日本の法律のもとでは、仮想通貨が何であれ、それは「電子機器その他の物に電子的方法により記録されている」財産的価値であって、かつ「電子情報処理組織を用いて移転することができるもの」でなければならず、しかも、商取引において、「不特定の者に対して」、代金の決済手段として使用でき、仮想通貨自体について、「不特定の者を相手方として購入及び売却を行うことができる」のでなければなりません。
つまり、日本の法律では、仮想通貨は、日本の法定通貨である円と比較したときに、不特定の者に対して決済手段として使用できるという意味で、円と同等の通貨であり、円が不特定の者との間でドルのような他の国の法定通貨と交換できるのと同じように、不特定の者との間で法定通貨との交換ができるという意味で、円と同等の通貨なのです。
では、法定通貨である円との違いは何かといえば、「電子機器その他の物に電子的方法により記録されている」財産的価値であり、かつ「電子情報処理組織を用いて移転することができる」という点に帰着するわけです。
では、法定通貨である円は、どこに記録された財産的価値なのでしょうか。
仮想通貨の登場に真の意味があるとしたら、それは、法定通貨とは何かについて再考する機会となることでしょう。さて、法定通貨とは、どこに記録された財産的価値なのか、これは即答し得ない高度な難問であって、法定通貨の自明性の裏に、少しも自明ではない政治権力の機構が潜むことを教えるのみです。
これに対して、仮想通貨の場合、特定の発行体をもたずに仮想通貨を構成するシステム基盤自体のなかで生成されるものにしろ、特定の発行体により発行されるものにしろ、電子情報として技術的に完全な安全性のもとで実在が保証されるものなのですから、この限りでは、仮想通貨というよりも、暗号通貨(cryptocurrency)というほうがいいのです。暗号技術とは、完全な安全性のもとで電子情報の実在と保護を保証するものにほかならず、この技術に仮想通貨の本質の一端があるわけです。
ならば、仮想通貨を認めるよりも、暗号技術を用いて、法定通貨を「電子機器その他の物に電子的方法により記録」し、「電子情報処理組織を用いて移転することができる」ようにしたほうがよくはないでしょうか。
法定通貨である円を暗号化して、国民の全てが日本銀行に直接に口座をもつようにすれば、全ての決済と資金取引は、日本銀行が維持運用するシステム基盤のなかで完結するでしょうから、そのほうが合理的で効率的かもしれず、日本の法律が暗号通貨という用語を採用しなかったのは、もしかしたら、そういう未来へ向けた深慮遠謀が背景にあるのかもしれません。
しかし、法定通貨を暗号通貨にしたものと、日本の法律がいう仮想通貨との間には、本質的な差があります。つまり、暗号化したとしても、法定通貨は発行体の裏に政治権力が存在し、その権力が及ぶ範囲とほぼ重なる経済圏における通用が前提とされているのに対して、仮想通貨には、そのような制限はないのです。
仮想通貨を用いれば、自由に経済圏を定義して、そのなかでの独自の通用性を基礎に、法定通貨にはできない価値創造を行える可能性が開かれます。こうして、創造性のある仮想通貨を構想し、仮想通貨の流通範囲の拡大が同時に経済圏の拡大と成長につながる可能性を追求することにも、仮想通貨の本質の一端があるわけです。
仮想通貨は政治権力による裏付けをもたないだけに、脆弱な側面があるのではないでしょうか。
法定通貨と仮想通貨、どちらが安全かは、もはや哲学の問題ではないでしょうか。例えば、ある国が政治的野心を抱き、自国通貨の流通圏を拡大することにより経済圏の拡大を志向するとき、戦争の危険が増大することを思えば、仮想通貨による経済圏の拡大は、はるかに知的で安全ではないでしょうか。
そもそも、法定通貨の裏にある政治権力、即ち国家とは何かということも大きな問題でしょう。域内の紛争をなくすために国家権力が必要なのか、国家権力があるが故に紛争が起きるのかは、解き得ない難問です。また、政治圏と経済圏と通貨圏を一致させようとすることも、経済摩擦が政治摩擦に直結する不合理を招いているようです。
国境を越えた経済活動の広がりが形成する経済圏、そのなかで経済圏自体の共通価値の創造のために、自治自律的に機能する仮想通貨、そこに、理性の支配という人類が目指すべき理想がありはしないでしょうか。
しかし、そのような理性的な努力は、例えば、困難な紆余曲折のなかでも、ユーロ圏の創出と拡大とにおいて政治的に継続しているわけであり、必ずしも仮想通貨による必要もないようですが。
仮想通貨においては、独自の経済圏の創出という側面が重要だとしても、暗号通貨だからこそ創出できる価値という側面にも大きな意味があると考えられます。ユーロという通貨を成立させるためには、基底に国家連合という政治組織をもたねばならないのに対して、暗号通貨ならば、それだけで自律的に存立し得ます。
このことは、一つの国のなかに小さな経済圏を創出しようとするときにも有益です。政府は地方創生を重点政策にしているわけですが、行政区分としての地方は現に存在しているのですから、創生されるべき地方は新たなる地域経済圏、自律的に内部循環する地域経済圏のことでなければなりません。その経済圏の独自の基盤として、円という法定通貨よりも、暗号通貨のほうが創造的に機能し得る可能性があるのだと思われます。
暗号通貨のどこに独自性があるのでしょうか。
銀行から送金するとき、送られるのは通貨ではなくて電子情報ですから、法定通貨も、多くの場合、「電子的方法により記録されて」、「電子情報処理組織を用いて移転」しているわけです。しかし、このことは、仮想通貨が「電子的方法により記録されて」、「電子情報処理組織を用いて移転」するものであることと、本質的に異なるのでなければなりません。
