いかにして預金を減らすことができるか

いかにして預金を減らすことができるか

森本紀行
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金融庁にとって、また銀行等にとっても、最重要にして緊急の課題は、預金を削減することです。なぜなら、金融行政の課題は資本市場機能の強化にあって、そのためには個人貯蓄を預金から投資信託へ移転させることが必要であり、銀行等にとっては、運用先のない預金は収益の圧迫要因になっているからです。しかし、金融行政や銀行等の都合で国民の金融行動を変えられるはずもなく、さて、どうしたら預金を削減できるのか。
 
 金融庁は、銀行等の金融機関の行動様式を変えることはできても、その顧客である国民の行動様式を変えることはできません。しかし、国民の金融行動を変えない限り、金融庁の行政課題は実現できないのです。
 なぜなら、森信親長官のもとで、金融庁の行政目的は、金融機関の監督を行うことから、国民の安定的な資産形成と経済の持続的な成長を実現するために金融機能を高度化することへと、本質的な転換を遂げており、金融機能の高度化を実現するためには、金融の構造を変えなければならず、金融の構造を変えることは、とりもなおさず、国民貯蓄の構造を変えることだからです。
 
どのように国民貯蓄の構造を変えなければならないのでしょうか。
 
 それは、銀行等の預金から投資信託に振り替えることにつきます。なぜ、投資信託にしなければならないかというと、産業界に対する資金供給の形態として、預金を原資にした銀行等の融資では、預金に元本保証が付されているために、銀行等がとれるリスクに限界があるのに対して、元本保証のない投資信託を通じて、社債や株式等の形態で資金供給を行えば、金融界として、より大きなリスクをとることができるからです。
 もちろん、金融界が大きなリスクをとることは、産業界が成長のために積極的にリスクをとることが前提となっています。つまり、経済の持続的成長のために、産業界が意欲的にリスクテイクする、そのリスクテイクを強力に金融的に支援するために、金融界が大胆にリスクテイクする、金融界のリスクテイクを可能ならしめるために、国民もリスクテイクしなければならない、即ち、預金から投資信託に貯蓄を移動させなければならない、これが今の金融行政の根幹にある思想なのです。
 
金融庁は、顧客本位を行政の主要課題に掲げていたはずですが、顧客本位とは国民本位のことでしょうから、金融行政の目的を実現するために国民貯蓄の構造を変えようとすることは、行政本位として国民本位に著しく反するのではないでしょうか。
 
 まさに、その論点こそ、金融庁の森長官の改革思想の中心にあるものに違いないのです。森長官は、金融庁の職員に対して、国益への貢献を求めているのですが、国益というものが国民の利益を離れて存在するはずもないのですから、安倍政権の経済成長戦略の一翼として金融構造改革を掲げたときに、それは国益の追求であると同時に、国民の利益の追求でなくてはならなかったのです。
 故に、金融庁の行政目的には、常に、経済の持続的成長と並んで、あるいは、それに先立って、国民の安定的な資産形成が掲げられてきたのです。要は、あからさまにいって、国民に対して、預金に滞留させておくよりも、投資信託を通じて資本市場に還流させたほうが得であるといっているわけです。なぜなら、いうまでもなく、産業界が成長によって実現する利益は、資本市場を通じて直接に投資家である国民に還元されるわけですから、経済成長と国民の資産形成とは、相互に規定し合う好循環の関係にあるからです。
 つまり、産業界の積極的なリスクテイクを通じて経済を成長させるためには、国民は投資信託を通じて資産形成のリスクテイクをしなければならないのですが、その結果として、産業界のリスクテイクが収益化して経済成長が実現すれば、国民のリスクテイクは資産の増殖を通じて報われる、これが金融行政の核心の論理なのです。これぞ、国民本位の発想ではないでしょうか。
 
しかし、好循環とはいっても、循環はエンジンの回転と同じことで、始点において回転させる起動力が働かないと、循環は始動し得ないはずですが。
 
 電気で回転を始動させて、回転し始めると内燃機関の自律的回転が生じるという原理は、経済成長と資産形成の回転についても全く同じように当てはまるわけで、故に、安倍政権の経済政策は、一貫して、回転を起動させるための有効な対策の模索に充てられてきたわけです。日本銀行の金融政策における異次元緩和などは、その代表例です。しかし、非常に困ったことには、その大胆な政策にもかかわらず、国民の金融行動に顕著な変化は少しもみられないのです。
 
