まずは、例を二つ、漁師の人生の目的と、小学生の人生の目的。
漁業が規制緩和されて株式会社形態の大規模な漁業経営が始まる。投資銀行の大きな事業機会だから、早速、漁村に行って営業をする、どうです、会社を作りましょうよ。漁師は問う、会社にして、どうするのだ。そりゃ、大きな商売にするのですよ。大きな商売にして、どうするのだ。もちろん、IPOして、ごっそり儲けるのですよ。儲けて、どうするのだ。遊んで暮らすに決まっているじゃないですか、豪華なクルーザーを買って、毎日、釣りをして。今だって、船をもって、毎日釣りをしているけどね。
塾に通って熱心に勉強する小学生に問う、勉強してどうするの。中高一貫の難関校へ行くの。そこへ行って、どうするの。一流大学へ行くの。大学で何するの。いい成績で卒業して一流企業に入るの。一流企業で何するの。偉くなるの。偉くなって何するの。いい暮らしするの。いい暮らしして、どうなるの。
こうして、人生の目的の連鎖をたどっていくと、最後は死になります。英語のendは、目的の意味でも使われますが、究極の目的は、まさに最後であり、死です。人間は死に運命づけられていますから、究極の目的をたどると、生きる目的が死ぬことになってしまいます。
故に、事前に目的の連鎖をたどるべきではなく、行為は端的に行為自体を目的としてなされ、そこに価値が創出されれば、事後的に望ましい結果の連鎖が生じると考えるほかないのです。一流大学に入るために勉学するのではなく、端的に勉強した結果として一流大学にも進学できるようになるということです。
ならば、末期の患者に水虫を発見してしまった医師は、治療目的の合理性を考えずに、端的に水虫の治療を行えばいいということでしょうか。
それは一般論としての解がない問いなのでしょう。そもそも、末期ということの意味が難しいわけで、医学の現段階の水準において、極めて短期間に死亡することが確実だと判断できるという意味なら、治療目的はないのでしょう。もっとも、患者の意識が明瞭で、水虫が痒いということなら、症状緩和の治療を行うべきです。苦痛の軽減こそ、末期患者の治療の最大の目的だろうからです。
さて、こうして解を得られる場合はいいのですが、それは例外的で、多くの場合は、末期の判定からして難解なのでしょう。合理的推論が不可能なときは、治療目的の合理性を考えずに、端的に水虫の治療を行うほかない、水虫を発見してしまった以上、そのようにしか医師には行動できないように思われます。
では、阿蘇山の破局的噴火においても、原子力発電所の安全性を確保すべきでしょうか。
まず、阿蘇山には9万年前に破局的噴火があったそうです。これは、科学哲学的にいえば、事実ではなくて、現在の科学的知見で合理的に推定されていることにすぎないのですが、それが学会の共通認識として確立しているのならば、法哲学的には、法的な事実として裁判所の判断の基礎においていいということです。簡単にいえば、法的事実として、阿蘇山には9万年前に破局的噴火があったのです。
また、これも科学的知見として確立していることらしいですが、火山がたくさんある日本全体では、どこかで破局的噴火の起こる確率は1万年に1回だそうです。全体で1万年に1回だとすると、阿蘇山という個別の火山では、確率ははるかに小さくなります。実際、阿蘇山の最後の破局的噴火は9万年前だと推定されているわけです。
さて、原子力発電所の安全基準として、この阿蘇山の破局的噴火の可能性を見込むべきかどうか、これは解き得ない哲学の難問です。しかし、問いの構造は瀕死の患者の水虫と同じですから、原子力規制の目的との整合性において、その危険を合理的に許容できるかどうかを判断すればいいのでしょう。逆に、合理的推論がなりたたないときは、破局的噴火の危険を考慮するほかないと思われます。
結論として、九州に立地する九州電力川内原子力発電所について、原子力規制委員会は運転を認めているのですね。
原子力規制委員会は、現段階において学会で一般的に確立している科学的知見に基づいて火山の危険を評価し、その専門家としての高度な判断として、川内原子力発電所の運転を認めているのです。学会に異説のあることは当然ですが、その異説にも公平に考慮を払ったうえで専門家の良心のもとで下された判断は、十分に尊重されなくてはなりません。
つまり、原子力規制委員会の結論としては、原子力発電所の稼働期間において、その安全性を確保するという規制目的に照らしたときは、火山の危険は許容できると合理的に推論したのです。要は、水虫は治療しなくてもいいと合理的に結論づけたのです。
ちなみに、仮に阿蘇山に破局的噴火がおきたときは、例えれば九州全体が瀕死の状態になり、原子力発電所の危険に限らず全ての他の問題が意味を喪失するなかでは、水虫の治療を論じる余地はないですね。
あからさまにいって、瀕死の病人の水虫というよりも、死人の水虫を論じるにも近い話です。九州全体が厚い火砕流でおおわれるときに、どれほどの生存者がいるのでしょうか。原子力発電所の危険を圧倒的に凌駕する危険の顕在化のなかで、原子力発電所の安全性を論じることの実益は、どれほどあるのでしょうか。
もちろん、この論点は、原子力規制委員会の判断の根拠となっているわけではありませんし、裁判所の判断において参照されているとも思えませんが、広く一般的な危険の受容のあり方について、常識に基づく補助的論拠として、極めて直截的なわかりやすさをもつものであることは否定し得ないでしょう。
四国電力伊方原子力発電所の場合は、少し事情が違うようですね。
海を挟んだ四国に立地する伊方原子力発電所についても、原子力規制委員会としては、同じ火山の危険について、川内原子力発電所と同一基準で判定するのですから、当然に伊方原子力発電所の運転を認めたわけです。ところが、裁判所が運転差止を認める判断をしたので、大いに注目を集めているところです。
