ハードボイルド小説では、探偵は、バーテンダーやアパートの管理人などから情報を引き出すとき、紙幣をちらつかせながら、上手に心理的な揺さぶりをかけていきます。これは、情報の対価として一定の金額を支払うという口頭の約束だけでは、人の心は動かず、目の前に現金をちらつかせることが誘引となり、かつ、そこに現金のあることが支払いの保証となって、はじめて人の心は動くことを意味しています。
海外のレストランのチップというのも、もともとは、現金だったからこそチップとして機能していたのではないかと思われます。クレジットカードが普及してからも、昔は、チップを清算代金に上乗せせず、別に現金で払う人もいました。また、サービスに非常に満足したようなときは、標準的なチップはクレジットカードの清算に含めても、別に追加的なチップを現金で払うこともありました。これは、チップの本来の意味である謝意や満足感の表明は、現金でないと伝わらないからでしょう。
チップという制度そのものがなくなりつつあるようですが。
一般に、お金は何かの対価として支払われるのですが、その交換は、取引の公平公正性が実現している限り、等価交換でなければならず、等価交換は経済合理性に基づくものであって、それ以外の特別の意味を含むものではありません。
つまり、チップがサービスの正当な対価として確立してしまえば、そこから顧客の謝意や満足感の表明という意味が消滅しますから、もはや、それはチップではないわけで、日本と同じように飲食料金に包含されていくのは当然ですし、支払方法についても現金である必要はなくなるのです。
また、ハードボイルド小説の探偵がちらつかせる現金は、払う側も受け取る側も、情報提供の公正な対価だとは考えていないでしょうから、お金の授受の事実について、痕跡をとどめない方法が選択されるのであって、故に、現金でなければならず、クレジットカードの使用や銀行振込みは不可になるのです。そして、このことは、現金をちらつかせる行為によって、当事者間に明瞭に了解されていたわけです。
ところが、犯罪捜査の一環として、警察が正規な手続きのもとで適正な情報提供料の支払いを行うのならば、それは経済合理的な等価交換なのであって、そこには探偵のちらつかせる現金がもっていた特別の意味はないのですから、銀行振り込みでも何でも支払方法はどうでもよくなります。
企業の人事処遇制度における報酬の支払いにも同じ理屈を適用できるでしょうか。
給与等の報酬が何の対価であるかは、非常に難しい問題ですが、少なくとも理念的には、企業に対する貢献への正当な対価でなければならないはずです。つまり、等価交換です。ただし、理念的なものは必ずしも現実的ではなく、そもそも、貢献の経済的価値の測定自体が容易ではありませんから、真の等価交換が成立しているとは限らないでしょう。
例えば、人材育成といえば、育成期間中は貢献を上回る処遇になるのですから、貢献と処遇の均衡は一定の時間軸のなかでしか実現しませんし、組織としての貢献を個人の寄与度に応じて公正公平に分割することは極めて難しく、また、経済的成果から偶然性を控除して人間の働きによる要素を抽出することも容易ではないなど、多く技術的に解決困難な問題があるわけです。
しかし、やはり、理念的には、勤務期間を通算したときに貢献と処遇の等価交換が実現していなければなりません。このことは、事実として、そうなるということではなく、理念として、そうなるように企業の人事処遇制度は運用されなければならないということです。
企業の処遇制度というのは、等価交換を実現するためではなく、金銭給付以上の経済的価値が創出されるように人間の能力を引き出すために運用されるべきものではないでしょうか。
実は、成果主義などといって、成果に応じた適正な処遇を貫徹しようとするとき、それが技術的に優れたもので実務的に有効に機能するのならば、等価交換の実現に接近していくでしょうが、その帰結として、人事政策上の効果は変化していく可能性があります。
つまり、成果に報いるということには、慰労や賞賛などの意味があったはずですが、報酬を受ける側に等価交換という意識が生じたとき、そうした意味は伝わらなくなるでしょう。これは、チップが固定のサービス料に転化したとき、顧客の感謝や満足感の表明という意味がなくなるのと同じです。もちろん、慰労や賞賛などの意味に替えて、別の意味、例えば公正性を伝えることはできますが、人事戦略上の効果は全く異なってきます。
問題は、企業経営にとって、どのような意味を伝えることが人事戦略上の効果を大きくするのかということですが、ここに一般論がなりたつはずもなく、企業固有の事情を反映して、様々な創意工夫があるのでしょう。そのとき、重要な役割を演じるのがベネフィット(benefit)です。
ベネフィットというのは福利制度のことですか。
ベネフィットというのは、英語というよりも米国語といったほうがよく、利益等を意味する一般語ではなくて、企業の人事処遇制度で使われる専門用語ですが、コンペンセーション(compensation)と対になっています。コンペンセーションの語義は補償であって、労働という苦役に対する金銭による正当な補償という意味で報酬を指していたのでしょうが、ベネフィットの語義は利益供与であって、コンペンセーションに加えて何らかの付加給付をすることで功績に報いるものだったはずです。