金融庁の金融行政も、今のところ、効果を生んでいるようでもありませんし、そもそも、その性格上、国民に直接に働きかけて効果を生むものでもないようですが。
 
 金融庁の行政によっては、残念ながら、あるいは、当然のことながら、国民の金融行動を変えることはできませんし、事実、できていません。しかし、金融機関の行動様式を抜本的に変えることについては、確実に大きな成果を生んでいます。このことは、国民の金融行動が変わったときに、国民の利益を守るための施策が功を奏し始めているということですから、まさに、金融庁の本来の機能が適切に果たされているのです。
 ここで、何よりも重要なのは、金融機関に対してフィデューシャリー・デューティーの重要性を認識させたことです。もちろん、実践においてフィデューシャリー・デューティーを徹底することには未だ至っていないとしても、金融機関の意識は確実に変わっています。これは金融行政の大きな成果なのです。
 
ここで、なぜ、フィデューシャリー・デューティーがでてくるのでしょうか。
 
 預金には元本保証がありますが、投資信託にはありません。元本保証のあるものから、ないものへと国民貯蓄を誘導することは、国民の利益を守る立場にある金融庁として、極めて重大な意味をもちます。そこで、元本保証に替わる保証として導入されたのがフィデューシャリー・デューティーというわけです。
 投資信託は、その本質として、運用の成果が直接に投資家、即ち国民に帰属します。そこで、国民の利益を守るために決定的に重要なこととして、投資信託の販売、運用、資産管理など、その関連業務に従事するもの全てについて、厳格な行動規範が課される必要があるわけです。その規範がフィデューシャリー・デューティーです。
 この片仮名が初めて金融庁の行政方針に採用されたのは、2014年9月ですが、そのときには、金融界は意味がわからずに非常に驚いたのです。しかし、それから今日までの短い時間に、金融界では誰でもが知っている概念になりました。これこそ、金融行政の画期的な成果なのです。
 念のためにフィデューシャリー・デューティーの何たるかを確認しておけば、それは専らに顧客の利益のために働くことに帰着します。つまり、預金の元本は、銀行等の自己資本の厚みで保証するのですが、投資信託の質は、その業務に携わるものの社会的責務の履行によって保証するということなのです。
 
では、金融庁の施策として、なされるべきことがなされた今、どうしたら国民の行動は変わるでしょうか。
 
 金融規制に限らず、規制のあり方は世界的に大きく変貌してきており、現在の主流は、法的な強制によるのではなく、民間事業者の利益誘因によって、政策課題を実現する方向にあります。日本の金融庁は、なかでも先進的なほうです。つまり、預金から投資信託への流れが金融機関の利益になるのであれば、金融機関の行動様式として、自然に、そうした流れが作られるはずだということです。
 実際、運用先のない預金は著しく採算が悪いのに対し、投資信託は、仮に販売手数料をとらなくとも、残高比例報酬が確実にはいるので、金融機関にとって魅力的なのです。実は、フィデューシャリー・デューティーが短期間で金融界に定着したのも、経営者が鋭敏に利益誘因を嗅ぎとったからにほかなりません。ここに金融行政の巧みさがあるのです。
 
しかし、顧客の意向に反して無理に投資信託へ誘導することは、金融庁が「プッシュ型営業」と呼んで強く戒めているはずですが。
 
 現在の金融庁の行政方針においては、フィデューシャリー・デューティーは、投資信託関連業務を超えて、顧客本位という広義な概念に包摂されています。顧客本位とは、顧客の真の意向に忠実であることですから、預金を選好する顧客に対して投資信託を「プッシュ型営業」で推薦することは、顧客本位に反することになってしまうのです。
 ここは金融行政の極めて高度で微妙なところです。確かに金融機関の利益誘因で改革を進めるにしても、金融機関の利益は同時に顧客の利益でなくてはならないわけです。この原理を金融庁は顧客との共通価値の創造と呼んでいます。
 ここで、議論は原点に戻ってしまうのです。つまり、預金を投資信託へ振り替えることは、既に述べたように、好循環が始まりさえすれば国民の利益であり、そこに金融機関と顧客との共通価値の創造が起きるのですが、この施策によっては好循環を始動させることができないという矛盾です。この悩みは、金融庁の深刻な悩みでもあり、また金融機関の深刻な悩みでもあるわけです。
 
