高度に専門的な知見を要求される分野においては、その専門的知見をもつものでないと事業運営ができず、従って組織の経営もできません。ならば、素直に自然に考えれば、経営者は優れた専門家としての実績をもつものから選ばれるべきだということになるでしょう。
実際、例えば、法律、会計、税務、医療、研究開発、コンサルティングなどのプロフェッショナル業とされる分野では、組織自体がプロフェッショナルで構成されていて、その長も優れたプロフェッショナルから選任されています。金融でも、投資銀行業や投資運用業では、プロフェッショナル業の要素が極めて強いので、経営者の選任においては、プロフェッショナルとしての実績が重視されています。
しかし、理想は理想として、現実には、本来はプロフェッショナルが経営しなければならないのに、不適当な経営管理のもとで、適格性に疑義のあるものが経営者に選任される場合も少なくありません。
日本の投資運用業者が悪しき代表ですね。
その点について、金融庁の森信親長官は、昨年4月の講演において、「資産運用会社の幹部には、運用に関する知識・経験よりむしろ販売会社を頂点とするグループ全体の人事サイクルを重視した任用が行われてこなかったでしょうか」との疑問を呈しています。いうまでもなく、そうした悪しき人事のあり方が日本の投資運用業の質的発展を阻害してきたことに強い警鐘を鳴らしたのです。
しかし、他方で、いかにプロフェッショナル業といえども、その特定分野の専門的能力だけでは経営できないのも事実ですね。
大学の経営では、頂点に教員組織が置かれているわけですが、学生数の確保、教員の責務における教育と研究の適切な均衡の問題、共同研究や委託研究を通じた産業界との連携による外部資金導入の問題など、多くの困難な経営課題に直面するなかで、いかに研究者として優れていても、経営者として適切に対処できるとは限らないわけです。同じことは、病院についてもいえるでしょう。有能な医師、必ずしも有能な病院経営者ではありません。
やはり、経営ということ自体にも、合理性の追求のための専門性と固有の能力があるのです。経営の合理性の追求と、プロフェッショナルとしての技術的な専門性の追求、即ちプロフェッショナリズムの貫徹との間には、適切な協働と牽制が機能しなくてはなりません。そうでなければ、プロフェッショナル事業はなりたたないのです。
経営の合理性とプロフェッショナリズムの貫徹というふうに並列しても言葉の遊びにすぎず、現実的に重要なことは両者の優先関係ではないでしょうか。
プロフェッショナル業である限り、その技術的な専門性の優越は動かし得ないと思われます。
事業の経済的諸条件は、それが整わない限りプロフェッショナリズムを貫徹すること自体が不可能であり無意味ですから、前提として充足されなければならない制約ですが、前提が整っていても、プロフェッショナリズムの倫理的側面も含めた社会的価値の創造がなされていないのならば、事業としての真の価値は実現できません。
先ほどの投資運用業の現状に関する森長官の発言にしても、経済的条件を整えるために投資信託の販売を優先させる経営をしていたのでは、投資信託の運用能力だけで生きていける真の投資運用業者にはなり得ないのであって、それでは投資運用業者としての社会的価値創造などできるはずもないことを指摘しているのです。
専門性の追求は、いつしか、専門家の独断や驕りに陥らないでしょうか。
舌の肥えていない客には自分の料理の価値はわからない、そういう勘違いをしている料理人もいるのでしょうが、それは真の達人ではなくて、自称達人にすぎないのであって、価値は社会が認めてこそ価値なのですから、自称達人は何らの社会的価値も創造してはいないのです。
大学教授のなかにも、研究者としては極めて優れているのに、というよりも、極めて優れた研究者だけに、超難解な学説を滔々と講義でまくしたて、どうだ、お前らのような頭の悪い学生には到底理解できないだろう、といわぬばかりに胸を張る人もいるわけでしょうが、そのような先生ばかりでは、教育機関としての大学の社会的価値を生みようがないのです。
このような独断や驕りを仮に専門馬鹿と呼ぶとして、専門馬鹿に基づく経営のもとでは、社会的価値を創造できていない以上、最終的には経済的条件が整わなくなって、事業の継続が不可能になります。だからこそ、専門馬鹿を回避する経営の工夫が必要なのです。それは社会常識に基づく牽制機能でしょうから、その意味で素人のガバナンスと呼んでおきましょう。
素人のガバナンスというのは、プロフェッショナル事業に限らず、全ての事業分野で重要なものになりつつありますね、例えば、社外取締役であるとか。
どのような事業を営む企業にも、程度の差こそあれ、事業固有の専門技術的な要素があり、また、長い事業経験のなかで培われてきた実践的な知見や、顧客等との社会的関係性もあって、それらが企業の競争上の差別優位の基礎をなしているのです。
そうした企業固有の歴史的に形成された基盤は、社内でしか通用しないような特異な文化や風土を形成することを通じて、一方では、企業固有の付加価値源泉ともなるでしょうが、他方では、社会常識に反した思考や行動を生み出してしまう可能性も否定できません。
残念ながら後を絶たない企業の不祥事というのは、固有文化が逸脱に転じたことに原因があるのでしょうし、急速に変わりゆく経営環境に迅速に対応できず、構造改革を断行できない理由も、閉鎖的で内向的な企業風土にあるのでしょう。
