銀行や信用金庫等の預金取扱金融機関は、預金を集めて企業等へ融資を行うのが本業であって、合理的に見積もられた貸倒損失等を吸収できるだけの自己資本をもち、合理的に見積もられた預金流出等を吸収できるだけの手元流動性をもつ限り、預金の安全性を保証しつつ産業界の資金需要に応えることで、金融の社会的責務を全うできるように設計されています。
そして、預金取扱金融機関の自己資本利益率が最大化するのは、諸指標の最適性が保たれているとき、即ち、信用リスク総量に対する最適な自己資本、流動性リスク総量に対する最適な手元流動性が維持されているときですが、一般に、そうした理想が実現しているときは、経済活動全体としても安定巡航的状況になっているのだろうと考えられます。
しかし、現実は全く異なるわけで、例えば経済成長というのは、産業界の旺盛な資金需要に対して預金取扱金融機関の自己資本や預金が過小である状態であって、そこでは、金融システムの構造的リスクは大きいかもしれませんが、その分、自己資本利益率は高く、金利も高く推移します。
要は、成長下においては、お金が稀少だから、お金の運用効率が高く、効率が高い分、余裕が少なくてシステムリスクが大きく、リスクが大きいから利益も大きいのです。もちろん、日本は、とうの昔に、そういう状況を卒業しているわけです。
日本の深刻な問題は、お金が過剰にあることですね。
経済の成長とともに資本の蓄積が進む一方で、経済の成熟とともに成長率は次第に低下せざるを得ないのですから、資本は、活躍する場を限られてきて、いずれ過剰にならざるを得ません。日本の場合、かなり前に超成熟に達したことは諸指標に明らかです。
しかし、資本は生き物ですから、成熟のもとで生きる場所を失えば、より高い利潤率を求めて海外流出していき、国内の資本過剰は是正されそうなものですが、日本では、高齢者への蓄積の偏在もあって、そうした動きが必ずしも活発ではありません。ここに金融庁が投資信託等を通じた国際分散投資の意義を説く背景があるのです。
お金の過剰とは、具体的には預金の過剰ですね。
多くの預金取扱金融機関において、預金が融資を大幅に上回っています。この過剰な預金が投資信託等へ流出していって、預金と融資の最適な比例が実現すればいいのですが、そうならない現実があります。理屈上、ゼロ金利の預金は全く魅力がないわけですから、他に相対的に有利な投資対象があれば流出しそうなものですが、流出しないのは預金に勝てる魅力的な投資対象がないからです。
つまり、常識的に考えて、預金から株式投資や国際分散投資へと一気に展開するはずもなく、預金に近いリスク特性のものへ時間をかけて少しずつ移行し、投資の成功体験を踏まえつつ対象が拡大していくと考えるのが自然なのですが、預金に一番近い短満期の公社債を対象とした投資信託など、ゼロ金利のもとで、費用までかけて作る意味は全くなく、作っても売れるはずもないのです。
また、ゼロ金利のもとで、預金に元本保証がついていることの魅力も非常に大きいと思われます。仮に金利が上昇したら、公社債の価格は下がる一方で預金の元本価値は変動せずに金利の上昇が直ちに利益となり、金利がゼロのままで変動しないなら、いつでも引き出せる預金が有利で、市中金利がマイナスになるなら、マイナスになり得ない預金が有利です。故に、預金流出はないのです。
もちろん、中長期的には、金利水準が是正されるにつれて、預金から投資信託への流れが定着していくでしょうが、融資量と預金量が均衡するまでには長い時間がかかると予想されます。
預金者に有利なら、預金取扱金融機関には不利ですね。
店舗網をもつ大きな装置としての預金取扱金融機関にとって、預金の資金原価の金利要素はゼロでも、事務経費要素はゼロにならず、効率の悪いところだと金利換算で1%を超えます。加えて、金融理論的には、元本保証のために巨額な自己資本を投入しているわけですから、その資本利潤率も原価にいれなくてはならないでしょう。