そうしますと、循環を始動させる何らかの起爆剤が政策的に必要だということでしょうか。
 
 一番簡単で、おそらくは、一番有効なのは、預金に不利益を課すことで、預金流出に国民の利益誘因を作り出すことです。しかし、これほど野蛮で強権的な施策もないわけであって、政治的にも危険性が高くて容易には実行し得ないものです。もっとも、様々な策が水面下で検討されていることは間違いないでしょう。
 例えば、一万円札の廃止という案です。よくよく考えれば、金利のつかない預金が巨額に滞留していること自体が奇怪なわけであって、背後には、決済手段としての預金の強力な機能を想定せざるを得ません。そこで、現金決済が可能な範囲を政策的に一気に縮小してしまおうというわけです。一万円札で現金決済しているような領域を全て電子決済しかできないようにしてしまえば、確かに一万円札は不要なわけです。
 
口座管理手数料を課す方法もありますね。
 
 それは、日本銀行がマイナス金利政策を断行したときに、真っ先に検討されたことでしょう。しかし、現実には、法人の当座預金にも、個人の普通預金にも、手数料は課されていません。法的に困難な諸論点があるばかりか、政治的にも、金融機関の営業政策的にも、極めて難易度の高い方策です。しかし、間違いないこととして、何らかの具体的な検討が水面下にあるはずです。
 
決定的な論点は、預金者の多くが高齢者だということではないでしょうか。
 
 高齢者から現金決済をとりあげたら、大切な生活原資の預金に手数料を課したら、一体、どうなるのでしょうか。また、そうしたことが政策的に許されるでしょうか。許されるとしても、政治的に可能でしょうか。現在の金融庁の最大の関心は、おそらくは、この論点にあるのでしょう。2017年11月に公表された新しい金融行政方針にフィナンシャル・ジェロントロジーという片仮名が登場したのは、それが背景の事情だと思われます。
 
フィナンシャル・ジェロントロジーとは何でしょうか。
 
 具体的なことは、全くわかりません。金融庁自身にも、わかっていないのでしょう。誰もわかっていないので、金融界で検討しようということかと思われます。ただ、ひとつの見通しを述べれば、高齢者預金が消費されてしまう環境を作ることではないかと思われます。
 財政的には、財務省などは、高齢者預金を相続税で回収したいのかもしれませんが、安倍政権の経済政策に忠実に考えれば、豊かな老後生活のための消費を促し、消費税、所得税、法人税で回収したほうがいいはずです。要は、フィナンシャル・ジェロントロジーというのは、高齢者の家計の合理化を図り、消費を促す施策だと想像されます。
 
以上

 
 次回更新は、2月22日(木)になります。
≪ アーカイブから今回に関連した論考 ≫
2018/01/11掲載「必要な保険と不必要な保険会社
2017/06/15掲載「高齢者に対する正しい資産管理営業
2016/08/25掲載「銀行が預金をやめるとき
森本紀行

森本紀行(もりもとのりゆき)

HCアセットマネジメント株式会社 代表取締役社長

東京大学文学部哲学科卒業。ファンドマネジャーとして三井生命(現大樹生命)の年金資産運用業務を経験したのち、1990年1月ワイアット(現ウィリス・タワーズワトソン)に入社。日本初の事業として、企業年金基金等の機関投資家向け投資コンサルティング事業を立ち上げる。年金資産運用の自由化の中で、新しい投資のアイディアを次々に導入して、業容を拡大する。2002年11月、HCアセットマネジメントを設立、全世界の投資のタレントを発掘して運用委託するという、全く新しいタイプの資産運用事業を始める。