投資が預金と同じくらい普通になるために

投資が預金と同じくらい普通になるために

森本紀行
  • このエントリーをはてなブックマークに追加
  • mixiチェック
企業の設備投資といえば、その重要な社会的意義を誰もが理解しますが、個人の株式投資というと、何か危ないことのように思われがちなのは、なぜでしょうか。企業が設備投資の資金を調達するために株式を発行する、その株式が国民貯蓄によって取得されることは、むしろ自然なことではないでしょうか。要は、投資という言葉が危ない投資も含めて広義に使われているために、そして、危ない投資が目立つために、正当な投資にまで誤解が生じているのではないでしょうか。

 運転のなかに危険運転と呼ばれる逸脱行為が例外的にあって、それによる事故が大きく報道されても、自動車の運転が一般的に危険だと思う人はいません。誰もが日常的に正しく自分の車を運転しているからです。しかし、投資のなかに危険な方法があって、それによって損失が発生した事例を知ったとき、投資が一般的に危険だと思ってしまう人は少なくないでしょう。投資が自分にとって日常的なものであるような人は、現在のところ、まだ稀だからです。
 また、投資は経済における資金循環の重要な構成要素ですから、例えば年金基金などでは専門家による長期的視点にたった高度な投資が行われていて、事実として成果を生んでいるのですが、その実態は専門家のなかでのみ知られていることで、普通の人の知り得ないことです。他方で、普通の人の知り得ることは素人による危険な投資ばかりなのです。
 こうして、投資は、国民生活を根底で支える重要な経済的機能であるにもかかわらず、国民の多くからは危険なものとして誤解され、その普及が妨げられているようです。

投資が社会の根底を支えるとは、どういう意味でしょうか。

 産業活動には資金が必要で、金融とは、その必要資金を産業界に供給する仕組みのことであり、金融機関とは、産業界に資金を供給し、同時に供給する原資を広く国民から調達するための社会的装置です。そして、産業界に投じられた資金は、産業界の努力によって付加価値を生み、その付加価値は賃金として、また金利や配当として国民に分配されて還流し、その国民に還流した資金は再び産業界に投じられる、この資金循環こそが経済なのです。
 経済の成長とは、資金が単純に循環するのではなくて、循環しつつ付加価値を生んで増殖していくことであり、この増殖過程に基礎を置く経済構造は、資金を資本と呼び換えて、資本主義といわれるのです。ここで重要なのは、資本は増殖するから循環するのであって、資本主義にとって資本の増殖は必須の要件だということです。

投資というのは、産業界への資金の供給方法のひとつであり、付加価値の分配に与る方法のひとつだということですか。

 投資と預金は全く異なるもののように対比されますが、実は、両方とも金融機関を通じて国民の貯蓄を産業界へ投じる手段であって、その差は経路の差にすぎません。預金は、国民貯蓄が銀行等の預金取扱金融機関を経由して融資の形態で産業界へ流れていく経路であり、投資は、証券会社が産業界の発行する債券や株式等を引き受け、それを直接に、あるいは投資信託を通じて広く国民に販売するという経路なのです。
 日本の金融構造は、よく知られているように、預金取扱金融機関が圧倒的に優勢となっています。それは、国民貯蓄の保有構造において、預金の比重が高く、債券、株式、投資信託等の比重が小さいこと、即ち預金のほうが投資よりも圧倒的に優勢であることを意味しています。ここには、投資が普及していないから投資への理解が進まず、投資への理解が進まないから投資が普及しないという悪循環があるようです。