すぐにわかることは、法定通貨は電子的方法によって記録されなくとも存在し得るのに対して、暗号通貨は電子的方法により記録されることによってはじめて存在し得るということです。では、電子的に記録された法定通貨と暗号通貨とは同じになるのかというと、そうではなく、本質的に違うわけです。
記録の効力が違うということですか。
これも哲学の話ですが、おそらくは、暗号通貨の場合、記録されたことが事実であるのに対して、法定通貨の場合は、事実が記録されているという解釈なのでしょう。
つまり、暗号通貨は電子的記録以外の形態では存在し得ないので、即ち、電子的記録の外に事実があるわけではないので、記録されたことが事実そのものになるのです。ところが、法定通貨は、電子的記録の外に存在するので、それを電子的記録に変換したとき、記録と事実の不一致が生じ得るわけです。なお、ここでは、事実という用語を使いましたが、もしかすると、権利という用語のほうが適切だったかもしれません。
2002年4月、みずほ銀行発足直後に発生したシステム障害を想起しますね。
2002年6月19日、金融庁はシステム障害に関連して行政処分を行ったのですが、そこには、システム障害がもたらした問題事象として、「口座振替の引落遅延や口座振替委託企業への引落結果通知の遅延、振込遅延、二重引落など」と記載されています。
これらの事象はシステムの障害であって、行員の誤った事務処理により法定通貨の実体的な移動が生じた等の事象ではありません。単に、システム上の記録が法定通貨の移動を正確かつ適時に記録できなかったというだけのことです。実際、みずほ銀行は、実体的な法定通貨の再移動を行うことなく、システムを改修して記録を正確なものにすることで問題処理をしたにすぎないのです。
この事件が示していることは、法定通貨に関する実体的権利関係は、それを記録している情報処理システムとは独立に確定しているということであって、記録は権利を表示するものではあっても、表示されたものが権利ではないということです。
暗号通貨の場合、誤った記録がなされたときにも、それは誤りではなくて、事実だということになるのでしょうか。
ますます哲学に深入りしますが、暗号通貨においては、記録の誤りは論理的に起き得ないのだと考えられます。そもそも誤りとは何かというと、実体的権利関係における紛争の原因になることだけが問題なのであって、紛争の可能性自体を除去しておけば、誤りは、誤りとして問題になることはなく、故に、それは、もはや誤りではないということです。
白いものも、全員の合意のもとで黒いとすれば、黒くなるということですか。
全員の合意を形成することは、全員の数が多くなると困難となり、ましてや「不特定の者」になると、限りなく不可能に近いと考えられますから、そこを解くことに暗号通貨の技術的な核心があるわけです。いうまでもなく、最大の論点は、特定のものの利益になるように合意を捏造できる可能性を完全に排除することであって、これがビザンチン将軍問題(Byzantine Generals Problem)といわれるものです。
記録に実体性をもたせることにより、取引の安全性と効率性を劇的に高め得るということですか。
日本では、不動産登記の公信力の問題として、広く知られている領域です。登記に公信力を付与するということは、登記されていることが実体的権利関係になるということですから、誤った登記はあり得なくなります。逆に登記に不正や誤謬が防げない以上、公信力を認めることは不適当ですから、現に公信力は認められていないのです。
しかし、不正や誤謬を完全に排除できるのならば、公信力を付与することにより、不動産取引の安全性と効率性は劇的に高くなるのですから、技術的な工夫による問題解決の道を放棄すべきではありません。更に、ここに暗号通貨による決済を組み合わせれば、どれだけ社会の利便性が増すことでしょうか。スマートコントラクト(smart contract)というのは、こういう方向へ、大きく広く展開していくべきものでしょう。
ところで、現に存在する仮想通貨について、「財産的価値」を認め得るものでしょうか。
法定通貨は、法定通貨を用いた経済活動があり、その経済活動が付加価値を生むからこそ、価値があるのです。仮想通貨も同じことですから、現にある仮想通貨について、価値を認めることは困難です。しかし、法律のいう「財産的価値」はあるのでしょう。
またまた哲学ですが、おそらくは、法律は市場原理主義的にできていて、価値のあるものが取引されて価格が形成されるのではなく、取引がなされて価格が形成されているものには価値があるという論理になっているのでしょう。この理屈は、古銭に通貨としての価値はなくとも、投機対象としての価値はあるというのと全く同じです。
以上
次回更新は、9月13日(木)になります。
2018/07/19掲載「そもそも仮想通貨に価値はあるのか」
2015/01/22掲載「なぜ現にある地方を新たに創生するのだ」
2015/01/08掲載「稀少すぎて値もつかない本」
森本紀行(もりもとのりゆき)
HCアセットマネジメント株式会社 代表取締役社長
東京大学文学部哲学科卒業。ファンドマネジャーとして三井生命(現大樹生命)の年金資産運用業務を経験したのち、1990年1月ワイアット(現ウィリス・タワーズワトソン)に入社。日本初の事業として、企業年金基金等の機関投資家向け投資コンサルティング事業を立ち上げる。年金資産運用の自由化の中で、新しい投資のアイディアを次々に導入して、業容を拡大する。2002年11月、HCアセットマネジメントを設立、全世界の投資のタレントを発掘して運用委託するという、全く新しいタイプの資産運用事業を始める。