それに対して、融資の金利は1%を大きくは超え得ないのが実情であり、預金が大幅に上回るなかで融資に回せない資金は投資勘定にいくわけですが、そこで1%の利回りを確保するのは難事です。もはや、利鞘は限りなくゼロに接近しており、多くの預金取扱金融機関にとって、利益を出すどころか、黒字を確保することすら容易ではなくなっているのです。
要は、超成熟経済のもとでは、お金が過剰だから、お金の運用効率が低く、効率が低い分、余裕があるのでシステムリスクは小さいのですが、リスクが小さいだけに利益もないということです。
預金が急速に減らないとなると、対策としては、資金原価を下げるか、融資量を増やすか、融資の金利を上げるか、投資勘定の収益性を高めるしかないですね。
事務効率化で資金原価を下げることは、完全に限界に達しているはずで、店舗閉鎖しか残された方法はないでしょうし、実際に、大手銀行は、その方向でしょうが、地域金融機関には簡単にできることではありません。
融資量は経済活動の結果ですから、金融機関の努力で増やすことはできません。もっとも、金融庁の見立てでは、本来は融資できるのに金融機関の勝手な都合で融資できていない場合も少なくないだろうということですが、そこを改善しても、問題を抜本的に解決できるほどの融資は創造され得ないでしょう。また、無理に融資を増やすことは、多くの場合、不動産関連融資に積極的に取り組むこととなりやすく、不健全な事態を招来する可能性があって、金融庁は既に警戒的な姿勢を明らかにしています。
融資の金利の引き上げに至っては、金融機関相互の苛烈な競争のなかで、不可能事に近いと思われます。
投資収益を改善するしかないわけですか。
金融庁は、資産運用の高度化といって、預金取扱金融機関に対して、人材を投入するなどして投資能力を引き上げて収益改善するように求めていますが、あまり進展していないのが実情です。なぜなら、あからさまにいって、預金取扱金融機関の資産運用の体制と態勢に対して、課題の難易度が高すぎるのです。
かといって、金融庁としては、自ら課題可決の方法提示できるわけでもなく、資産運用の高度化を強く求めれば、不十分な体制と態勢のもとで無謀な投資をするところもでてきて、運用損失の発生を招く可能性が高く、実際、そうした損失発生事例が出ているなかでは、動きようがないわけです。
預金取扱金融機関の資産運用の高度化にとって、何が必要でしょうか。
資産運用の高度化に真剣に取り組むのならば、経営の抜本的な改革は絶対要件であって、経営者は、不退転の覚悟のもとで、資産運用を融資と並ぶ本業に位置付け、必要な経営資源を投入しなければならないのです。
つまり、経営者は、資産運用が融資と文化的に全く異なることを理解し、融資の文化が圧倒的に優勢するなかで、新規事業の創業と全く同じだけの覚悟をもって、業務としての資産運用の新たな文化を確立しなくてはならないということです。
文化が違うとは、どういうことでしょうか。
融資が製造業なら、投資は商業であり、融資が対人取引なら、投資は市場を通じた対物取引であり、融資が顧客本位なら、投資は顧客がないのだから自分本位であり、融資の取引条件は自分が決めるのなら、投資の取引条件は市場が決めるのであって、二つは全く異なる原理で動いている以上、全く異なる意思決定の構造をもたなくてなりません。文化の違いとは、その意思決定の構造の違いをいうのです。
従って、資産運用の高度化のためには、独自の意思決定組織を経営の直下に置き、その下に実行部門の組織を作り、そこに資本市場の動きに適切に対応できる人員を配して、その規律ある行動が醸成されていくような組織風土を確立する必要があるのです。
問題は人材ですね。
投資における経営資源は人材しかなく、人材とは規律をもって自律的に行動できる人なので、組織による教育や育成ではなくて、個人の自律的な学習により人材が成長していく組織風土の醸成が必要になります。