悪循環というからには、預金が減り投資が増えることが正しい道筋だとでもいうのでしょうか。

 少なくとも金融行政の課題は明瞭に預金から投資への流れを作ることにおかれています。なぜなら、金融行政の究極の目的として経済の持続的成長と国民資産の安定的な形成とが掲げられているからで、その課題実現のためには、預金に偏重している国民貯蓄の構造を変える必要があると考えられているからです。
 そもそも、預金は貯蓄手段であるよりも決済手段なのであって、故に随時引き出しが可能であり、また制度的に元本保証がついているのですから、理論的にいって様々な貯蓄手段のなかで最も期待収益率の低いものになるのであって、長期的に安定的に資産を形成する手段としては不向きなのです。
 また、預金取扱金融機関は、元本保証のある預金を原資として産業界に融資する限り、融資姿勢において保守的たらざるを得ない、即ち融資の危険負担力は決して大きなものになり得ない以上、産業界の資金需要に十分に対応できない場合も多いのです。実際、資本主義の本質は不確実な未来へ賭けていくことにあるのですから、そこへの資金供給の方法として融資には大きな限界があるといわざるを得ないわけです。

しかし、実際には、日本の戦後の資本主義は、預金取扱金融機関を中核にした金融構造で、即ち融資を中心にした資金供給で高度な成長を実現したのではないでしょうか。

 日本の戦後の経済成長と金融との関係は極めて興味深い研究対象ではありますが、融資を中心とした金融構造のもとで事実として高度成長を実現したからには、預金取扱金融機関全体として大きな危険負担力をもてるような仕組みが高度に緻密に設計されていたと考えるほかありません。
 しかし、環境が激変した今日からみれば、その仕組みを特徴付けていた諸性格は、否定的意味を込めて特殊日本的と呼ばれ、むしろ逆に現在の成長の阻害要因とみなされているものです。いうまでもなく、それらの代表が政府の過剰介入であり、系列取引であり、株式持合いであり、その結果生じたガバナンスなき経営なのです。故に、成長のためには、産業構造改革が絶対要件であり、その構造改革のためには金融構造改革が絶対要件になるということです。

融資の限界を超えるものが投資だというわけですね。

 投資、即ち債券や株式を通じた産業界への資金供給は、預金取扱金融機関を介さないので直接金融と呼ばれるわけですが、直接ということは、投資家、即ち直接に債券や株式を保有し、または投資信託を経由して保有する国民は、未来への賭けとしての産業活動の危険を負担するということです。ここが制度的な元本保証のある預金との決定的な差です。
 また、直接ということは、社債や株式を発行する企業は、直接に投資家と向き合うことによって、金融機関との親密な関係性のなかで融資を得ていたときとは全く異なる環境のもとで、経営の透明性を要求されることとなり、それがガバナンス改革を通じた経営の革新につながると期待されているのです。

日本の国民の選好は、産業界の危険を直接に負担することよりも、預金の元本保証で危険を回避するところにあるのではないでしょうか。

 日本人は預金が好きだというのは、過去においては、戦後の特殊日本的な状況が作り上げた神話だったのではないでしょうか。また、現時点においては、貯蓄の多くが高齢者に偏在していること、およびゼロ金利のもとで預金にとどまることの機会費用もゼロになっていることなど、極めて合理的であって預金が選好されているだけではないでしょうか。
 むしろ、誰しもが合理的に思考すれば、危険の裏には利益のあること、即ち、産業界が長期傾向として成長している限り、投資によって、その長期的な平均成長率に基づく投資収益率を享受できることは、容易に理解されるのではないでしょうか。

長期的には投資が合理的だとしても、短期的には投資は危険だということも事実ではないでしょうか。

 投資が短期的には危険だという意味は、投資の舞台となる資本市場においては、投資対象の価格変動が短期的には極めて大きなものになり得るということ、この一点に帰着します。
 まず、資本市場とは債券や株式が売買される市場のことですが、なぜ市場が必要かというと、預金の場合には簡単に現金化できますが、債券や株式などの投資対象になるものは、売却することで現金化しなければならないからで、なぜ現金化が必要かというと、貯蓄は最終的には取り崩されて費消されるべきものだからです。
 問題は、売買されることは価格が形成されることであり、その価格変動の趨勢は投資対象の価値変動の趨勢を長期的には反映するとしても、短期的には価値と価格とが一致しているとは限らず、価格変動は、価値変動とは関係なく、極めて大きなものになり得ることです。なぜなら、第一に、価格は市場参加者の事情に基づく需給要因で決まるからであり、第二に、価格変動は価値変動の期待に基づくものであり、期待は合理的であるよりも思惑や心理に依存するものだからです。
 さて、投資が危険なものとなるのは、価格の大幅下落があり得るからではありますが、実は、一時的な下落として静観しておけば多くの場合は価格の回復があるので必ずしも危険ではなく、真に危険なのは、心理的動揺によって売却して損失を確定させてしまうときと、価格の回復の見込みがないとき、即ち投資対象の価値自体が毀損したときだけなのです。