故に、改革には、素人というか、常識人の視点による外部評価が必要なのですね。
企業内部の生きた動態については、社外取締役は外部の素人なのですから、それを真に理解することはできません。しかし、逆に、外部者だからこそ、企業固有の文化に染まることなく、中立的な常識人として、偏らない判断ができるのです。
企業に不祥事等があったとき、中立的な第三者委員会が組織されて経緯の調査を行うのも、同じ趣旨です。不祥事は、専門技術的な瑕疵から起こるのではなく、企業風土に起因するガバナンスの欠陥から生じるからです。
素人のガバナンスと玄人のマネジメントの機能分化が必要なのですね。
企業の経営上の業務執行は、専門家である経営者に委ねられるのが当然のことであり、逆に、業務執行を一任されたものが経営者なのです。このマネジメントの玄人に対して、マネジメントの素人は、素人であるが故に、常識的見地からする牽制機能を果たし得る、これが素人のガバナンスです。
ならば、素人のガバナンスにおいては、専門家の知見の尊重が前提にされなくてはなりません。経営執行部の提出した議案について、その実質的な内容面についての意見や判断を求められても、素人に何らの貢献もできるはずがなく、実際、そのようなことは求められてもいないはずです。繰り返しになりますが、素人にできることは、あくまでも、専門馬鹿に対する牽制だけなのです。
そうはいいましても、素人というのは経営執行の素人だというだけのことで、社外取締役の機能を十全に果たすためには、それ自体としての専門性を求められるという意味で、素人のガバナンスの玄人でなければならないのではないでしょうか。
素人のガバナンスには、専門馬鹿に対する牽制だけではなく、あるいは専門馬鹿に対する牽制機能を適正に果たすためにも、少なくとも三つのことが期待されているのだと思われます。
第一は、手続きの瑕疵の有無の判定です。経営の素人には、内容にかかわる判断はできなくとも、例えば法律の玄人には、形式にかかわる判断は可能です。社外取締役に弁護士が少なくないことの理由でしょう。
第二は、執行部門が策定した計画の論理的整合性と妥当性を、幅広く、また高い視点から、総合的に再評価することです。事業の専門性については、素人が玄人の知見を上回ることはあり得ませんが、素人には、専門領域から中立であることと、浅くとも広い知見をもつことにより、しばしば、玄人に対する有益な助言の提供が可能なはずです。
第三は、透明性の向上です。専門家である執行部門は、素人に説明するために、説明方法や資料に工夫する義務が生じて、それが専門馬鹿に対する抑止力になると同時に、経営の透明性を高める効果もあると思われます。
素人のガバナンスは玄人のマネジメントの専門的知見を尊重し、玄人のマネジメントは素人のガバナンスの常識感覚、規範意識、他領域での経験等を尊重する、その相互尊重が優れた企業経営につながるのですね。
企業経営の問題というよりも、一般的にいって、社会の秩序維持と発展のためには、各人は、自分の専門性を明らかにして、そこでは自信をもって発言し、行動すべきですが、そうでない領域については、そこには当然に別の専門家がいるのですから、その知見を尊重して行動しなくてはなりません。
例えば、少し特殊な例ですが、年金基金の資産運用では、最高意思決定機関は資産運用の素人で構成されざるを得ないのですが、もしも、それらの素人が事務局の専門家の意見を尊重しないならば、また事務局に専門家すらいないのならば、適切な資産運用ができるはずもありません。そして、事実として、多くの年金基金で適正さを欠く資産運用が行われている日本の実態は、その社会的機能の重要性に鑑みて非常に憂慮すべきことなのです。
更に特殊な例として、原子力発電所がありますね。
原子力発電所の技術的問題に関して完全に素人である裁判官は、玄人の英知を結集した原子力規制委員会の判断を尊重しなければならない、このことは、運転差止を認める判断をする場合においても、絶対に動かすことのできない社会規範です。ただし、尊重してもなお、原子力規制委員会の判断の一部を否定することは裁判官の自由です。
しかし、誰でも理解できるように、こうした裁判官の絶対的自由を企業の社外取締役に認めることはできません。それでは、企業経営はなりたちませんし、社会の秩序も保てないのです。
以上
2017/12/07掲載「投資判断を合議で決することは不可能である」
2017/11/30掲載「賢人の独裁と凡人の集団統治、どちらの害が少ないか」
2016/03/31掲載「素人裁判官が原子力発電所の運転禁止を命じてもいいのか」
森本紀行(もりもとのりゆき)
HCアセットマネジメント株式会社 代表取締役社長
東京大学文学部哲学科卒業。ファンドマネジャーとして三井生命(現大樹生命)の年金資産運用業務を経験したのち、1990年1月ワイアット(現ウィリス・タワーズワトソン)に入社。日本初の事業として、企業年金基金等の機関投資家向け投資コンサルティング事業を立ち上げる。年金資産運用の自由化の中で、新しい投資のアイディアを次々に導入して、業容を拡大する。2002年11月、HCアセットマネジメントを設立、全世界の投資のタレントを発掘して運用委託するという、全く新しいタイプの資産運用事業を始める。