78歳で病院の世話になったことのない麻生太郎先生の立派な見識

78歳で病院の世話になったことのない麻生太郎先生の立派な見識

森本紀行
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麻生太郎財務大臣の発言は、表現が直截的にすぎて乱暴な印象を与えるせいか、政治的には物議を醸しやすいわけですが、経済的な側面から内容を検討する限り、理に適っている場合が多いようです。例えば、健康保険のあり方について医療費負担の公平性に言及した最近の発言なども、一部に批判があったにしても、日本の持続可能な未来社会の建設にとって重要な示唆を与える立派な見識の表明なのです。

 麻生太郎財務大臣は、10月23日の閣議後の記者会見において、「78歳で病院の世話になったことはほとんどない」としたうえで、「自分で飲み倒して、運動も全然しないで、糖尿病も全然無視して、何とかかんとかになったという人の医療費は健康に努力している俺が払っている経費かと思ったら、あほらしゅうてやってられんと言った、ある我々の先輩がいたので、いいこと言うなと思って聞いていましたよ」と発言しました。
 この麻生大臣の先輩は、「健康に努力している」にもかかわらず疾病等の不幸に見舞われる人の医療費を負担することについてまで、まさか、「あほらしゅうてやってられん」と考えていたのではないでしょうから、それに賛意を表した麻生大臣の発言に何らの咎められるべき点もないのです。
 実は、ここには、保険理論の高度な論点があります。つまり、保険とは、個人の管理下にない危険、個人の努力によっては制御し得ない危険、個人の次元においては予測し得ない危険について、十分に大きな被保険者集団を形成することによって、統計的な制御と管理のもとで確率的に予測し得るものにする仕組みなのであって、逆に個人の管理下にある危険について保険の対象とすることには、いわゆるモラルハザードを引き起こす懸念があるということです。そして、麻生大臣は、このモラルハザードを指摘したにすぎません。

病気等の危険は、本当に、「健康に努力している」ことで、制御できるのでしょうか。

 病気等の危険を予防医療等によって制御できるかどうかは、科学的な検証の問題であって、ここで論ずべきことではありませんが、もしも健康管理の科学的な効果を否定するのならば、現状の健康産業の隆盛は、全て詐欺的な商法ということにならざるを得ないでしょう。実際、同じ記者会見において、麻生大臣は、予防医療の推進について、「誠に望ましいと思いますよ」と述べています。そういう見識のもとでなければ、発言は論理的意味をなしません。

そうしますと、病気等の危険には、予防医療的な努力によって制御できる部分と、制御できない部分があって、後者については、保険の一般理論が適用になるにしても、前者については、モラルハザードが発生しないような制度的工夫がいるということですか。

 麻生大臣におかれては、常に、そのような論理的に噛み砕いた発言をされる限り、失言などといわれて物議を醸すことはなくなるのでしょう。しかし、それでは、先生特有の個性的な魅力が失われてしまいます。
 さて、一方に、適切な健康管理等の予防医療的な努力によって、疾病等の危険を低下させようとしている人の集団がいて、他方に、「自分で飲み倒して、運動も全然しない」など、むしろ積極的に疾病等の危険を高めている人の集団がいるとしたときに、両集団の危険を平均して医療費を負担させることは、前の集団に属する人にとって、間違いなく、「あほらしゅうてやってられん」事態だと考えられます。モラルハザードとは、この「あほらしい」事態だといっていいでしょう。
 そこで、モラルハザードを回避し、医療費負担の公平性を確保するためには、健康保険料率に相対的格差を設けて、前の集団に対しては疾病等の危険を低下させる自助努力に見合うように低くし、後の集団に対しては疾病等の危険を上昇させる不養生に見合うように高くすべきだと考えられます。麻生大臣は、この理屈を独自の表現で述べたにすぎません。
 なお、いうまでもないことですけれども、このような傾斜負担を導入したところで、予防医療的な努力によっては制御できない危険について、両集団の危険を平均して医療費を負担させている限り、全体的な医療費負担について、公正性は維持されています。つまり、麻生大臣の指摘は、少しも公正性を損なうわけではなく、健康保険制度を健全に維持するためには、公平性も実現することが重要だという意味であって、実は、公正性と公平性を同時に実現するものとして、理に適った正論なのです。

利益誘因による改革という側面もありませんか。

 予防医療的な努力をすることの個人の次元での経済効果について検討してみると、健康増進の活動にも、予防医療にも一定の費用が確実にかかると考えられますが、その結果として疾病等の医療費の自己負担を減少できるかどうかは可能性にとどまることですから、収支がどうなるかは、必ずしも明確ではなく、むしろ、そのような経済計算よりも、健康に暮らせること、健康に暮らせると信じることの非経済的効用のほうが圧倒的に重要です。しかし、付随的利益として、健康保険料率が相対的に低くなることは、明らかに予防医療的な努力への誘因となります。
 同様に、「自分で飲み倒して」いるような人についても、その経済的収支は不明だとして、飲み倒すことの精神的快楽の効用が決定要因であることは自明ですが、そのことで健康保険料率が相対的に高くなることは、生活習慣の改善へ向けての不利益誘因になるに違いありません。
 こうして、利益誘因と不利益誘因が適切に働くことで、社会全体として、予防医療的な努力が促されることとなり、医療費総体の削減につながると見込まれることは、国民全体の利益ですが、その利益を生み出すものは、モラルハザードを回避する制度設計の工夫なのであって、しかも、そこで、公正性を維持しつつ、公平性が実現していくことは、公正公平こそ真の利益の源泉であり、適正な利益とは公正公平な仕組みに基づくことの証明であろうと思われます。

