アキレスと亀について、ゼノンの論証は次の通りです。アキレスが亀の位置まで到達するには一定の時間を要する、その時間経過中に亀は何がしか前進する、次にアキレスが再び亀に追いつこうとするためには、また一定の時間が経過する、その間に、更に亀は前進する、故に、どこまでいってもアキレスは亀を抜けない。
この論理は、形を変えて、的に到達しない矢としても知られています。即ち、放たれた矢は、的への距離の中間点を通過する、次に残りの距離の中間点を通過する、更に残りの距離の中間点を通過する、空間は無限分割可能であるから、無限に新たに通過すべき中間点が生じ得る、故に、矢は的に到達できない。
この問題については、多くの哲学者の論評があるようですが、ベルクソンのものが有名ですね。
ベルクソンの解は明快です。即ち、本来は分割できない時間の持続を空間に投影して任意分割が可能であるかのようにみなしたところに、根底の誤謬があるというのです。確かに、アキレスと亀にしても、矢と的にしても、アキレスや矢の運動が分割不能な時間の持続であるのにもかかわらず、それを空間に投影して恣意的に分割したが故に逆説が生じているのです。ゼノンの逆説は、敢えて逆説を生じさせるために、運動の恣意的分割を行った詭弁だといっていいでしょう。
しかし、詭弁も論理なので、論理的に詭弁の正しさを論証できます。即ち、アキレスが亀に追いつく、その刹那に運動が停止することを仮定するのならば、逆説は真理です。また、本来アキレスが亀を追い抜くはずの地点よりも先にある地点を基準にして逆説と同じ議論を展開すれば、アキレスは亀を抜きます。
同じように、矢の運動が的まで到達して終了するとすれば、矢と的の逆説の通りに、矢はまさに的に命中せんとする刹那に運動停止して落下します。また、矢の運動が的を超えて持続するとすれば、的の後ろにある地点を基準に矢と的の逆説の論理を適用することで、的自体がいずれ中間点となって、そこの通過を論証できるのです。
いうまでもなく、アキレスは、亀に追いつくために走るのでなく、亀を抜くために走るのですから、アキレスの目標は、亀にあるのでなく、亀の先にあるのであって、アキレスは、詭弁の論理に従って、亀を抜きます。飛ぶ矢は、的に突き刺さるように放たれていることから自明のように、的の後ろを目掛けて飛んでいるのですから、詭弁の論理に従って、的に当たります。
アキレスにして、ぴたりと亀に並ぼうとするから、亀を抜けず、飛ぶ矢にして、ぴたりと的まで飛ぼうとするから、的に到達しないわけですね。
アキレスにして、亀を見ていなければ、主観的にはアキレスの前に亀はなく、亀を抜いたときに振り返ることで、客観的な亀の存在に気付くのです。同様に、事前に矢の前に的がなかったとしたら、矢の飛翔を事後的に中断したものが的だったということになるでしょう。高村光太郎の詩にあるように、「僕の前に道はない 僕の後ろに道は出来る」のです。
よく目標を目指すといいますが、目標を目指すと、目標に到達しないということですか。
ゼノンの詭弁に従えば、目標を目指して行動する人は、目標達成の直前で燃焼し尽くして、目標に到達できないことになります。しかし、同じ詭弁に従えば、目標を超えようとして行動する人は、目標を達成できることになります。要は、目標を達成するためには、達成すべき目標の先に、より高度な目標をもっていなければならないということですから、もはや、詭弁というよりも、人間の行動の真理を突いたものといったほうがいいでしょう。
スポーツの選手は、記録の更新を目指しているのであって、先人の記録に並ぶことは通過点にすぎないのです。そのようにして、多くの選手が競っているので、記録は更新されていくのです。このことは、人間が成長すべきものである限り、全ての行動において、真実でなければなりません。
アキレスが亀を追い抜けないのは、亀という他人を意識して抜こうとするからではありませんか。
スポーツの選手は、記録の更新を目指して競っている限り、実は、他の選手と戦っているわけではなく、自分自身と戦っているのだと考えられます。アキレスにとって、亀と競争して勝つことなど、全く意味もないことです。ゼノンの詭弁は、論理的に鋭いものですが、設題の前提において愚劣なものだといわざるを得ません。アキレスの相手は、アキレス自身だったのです。
しかし、公式記録の整備されていなかった古代において、アキレスは、便宜的に競争相手を求めたかもしれません。もちろん、それは最も遅そうな亀ではあり得ず、最も速そうな豹とかチータだったに違いありませんが、豹に勝とうとしたときにも、亀に勝てなかったのと全く同じ理由で、豹に勝てなかったはずです。
アキレスは、自分の前だけを真直ぐに見つめて走れば、いとも軽やかに亀を抜き去るのですが、亀を視野に捕らえた瞬間、亀を意識してしまうと、体が硬直し、身体運動の連続は絶たれてしまうわけです。相手を亀から豹に変更したところで、全く同じ現象が起きるに違いありません。
「僕の前に道はない 僕の後ろに道は出来る」ということは、過去の道しか見えないわけですが、なぜ未来へ向けて道を歩めるのでしょうか。
スポーツ選手にとって、記録は全て過去のものであって、未来には、記録の更新しかありません。記録が更新されたときに新しい記録が生まれ、新しい記録は、生まれた瞬間に過去のものとなり、再び更新されるのを待つだけとなります。未来は、未踏の領野であって、見ることも知ることもできません。見ることも知ることもできるのは過去だけです。