論点は、阿蘇山の破局的噴火において、伊方にまで火砕流が到達し、原子力発電所の運転に重大な支障をきたして、甚大な原子力被害の発生を招くかどうかということです。9万年前の噴火のとき、火砕流が伊方に到達したかということについては、科学的知見が割れていて、事実としては、火砕流の痕跡の存在は立証できていないようですし、逆に、地質の変化等で痕跡が消えた可能性もあって、火砕流が到達しなかったということも積極的には立証できないようです。
そこで、火砕流の到達を積極的に示す根拠の不存在から、四国電力は火砕流が到達したとはいえないと主張するのに対して、火砕流が到達しなかったことを積極的に示す根拠の不存在から、裁判所は火砕流到達の可能性を認めるわけです。これは、法哲学的にも、科学哲学的にも、解のあり得ない議論です。
また、九州の事情とは異なって、阿蘇山の破局的噴火が原子力発電所の危険を圧倒的に凌駕する危険の顕在化となるかどうかは、四国や、伊方の瀬戸内海を挟んだ対岸である広島や山口方面においては、微妙な問題です。原子力の危険は、死人の水虫とまではいえませんし、水虫よりも深刻な病として十分に考慮しなければならない危険である可能性も否定できないのです。
合理的な判断ができないときは、瀕死の病人の水虫も治療しなくてはならないという原則からすれば、裁判所の判断は妥当のようですが。
そう簡単にはいえないでしょう。法哲学的にも、科学哲学的にも、解のあり得ない議論でも、社会学的、経済学的には解があり得るからです。実際、専門家の科学者も許容してよいとしている極小の確率の危険についてまで考慮するとなると、経済的に原子力発電は不可能になります。これは原子力に限らず、全ての安全基準についていえることで、悪魔的といわれても、どこかで危険の合理的な経済計算をしなければ、科学技術の利用など不可能なのです。
しかし、差止訴訟は、危険にかかわる合理的経済計算そのものを否定したところで、いわば絶対的な生存権の地平において、提起されているのではないでしょうか。
飛行機の場合は乗らないことで危険回避でき、また被害が乗客に限定されるので、危険を承知で利便性のために飛行機に乗る人には合理的経済計算の論理を適用できるのですが、原子力事故の場合には、危険回避の自由がなく被害が広範囲に及ぶ点が根本的に異なるので、同様の経済計算を適用することはできない、それが反原子力の根本の論理です。故に、生存権を根拠にして、経済合理性を否定する裁判所の判断が導かれる余地があるのです。
生存権のような究極の概念をもちだすと、その前では、全ての議論が封殺されはしないでしょうか、いわば治療する必要のない瀕死の病人の水虫のように、全てが無意味化されはしないでしょうか。
哲学的には、目的の連鎖をたどることと並んで、価値の連鎖をたどることにも、慎重でなければなりません。死以外に究極の目的がないように、全人類に共有されている唯一の絶対価値などないのです。地球の上には、歴史的に、文化的に、宗教的に多様な価値体系の分断と並列があります。そのなかで一つの究極価値の優越を主張するものがあれば、解決不能な深刻な争いを惹起することは避け得ません。
もっとも、生命の絶対性だけは、もしかすると、全人類に共有されている唯一の絶対価値なのかもしれません。故に、生命の絶対性に他の全ての価値を従属させることは、争いのない絶対的な合意の地平を開く可能性を内包しているのかもしれません。しかし、生存の条件には無数の多様なものがあり、そこには経済合理性も含まれ得るとしたら、頂点の価値は同じでも、価値の体系は様々に異ならなくてはならないのです。
価値の多様性こそ、現代社会の支配的概念ですからね。
企業経営において、利益の追求は究極の目的であるかのように考えられてきましたが、現代では、持続可能性や社会性のような利益の質を問題にするようになってきています。利益は、一様に貨幣換算できるものではなく、多様な価値を内包するものへと変わりつつあります。
同様に、働くことの意味は、もはや、伝統的な労働概念では解けなくなっていますし、消費の意味も、医療行為の意味も、全て価値の多様性のなかへ分解していっています。社会規範すら、多様な価値の共存と一つの秩序の維持との相克のなかで、流動化し始めているのです。
こうして、今後の企業をとりまく環境が大きく変われば、経営のあり方も激変していき、経済合理性という単一で一様な指標は失われて、多様な価値の視点が許容されることになるでしょう。そこでは、例えば、瀕死の病人の水虫について、治療することの合理性を超えたところで、多様な価値の視点から検討するような本質的な発想の転換が求められるのです。
企業経営において、成長は、もはや、利益の量的な成長ではあり得ずに、価値の質的な多様性の拡大になる、ならば、そこには、経営が目指す究極の価値も、経営目的もない、では、何があるのか、治療するには忍びないような心地よい水虫の痒さか。
以上
次回更新は、2月15日(木)になります。
2013/08/15掲載「You Can Do Anythingという責任と規律」
2013/08/08掲載「You Can Do Anythingという企業文化」
2013/05/23掲載「アートに投資する投資のアート」
森本紀行(もりもとのりゆき)
HCアセットマネジメント株式会社 代表取締役社長
東京大学文学部哲学科卒業。ファンドマネジャーとして三井生命(現大樹生命)の年金資産運用業務を経験したのち、1990年1月ワイアット(現ウィリス・タワーズワトソン)に入社。日本初の事業として、企業年金基金等の機関投資家向け投資コンサルティング事業を立ち上げる。年金資産運用の自由化の中で、新しい投資のアイディアを次々に導入して、業容を拡大する。2002年11月、HCアセットマネジメントを設立、全世界の投資のタレントを発掘して運用委託するという、全く新しいタイプの資産運用事業を始める。