そこに危険を回避する投資の技術があるわけですか。

 心理的動揺は経験によって克服できます。問題は、経験のない人は心理的動揺で損失を被り、そのような事例が投資は危険だという通念を作り、投資の普及を妨げているという悪循環です。投資対象の価値の毀損は、専門家の判断力に委任することと投資対象を分散することにより、かなりの程度、回避できます。それを可能にする仕組みが投資信託です。
 現在の金融庁の方針というのは、優れた投資信託を普及させ、そこで国民に成功体験をもってもらい、心理的動揺を克服できる賢い投資家になってもらうことで、従来の悪循環を逆転させて好循環を作り出し、預金から投資への流れを定着させようというものです。

大きな価格変動もまた投資の機会ではないでしょうか。

 科学としての投資においては、合理的に判断できるものは投資対象の価値だけだとされ、価値の基準をもっているからこそ、大きな価格変動のもとでも心理的動揺に陥ることなく投資判断を貫徹でき、価値より低い価格を割安と評価し、価値より高い価格を割高と評価することにより、規律ある売買行動が可能になると考えられています。これが専門家の行う投資です。
 これに対して、価値判断を抜きにして、単なる価格変動を利益機会とすることは、ギャンブルと全く同じことで、投機と呼ばれるべきです。そして、投機にはギャンブルと同じように少なからざる愛好家がいるのです。ただし、投機は単に否定されるべきではなく、活発な投機が行われるから資本市場での取引量が増え、十分な取引量があるから投資による取引も円滑に執行されるわけです。
 しかし、投機趣味と縁遠い国民一般にとっては、投資と投機が混同されて、事実として投機が危険であることから、印象として投資も危険であるかのようにみえてしまうことは大きな問題です。また、法律上は投機と投資が全く同じ扱いになるため、金融行政上、投機を明確に分離できていないことも問題で、何らかの工夫が必要でしょう。

家計管理も重要ですね。

 貯蓄は取り崩されて費消されるためにあります。短期的に消費計画がある資金は預金へ、老後生活原資のように消費が遠い先にある資金は長期的視点での投資へ、その中間にある資金は消費計画に応じた方針のもとでの投資へというように、投資は家計規律のもとでなされなくてはなりません。投資が危険なのではなくて、投資を危険にしてしまうのは、売るべきでないときに家計の必要から現金化せざるを得なくなるという家計規律の欠如なのです。


以上


次回更新は、4月25日(木)になります。
≪ アーカイブから今回に関連した論考 ≫
2018/04/26掲載「預金に勝てる投資信託はあるのか
2016/10/27掲載「投資のリスクは生活のリスク
2016/10/20掲載「投資をおいしく学ぶ
森本紀行

森本紀行(もりもとのりゆき)

HCアセットマネジメント株式会社 代表取締役社長

東京大学文学部哲学科卒業。ファンドマネジャーとして三井生命(現大樹生命)の年金資産運用業務を経験したのち、1990年1月ワイアット(現ウィリス・タワーズワトソン)に入社。日本初の事業として、企業年金基金等の機関投資家向け投資コンサルティング事業を立ち上げる。年金資産運用の自由化の中で、新しい投資のアイディアを次々に導入して、業容を拡大する。2002年11月、HCアセットマネジメントを設立、全世界の投資のタレントを発掘して運用委託するという、全く新しいタイプの資産運用事業を始める。