しかし、経営の合理化によって、コンペンセーションの意味は変質して、トータル・コンペンセーション(total compensation)、即ちコンペンセーションとベネフィットの金銭換算価値の合計になります。つまり、ベネフィットはコンペンセーションの一部を同じ金銭換算価値をもつ別の給付形態に転換したものとなるわけです。
転換方法には様々なものを考え得るのですが、代表例には、支給時期を退職時等に繰り延べる方法と、金銭以外の実物給付にする方法があります。いうまでもなく、前者の例が企業年金や退職金であり、後者の例が健康保険や住宅です。故に、確かに、ベネフィットを日本語にすれば福利制度になるでしょう。
ベネフィットは何らかの意味を伝えるものとして、ものをいうわけですね。
ベネフィットの背景は複雑ですけれども、それがベネフィットであるのは、従業員にとって利益になるからだという点は動かせません。つまり、従業員本位の発想で、従業員の利益になるように、従業員の満足を得られるように、金銭給付の変形を行うことにより、企業の従業員に対する特別な思い、人を大切にする思いや仲間としての一体感を伝えるのがベネフィットの根本思想なのです。
では、ベネフィットを提供することで、企業は何を得るのか。それは、企業に対する帰属意識を高めることであり、労働意欲、前向きな就労姿勢、精励と勤勉の意識を醸成することであり、最終的には労働生産性の向上によってもたらされる企業利益なのです。
また、企業年金や退職金は、一般に勤続年数が長くなると支給条件がよくなるように設計されていて、長く勤めてくださいという企業の思いが明瞭に表明されていますが、そこには長期勤続を促して雇用の確保と熟練による生産性の向上を狙う意図があるわけです。
税制上の利益も重要ではないでしょうか。
ベネフィットには、明らかに税制上の利益という意味を含んでいます。それは、例えば、退職金についての優遇税制をみればわかります。しかし、ベネフィットの本質を優遇税制に求めることは誤りでしょう。逆に、社会にベネフィットとして定着した制度だからこそ、優遇税制が認められているというべきです。
法定福利についても同じことで、健康保険や厚生年金は国民が求めるものだからこそ、一企業の任意な制度を超えて産業界全体の共通制度として確立したものと考えるべきです。法定福利を完備することは、企業として社会的責任を果たしていることを従業員に伝えるための最低限の要件なのです。そして、企業年金に典型的に表れているように、法定福利以上のベネフィットを供与することは、一流企業であることを従業員に証明することにほかなりません。
日本には伝統的に諸手当がありますが、これもベネフィットでしょうか。
例えば家族手当が労働の対価でないことは自明であって、おそらくは、広く社会に定着した慣習上のものという以外に、企業経営のなかで正当化することはできないでしょう。確かに、ものをいうベネフィットとして考えるとき、企業の従業員に対する何らかの思いが込められているのでしょうが、さて、それが人事政策上いかなる意義を有するかは不明です。
諸手当に限らず、ベネフィットは企業の処遇制度なのであって、そこで企業が従業員に伝えようとしていることの人事政策上の効果が明らかでなければなりません。その効果が不明瞭なものは、合理性を欠いたベネフィットとして不公正や不公平なものとなり、人事政策上の負の効果を生んでしまうことに留意されるべきです。
ベネフィットが企業の処遇制度として有効に機能するためには、ベネフィットの企業負担がいくらなのかも通知する必要がありますね。
企業には給与明細の発行が義務付けられていますが、そこには、諸手当は載っていても、他の企業負担のベネフィットの多くについて、金銭換算価値が記載されていません。これでは人事政策上の意味はないのであって、企業の人事処遇制度として行う以上、ベネフィット明細の発行は不可欠でしょう。同じ主旨で、例えば日本年金機構から送られてくる「ねんきん定期便」に企業負担分の載っていないことも、負担した企業としては大いに不満であるはずです。
以上
次回更新は、12月20日(木)になります。
2018/11/29掲載「企業年金に企業の品位品格が現れる」
2015/11/26掲載「素晴らしい、かくも立派な企業年金基金があったのか」
2013/09/12掲載「カネにモノをいわせる報酬の払方」
森本紀行(もりもとのりゆき)
HCアセットマネジメント株式会社 代表取締役社長
東京大学文学部哲学科卒業。ファンドマネジャーとして三井生命(現大樹生命)の年金資産運用業務を経験したのち、1990年1月ワイアット(現ウィリス・タワーズワトソン)に入社。日本初の事業として、企業年金基金等の機関投資家向け投資コンサルティング事業を立ち上げる。年金資産運用の自由化の中で、新しい投資のアイディアを次々に導入して、業容を拡大する。2002年11月、HCアセットマネジメントを設立、全世界の投資のタレントを発掘して運用委託するという、全く新しいタイプの資産運用事業を始める。