ベルクソンは、人は、薔薇を見るとき、薔薇にまつわる全ての記憶を想起する、故に、誰も同じ薔薇を見ないといいました。つまり、人は、薔薇を見るとき、各自の過去の全てを包含した内的時間を生きているのであって、各自の内的時間の長さや密度は人生の厚みを反映して異なる以上、その体験は唯一絶対のものだというのです。ベルクソンは、それを純粋持続と呼びました。
薔薇に見入るとき、ときを忘れて見入るように、純粋持続は測定可能な時間ではありません。では、時間とは何かというと、ベルクソンは、純粋持続の外的空間への投射だと説明しました。純粋持続の絶対的個別性は、一般的抽象空間を借りることによって測定可能になり、分節可能になる、即ち語ることが可能になるのです。そして、言葉を得ることによってはじめて、人と人との交流が可能になり、そこに世界が構成されます。
我々が生きている日常の世界は、科学の言語で論理的に構成された世界です。そこでは、時間は過去から未来へ均質に進行しています。日常世界を離れて純粋持続の個人的体験において薔薇に見入っているときも、誰しも客観的時間の進行を疑ってはおらず、単に時間の進行を忘れているだけだと信じているのです。
さて、そこで唐突な問いとして、どこで創造はなされるのか。
自然界において、科学の体系のなかで論理的に説明できない事象が生起すれば、科学は、それを説明できるように、体系の修正を行うでしょう。故に、科学の体系のなかでは、創造、真に新しいものの創造はあり得ないことです。自然世界の歴史は、時間の始点において存在したものの自己展開でしかないはずなのです。
創造は、人間の精神の領域にしかありません。自然科学の体系も、そのなかに創造がないように内部完結した体系として、人間の精神が創造したものです。故に、もしも創造があるのならば、それは客観的時間のなかでは生じ得ず、個人の内的な純粋持続のなかでしか生じ得ないでしょう。そして、創造されたものは、語られ、形象を与えられ、表現されて社会化するとき、死した記録として人類の精神文化の歴史に刻まれ、遺産として蓄積されていくのです。
こうして、精神文化は、一方で個人の生きた営みとして創造がなされつつ、他方で死した記録として社会的蓄積がなされることで発展を続けているのです。それが精神世界の歴史です。そして、自然科学もまた、そうした精神世界の歴史のなかで構成されたものにほかなりません。
死した記録も個人の純粋持続のなかで体験されるとき、新たに創造されないでしょうか。
人は、芸術作品に描かれた薔薇を鑑賞するとき、薔薇にまつわる個人的体験の全てをよみがえらせます。そのとき、鑑賞者の純粋持続のなかに、芸術作品が新たに創造されるのです。芸術作品は、芸術家の純粋持続のなかで生き生きと創造され、創造されて形を与えられたときに死したものとなるのですが、鑑賞者の純粋持続のなかで常に新たなるものとして再創造されるのです。
また、人は、薔薇を見るとき、絵画や詩や小説などの芸術作品に描かれた薔薇を想起し、それらの作品を生き生きと自分の内面によみがえらせ、薔薇にまつわる全ての体験を想起することで、純粋持続のなかで自分だけの薔薇を見ます。つまり、自然界の薔薇も、それを見る人のなかで、その人だけの薔薇として創造されるのです。その薔薇に美しい形象を与えることのできる特別な能力に恵まれた人、それが芸術家にほかなりません。
文化とは、記憶を共有する範囲のことでしょうか。
江戸時代の日本人は、ヨーロッパの同時代人とは、全く異なる記憶のなかに生きていました。そこで、狭い道を通って舶来したヨーロッパの工芸品を見たとき、ヨーロッパ人とは全く異なるものを見ていたはずです。その差が文化の差にほかなりません。
江戸時代の知識人は、ある季節の、ある時刻の月を見るとき、同じ月を詠んだ平安朝の歌や中国の詩を想起したに違いありません。そうして、微妙な月の姿の差のなかに無限に多様で深度のある内面世界を構成したのです。芸術作品の歴史の記憶を共有し、内面世界を豊かに構成する技巧を共有するものが江戸時代の知識階級であり、そこで形成された会話などの様式や作法が江戸時代の知識階級の文化だったのです。
また、平安朝の宮廷人は、ある季節の、ある時刻の月を見るたびに、同じ月を詠んだ全ての過去と現在の宮廷人の歌を想起し、その歌の背景にある状況と事情を想起し、その想起により豊かに膨らまされた内面世界を表現する自分自身の歌を構想したのです。この最高度に知的な感興を共有したものこそ宮廷人であり、その宮廷人の所作振る舞いが王朝文化であったのです。
さて、そうした創造や文化についての考え方は、現代社会の産業活動にも当てはまるでしょうか。
産業活動は、その基礎に人間の生活があり、しかも、生活は生物的な問題ではなく精神的な問題ですから、明らかに精神文化に属するものです。故に、産業活動における企業の創造的活動は、芸術の創造と全く同じように、個人の純粋持続のなかでなされているのであって、個性の発現そのものであるはずです。つまり、企業という組織の次元における創造などあり得ないということです。
もちろん、個人の創造は、企業の業務へと構成されて標準化されなくてはなりません。そのとき、芸術家の創造から生まれた作品が死した記録になるのと同じように、死して反復される仕事になるでしょう。しかし、過去の芸術作品が常に現代の鑑賞者の内面に再生し続けているのと同じように、仕事は、生き生きと働く人のなかで、常に創造の原点を想起させ、常に新しい意味を付与されるのでなければならないのです。