未来に亀はいません。亀は過去を振り返ったとき、のろのろ歩くものとして、そこに見出されるだけです。アキレスは未来に向かって前進しているのではないのです。なぜなら、未来を見ることができない以上、未来に向かうこともできないからです。アキレスは、過去に遠ざかる亀を見て、背を前にして後退しているのです。そして、未来に背を向けて過去を見ているからこそ、未来を恐れずに後退できるのです。
そのようにして、時間を、あるいは歴史を形象することは哲学の問題ですね。
ベルクソンは、人は、薔薇を見るとき、薔薇にまつわる全ての記憶を瞬時に甦らせる、故に、誰も同じ薔薇を見ないといいました。より正確には、同じ薔薇を見る人々は、その瞬間において、各自の過去の全てを包含した内的時間を生きているということです。各自の内的時間の長さや密度は、それぞれの人生の厚みを反映して異なります。実際、これは、時を忘れて見惚れたり、退屈で時をもて余したりする日常経験に一致しているわけです。
では、客観的時間は何なのか。ベルクソンは、それを内的時間の外的空間への投影だと説明しました。内的時間の個別性は、客観的測定を許さないが故に、一般的抽象空間を借りることによって初めて測定可能になります。時間の長さは、直線の長さの比喩なのです。
そして、近代以降の科学は、単なる比喩を超えて、時間の空間化を前提にして、高度な発展を遂げたものなのです。そこでは、未来は、過去の延長として、実在を主張しています。自然科学的思考から脱却できなくなっている現代人は、誰も高村光太郎の詩のようには考えていません。僕の歩む道は後ろにも前にも一筋につながっていると考えているのです。
誰しも時間は過去から未来へ流れていると考えるわけですか。
一般的には、単に時間が流れるのではなく、流れつつ進化し、成長し、改良されていくと信じられています。だからこそ、過去が研究され、過去の改良版として未来が構想され、構想された未来に向けて前進しているように普通に実感されているのです。つまり、過去から抽出された未来は、実現すべき目標として、いつも未来にあると思うのが普通であるわけです。
しかし、それは亀を未来に置くことと同じです。アキレスは未来に置かれた亀を抜けません。事実として、アキレスが亀を抜いているのは、亀が過去にあるからです。過去を見ることは、過去を未来に伸ばすことではないのです。革新は、過去の延長には決してありません。
そうしますと、成功事例に学ぶというのは愚劣だということですか。
事業における成功は、成功者自身の内的時間においては、豊かな生き生きとした内容をもつ必然的展開です。しかし、他人は、成功者の語る言葉や行動の履歴など、客観的時間に空間化されたものによってしか、その成功を研究できません。
つまり、活きたイカの持続的運動である泳ぎは、泳いでいるイカにしか体験できず、他人にできることといえば、イカをスルメに乾して、成分と組織構造を分析することだけです。スルメを研究してイカを理解したと思い、泳げるつもりで海に飛び込むものは、溺死することでしょう。
これは、成功者を亀とし、ゼノンの逆説におけるアキレスに自らをなしてしまうことと同じです。それでは亀を抜けません。他人の成功を意識しないで走れば、即ち自由奔放に走れば成功者になり得た人も、亀を見たばかりに、亀縛り、いや金縛りのように硬直し、敗北するのです。
そうしますと、成功は常に偶然なのでしょうか。
未来を語ることはできません。語り得ない未来において、敢えて語るなら、成功は偶然だというほかないでしょう。
では、過去を語ることはできるのか。ベルクソンの内的時間の持続は、分節不能なものとして、瞬時に全体が想起されるものとして、語り得ないものです。語るためには、時間を空間に投射して分節するしかありません。活きたイカについては語れず、語るためにはスルメに乾すしかないのです。そして、その語り得る過去において、成功は必然なのでしょう。
そもそも、過去を語るのは何のためか。それは未来を語るためでしょう。故に、過去の成功事例は未来の必然として語られるのです。こうして巷に経営学の本や実務書が氾濫するに至るのですが、それらにはスルメとしての意味しかありません。美学が重要な学問だとしても、美学から美は創造されないのです。
事業の成功の源泉に、創造、あるいは革新があるとして、創造は内面の充実からしか生まれないということでしょうか。
同じ薔薇について、薔薇が想起せしめる各自の記憶の深さ、厚さ、豊かさ、多様さを反映して、見る人ごとに異なる薔薇を見ます。薔薇から美を創造できるものは、想起の深さ、厚さ、豊かさ、多様さにおいて、他を圧倒しているのです。
以上
次回更新は、2月7日(木)になります。
2018/02/22掲載「見ろよ青い空的な大きな言葉の効用について」
2018/02/01掲載「悪魔の経済計算と計算不能な価値の多様性による成長戦略」
2016/12/15掲載「スルメ金融からイカ金融へ」
森本紀行(もりもとのりゆき)
HCアセットマネジメント株式会社 代表取締役社長
東京大学文学部哲学科卒業。ファンドマネジャーとして三井生命(現大樹生命)の年金資産運用業務を経験したのち、1990年1月ワイアット(現ウィリス・タワーズワトソン)に入社。日本初の事業として、企業年金基金等の機関投資家向け投資コンサルティング事業を立ち上げる。年金資産運用の自由化の中で、新しい投資のアイディアを次々に導入して、業容を拡大する。2002年11月、HCアセットマネジメントを設立、全世界の投資のタレントを発掘して運用委託するという、全く新しいタイプの資産運用事業を始める。