社会保障における相互扶助原理の適用に関する高度な問題ですね。

 健康保険制度は、不確実な疾病等の危険について、国民全体による相互扶助原理によって、医療費負担の公正性を実現するものです。公正性というのは、本人の責任に帰すことのできない不幸な疾病等について、その医療費を社会全体で負担することは、共同体としての社会存立の基礎をなすことであるという意味です。なお、念のためですが、麻生大臣の発言は、その脈絡からして、この公正性を否定するものでないことは明瞭です。
 ところが、予防医療の効果や健康増進維持活動の効果を認め、また、逆に、不養生、不摂生によって疾病が増加する可能性を認めることは、疾病等の危険について、本人の責任に帰すことのできる要素を認めることですから、その限りにおいて相互扶助原理を否定するとしても、何ら公正性に反することにはならず、むしろ、公平性の見地からは望ましいことなのです。麻生大臣の発言は、このことをいっています。
 この論点は、健康保険に限らず、生活保護、年金など、全ての相互扶助原理に基づく社会保障制度に共通するものです。更に、社会保障を超えて、税負担のあり方にも影響を与えます。なぜなら、課税には所得の再配分という相互扶助的な要素を内包するからであって、政府のいう税と社会保障の一体改革というのは、まさに、国民全体の社会保障費用負担における公正性と公平性の均衡の再定義にほかならないでしょう。

年金の場合、医療費負担とは逆に、国民が健康で長生きするほど、国民の経済的負担が増えるという問題があるのではないでしょうか。

 その難しい問題に対する答えは、麻生先生自身の生き方が示しているのではないでしょうか。そもそも、78歳に至るまで、ほとんど病院にかかったことがないということは、健康保険料の負担において、圧倒的に支払い超過になっているということであり、78歳まで現役で所得があるということは、年金保険料の負担においても、やはり支払い超過になっていると想像されます。麻生先生は、政治家としてもさることながら、社会保障の財政面でも、国家に貢献されているわけです。
 しかし、この麻生先生の置かれた立場は、健康で働けるにもかかわらず働いていない大量の人の存在を考えるとき、必ずしも公平だとはいえません。そこで、この不公平性を是正するためには、今後、全ての国民は、78歳はともかくも、少なくとも70歳までは、麻生先生が垂れられた範に従い、現役で働き続けることになるほかなく、このことは既に政府の方針として明らかになりつつあります。
 では、このように就労期間を延長し、年金支給開始年齢を繰り延べることは、国民に不利益を強いることとして社会的公正に反するのかといえば、そもそも、寿命が延びて老人の定義が変動したことは自然的現象であって、その事実に対応して社会の仕組みを変えることは、当然至極のことにすぎず、むしろ、働けるのに働かないことこそ、社会に対する責務の面から、不公正といえるでしょう。
 なお、意図的に誤解する人もいるのでしょうけれども、健康等の事由により働きたくても働くことのできない人については、社会の責務としての相互扶助原理によって、その生活保障がなされていることを前提としたうえでの議論であることに注意を喚起しておきます。あくまでも、公正性を確保したうえで、公平性を論じているわけです。

経済や社会的責任の問題というよりも、むしろ、生きがいの問題ですね。

 就労期間の延長を不利益と考えることは、労働を苦役とする価値観の表明です。他方で、働くことは社会への関与として社会的動物である人間の存在様式であることを考えれば、そこに喜びと生きがいを見出すべきことも当然で、政府のいう働き方改革というのは、この労働観の転換を前提にして、はじめて正しく理解されるものでしょう。働かされるのではなく、働くのであって、自主自立的に働くことに、労働や雇用という用語が馴染まないのは当然だから、働き方改革というのです。

働くことができ、働きたいのに働く機会のない人については、どう考えるべきでしょうか。

 経済学の需要優先の原則からいえば、働く能力の評価は、働く側の本人ではなく、その役務を購入する側の社会が規定するといわざるを得ず、本人の働く意思が充足されないという不均衡の生じる可能性を否定できません。現実問題として、定年を迎える大量の被用者が問題なのであって、おそらくは、ここに今後の日本社会の解決すべき最大の課題があるのです。
 さて、この問題について、麻生先生は何といわれるのでしょうか。78歳の麻生先生が現役でいられるのは、ご自身が努力され、社会が先生の能力を高く評価しているからですが、やはり、個人の能力や努力を強調されるのでしょうか。

以上


次回更新は、11月22日(木)になります。
≪ アーカイブから今回に関連した論考 ≫
2017/05/11掲載「お金の貯め方改革と生き方改革
2016/10/27掲載「投資のリスクは生活のリスク
2015/02/12掲載「公的年金は相互扶助なのだから
森本紀行

森本紀行(もりもとのりゆき)

HCアセットマネジメント株式会社 代表取締役社長

東京大学文学部哲学科卒業。ファンドマネジャーとして三井生命(現大樹生命)の年金資産運用業務を経験したのち、1990年1月ワイアット(現ウィリス・タワーズワトソン)に入社。日本初の事業として、企業年金基金等の機関投資家向け投資コンサルティング事業を立ち上げる。年金資産運用の自由化の中で、新しい投資のアイディアを次々に導入して、業容を拡大する。2002年11月、HCアセットマネジメントを設立、全世界の投資のタレントを発掘して運用委託するという、全く新しいタイプの資産運用事業を始める。