金基金の実態暴露と抜本改革」
2014/04/24掲載「公的年金資産運用改革論の誤謬」
2014/03/13掲載「GPIF改革、あるいは投資家の内部統治と信託」
森本紀行(もりもとのりゆき)
HCアセットマネジメント株式会社 代表取締役社長
東京大学文学部哲学科卒業。ファンドマネジャーとして三井生命(現大樹生命)の年金資産運用業務を経験したのち、1990年1月ワイアット(現ウィリス・タワーズワトソン)に入社。日本初の事業として、企業年金基金等の機関投資家向け投資コンサルティング事業を立ち上げる。年金資産運用の自由化の中で、新しい投資のアイディアを次々に導入して、業容を拡大する。2002年11月、HCアセットマネジメントを設立、全世界の投資のタレントを発掘して運用委託するという、全く新しいタイプの資産運用事業を始める。