しかし、ここには、実行なくして専門的知見は身につかず、専門的知見なくして実行できないという矛盾、専門的知見の集積なくして組織なく、組織なくして専門的知見の集積はないという矛盾、組織風土なくして人は育たず、育った人によってしか組織風土は醸成されないという矛盾があって、故に創業と同じ困難さがあるということです。
経営資源としては、人材と並んで自己資本の投入も必要ではないでしょうか。
預金が融資になることを前提にして所要自己資本が計算され、それ以上の自己資本が現実に保有されているのだとしたら、融資にならない分だけ自己資本が解放されているのであって、投資のリスク総量が融資と同等である限り、資本の稼働率を本来の水準に高めるだけのことですから、投資のために新たに自己資本を投入することにはならないはずです。
しかし、投資のリスクについては、そこに融資にはない価格変動リスクを加えるとリスク総量が大きくなり、投資に必要な所要自己資本も増加します。ここには、高度に技術的な未解決の論点が多数あり、また自己資本を新たに投入してまで投資を行うべきかという哲学的に難解な論点もあって、資産運用の高度化を阻む原因になっていると考えられます。
投資の基本方針というか、哲学の確立が必要ではないでしょうか。
預金取扱金融機関は、融資と投資という二つの本業をもつとして、その二つの関係がどうなっているのかについて明確に定めておく必要があります。なぜなら、二つは相互に独立なのか、相互に密接に連関するのかによって、投資の目的、内容、方法などが大きく異なってくるからです。
つまり、投資は単に収益をあげるために行われるのではなく、収益の利用目的に即して、その目的の実現のために行われるのであって、投資の内容と方法は目的実現の可能性を最大化する努力のなかで具体的に規定されるということです。
ならば、投資の目的は金融機関の経営哲学そのものを反映することになります。例えば、地域金融機関の多くは自分が所属する地域の経済振興のために多様な活動を行っていますが、その活動原資の確保は投資の重要な目的だと考えられます。
ところが、預金取扱金融機関にとって、投資が余資運用の延長にすぎない現状では、その内容を形式的に、技術的に、制限的に規則化した詳細なリスク管理規定は皆が整備していても、投資方針や投資哲学に関する経営原則は誰ももっていないでしょう。実は、原則なき規則の適用ほど、投資に有害なものはないのです。
最後に、預金取扱金融機関にとって、資産運用は本業になり得るのでしょうか、本業になり得るとしても、本業にすべきなのでしょうか。
元本保証を付した預金負債をもって価格変動の大きな対象へ投資することに妥当性はあるのか、この根源的な問いを常に問い続け、常に何らかの答えを返さなければならないわけで、例えば、投資損失で破綻したときにも預金保険の適用があるのですが、それが制度の本来の主旨に適うかどうかという哲学的な問いにも何らかの答は必要なのです。そして、その答えは、金融機関の個性によって大きく異なるべきものです。
2018/05/10掲載「無用になった銀行が消えた後に残る必要なもの」
2018/04/26掲載「預金に勝てる投資信託はあるのか」
2018/04/12掲載「リスクのテイクと管理を混同するなかれ」
森本紀行(もりもとのりゆき)
HCアセットマネジメント株式会社 代表取締役社長
東京大学文学部哲学科卒業。ファンドマネジャーとして三井生命(現大樹生命)の年金資産運用業務を経験したのち、1990年1月ワイアット(現ウィリス・タワーズワトソン)に入社。日本初の事業として、企業年金基金等の機関投資家向け投資コンサルティング事業を立ち上げる。年金資産運用の自由化の中で、新しい投資のアイディアを次々に導入して、業容を拡大する。2002年11月、HCアセットマネジメントを設立、全世界の投資のタレントを発掘して運用委託するという、全く新しいタイプの資産運用事業を始める。