そして、企業とは、創業の原点における創造から始まるのだとしたら、その創造の記憶を共有する人の集合でなければなりません。実際、創業者の事績や、社是、社訓、社風等は、企業の文化を象徴するものとして、原点の創造を想起させる機能を演じているはずであり、その神話と化した物語は、日々の企業活動のなかで、常に生きるものとして個人の次元で再創造されているはずであって、それが革新を続ける企業の理想の姿なのです。
ここで極めて重要なことは、企業の文化とは、仕事に常に新たな意味を付与し、仕事を常に創造の原点へと立ち返らせるものだということです。そして、それは、記述できる規則や手順ではなく、記述し得ず語り得ないものとして、働く人のなかに自然な所作振る舞いとして身体化され、共通体験のなかで伝承され、常に生き生きと活性化されていくものでなければならないのです。
薔薇を見ることが創造の母胎であるためには、純粋持続において、薔薇と一体化するというか、薔薇に没頭する必要がありますが、仕事に没頭できるものでしょうか。
没頭すれば、時間の経つのを忘れます。没頭こそ、純粋持続です。さて、仕事に没頭できるか、できるとして、それを仕事と呼ぶべきか、むしろ、遊びと呼ぶべきではないのか。なぜなら、没頭できる対象は、好きなものと呼ばれるべきであり、好きなことに没頭することは、遊んでいると呼ばれるべきだからです。創造は個人の遊びから生まれ、その遊びが偶然に仕事になる、それが企業の革新だと考えられるのです。
企業のなかでの個人の創造は、日常の仕事を離れて遊んでいるときに、偶然に起きるのだとしても、遊びから生まれた創造は反復される仕事へと固定化されざるを得ないわけで、そのとき未来に向かって偶然にすぎなかった遊びは、過去に向かっては必然的で論理的な展開として説明されることになります。
こうして、生きた遊びは、死した仕事に化すとき、論理的装飾を得るわけですが、装飾に過ぎない論理を敷衍したところで、即ち空間的時間を未来に延長したところで、決して次の創造につながりはしません。創造が起きるためには、純粋持続への没頭、即ち遊ぶことが必要なのです。
遊ぶことが働き方改革の本質だということですか。
働き方改革とは、それが成長戦略の一環なのならば、創造を生むことが目的でなければなりません。つまり、企業のなかに遊べる環境、遊べる環境といっても企業内遊園地のことではなく、創造を生む環境と諸条件を整備することです。では、具体的に遊べる環境とは何かと問われれば、そこにこそ経営の本質があるのだから、答えようがないということになります。
しかし、確実にいえることは、遊ぶという用語を敢えて採用する以上、職務ではないから遊びなのだという自明のことです。そこで、例えば、副業を許容することは、本業で勤務している企業からすれば遊んでいることであり、休暇制度の弾力化は、まさに遊ぶことの制度化にほかならないと考えられるのです。あるいは、具体的な成果目標を定めない研究開発のあり方も、それが偶然に成果につながるまでは、遊んでいるのと同じだと思われます。
働き方改革には、もうひとつの本質として、遊びの偶然を仕事の必然に転化する技法がありますね。
遊びは偶然に仕事につながる結果を生みます。それを論理的に過去からの延長として仕事に構成することは、決して難しいことではありません。むしろ論理的演繹ほど簡単なものはないでしょう。難しいのは遊ぶことです。遊ぶことは難しくても、そこから結果を生むことは難しいことではありません。なぜなら、結果は偶然に生まれるものであって、意図されたものではなく、故に、難しいという用語自体がなじまないからです。
そして、より難しいことは、遊びが仕事に転化したあと、仕事に生きた遊びとして喜びを再付与し続けることです。遊びは、仕事になった瞬間に遊びの楽しさを失い、つまらない苦痛な業務に堕しかねないものです。働き方改革は、仕事が規則化して生きた意味を失った作業に堕している現状に対して、仕事がつまらないから生産性が低くなっている現状に対して、企業の反省を促すものだといっていいでしょう。
仕事が苦痛にならないためには、働く人にとって、仕事の意味を常に新たに再発見できるようにしなければなりません。そのためには生きた企業文化を確立するしかないと思われます。では、いかにして企業文化は確立されるか、これも経営の本質的問いですから、答えようがありません。
しかし、ここでも確実にいえることは、文化は規則ではないことです。また、文化は自然に形成される歴史だということです。そして、真珠が形成されるためには核が必要なように、文化が形成されるためは共通の記憶が必要です。それは神話と呼ばれるほかないでしょう。
以上
次回更新は、2月14日(木)になります。
2013/08/15掲載「You Can Do Anythingという責任と規律」
2013/08/08掲載「You Can Do Anythingという企業文化」
2013/08/01掲載「人、創造の場、環境としての企業」
森本紀行(もりもとのりゆき)
HCアセットマネジメント株式会社 代表取締役社長
東京大学文学部哲学科卒業。ファンドマネジャーとして三井生命(現大樹生命)の年金資産運用業務を経験したのち、1990年1月ワイアット(現ウィリス・タワーズワトソン)に入社。日本初の事業として、企業年金基金等の機関投資家向け投資コンサルティング事業を立ち上げる。年金資産運用の自由化の中で、新しい投資のアイディアを次々に導入して、業容を拡大する。2002年11月、HCアセットマネジメントを設立、全世界の投資のタレントを発掘して運用委託するという、全く新しいタイプの資産運用事業を始める。