老後2000万円問題の原因になったのは、金融審議会の市場ワーキング・グループがまとめた「高齢社会における資産形成・管理」と題する報告書です。この限られた関係者にしか読まれないはずの地味な報告書は、不適切というよりも稚拙な言葉使いによって大きな政治問題を引き起こし、思いがけずに広く読まれたのは実に皮肉なことですが、お蔭をもって、国民に対して「公的年金の受給に加えた生活水準を上げるための行動」を提言するという目的は十分に達成できたようです。
それにしても、この結果を最初からみこして、敢えて野党が飛びつきそう刺激的な表現をちりばめ 、浅薄で表層的な言動を誘発して野党の信任を低下させ、同時に報告書に対する国民の関心を引き付けて広く読まれるように仕向けたのだとしたら、報告書を書いた人の作文能力は著しく高いものですが、そのような技巧を凝らしたものだとは考え得ないところです。
技巧を凝らすというよりも、図らずも書いた人の真情が吐露されてしまったのではないでしょうか。
野党が政治問題にできたのは、公的年金のみによって老後の最低生活は保障されているとする政府の公式見解に反する表現を報告書のなかに容易に発見できたからですが、政府としては、それは表現の不適切さの問題にすぎないことで、報告書の論旨は政府見解に矛盾しないとして、決着を図ることができたのです。しかし、単に表現の問題なのかという点については、疑義が全くないということでもありません。
なぜなら、報告書は、「公的年金の受給に加えた生活水準を上げるための行動」として、勤労期間中における資産形成の重要性を論証し、その技術的な方法論を展開するに際して、最低生活保障としての公的年金そのものにも言及せざるを得なかったのであり、しかも、その言及において資産形成の役割を括弧書きで強調するように「自助」と記述したことは、ある種の意図を感じさせるものだったからです。
自助ということは、野党のいうとおり、公的年金だけでは老後の最低生活は保障されず、不足を埋めるための自助努力が必要だとも解されるということですか。
報告書は、公的年金によって老後の最低生活水準が保障されているとの前提で、誰しもが最低水準を上回る豊かな暮らしを求めるべきだとして、そのための原資の形成の必要性を国民に訴えたものですが、国民は、それぞれに異なる家計事情のもとにあり、それぞれに異なる豊かさの定義をもつわけですから、資産形成以前の問題として、各人が自分の老後生活を「見える化」させることが必要だとしているのです。
しかし、日本の現実においては、「見える化」したときに見えてしまうものは、野党が主張するように、豊かな老後なのではなくて、公的年金によっても保障され得ない貧しい老後なのではないのか、その貧しい姿から自助努力の必要性を導くのが報告書の真の狙いではないのか、そう解釈する余地もないわけではないのです。
こうした野党の主張を許したのは、いうまでもなく、政府自身が公的年金の将来の姿を国民の前に正しく「見える化」させていないからです。結局、政治問題を引き起こした真因は、報告書の誤解を与え易い表現というよりも、公的年金自体に対する国民の不安なのです。この不安は政府の公式見解の立場からすれば国民の誤解なのですが、誤解されても仕方がない状況にあることも事実であって、そのことは野党が簡単に不安を煽ることで政治問題化できたことに表れています。
公的年金の将来についての丁寧な説明が不足しているということですか。
報告書には、あちらこちらに表現の不適切さや不十分さがあるのですが、以下の引用も読みようによって様々な解釈を引き出せる箇所です。しかも、ここは報告書の要点の総括に先立つところなので、極めて重要な意味をもつと思われます。
「公的年金制度が多くの人にとって老後の収入の柱であり続けることは間違いないが、少子高齢化により働く世代が中長期的に縮小していくことを踏まえて、年金制度の持続可能性を担保するためにマクロ経済スライドによる給付水準の調整が進められることとなっている。」
一読して明らかなように、「老後の収入の柱」と「マクロ経済スライドによる給付水準の調整」の意味が明瞭ではなく、これをもって最低生活を確実に保障するという政府の宣言と解することには無理があります。これでは、公的年金は確かに柱ではあるが、屋根と壁は自分で用意しろ、と読まれても仕方ないでしょう。実際、これに続けて次の総括があるのです。
「こうした状況を踏まえ、今後は年金受給額を含めて自分自身の状況を「見える化」して、自らの望む生活水準に照らして必要となる資産や収入が足りないと思われるのであれば、各々の状況に応じて、就労継続の模索、自らの支出の再点検・削減、そして保有する資産を活用した資産形成・運用といった「自助」の充実を行っていく必要があるといえる。」そして、この箇所には注が付されていて、そこには、「この他、企業年金などの充実も、老後収入の確保という視点から、重要な視点である」と書かれています。
被用者の老後生活原資の形成について、政府責任、企業責任、働く人自身の自助努力、この三つの適切な組み合わせを提言することが報告書の真の狙いだったということですか。
この報告書は、被用者は勤労期間の終了によって定期所得を失うという深刻な問題に直面せざるを得ないことについて、政府責任による所得保障があることを前提にして、企業責任による上乗せ保障を加えて、更に働く人自身の自助努力によって、より豊かな生活を実現すべきことを提言しているものです。ところが、政府責任と企業責任について正面から論ずることなく、働く人自身の自助努力を前面に掲げたことは、表現の不適切さを超えて、立論の構造においても不適当であったといわざるを得ません。
もっとも、報告書の立場からいえば、政府責任と企業責任は直接の検討の対象ではないのですから、自分の埒外のことで批判される理由はなかったともいえます。むしろ、この報告書の公表に先立って、政府責任と企業責任、とりわけ政府の責任についての将来展望が国民に明瞭に示されていないことが問題なのであって、報告書を所管する金融庁よりも、公的年金と企業年金を所管する厚生労働省こそが批判されなくてはならなかったのです。
「つみたてNISA」と「iDeCo」について、税制面を含めた制度改善を提言していることは、公的年金の削減を示唆してはいないでしょうか。
老後生活資金形成において、働く人の自助努力を促すための税制優遇措置の導入は、政府責任を一定としたときには、公的年金の削減と均衡するのであろうことは誰にでもわかることです。しかし、自助努力に対して税制の優遇を行うことは一つの立派な政府責任の果たし方なのですから、それを認めることは政府として少しも問題ではなかったはずです。
「就労継続の模索」という点は、もっと働けという指示ではないでしょうか。
報告書は、「わが国の高齢者は総じて元気である」とし、続けて、「2016年においては、65 歳から69 歳の男性の55%、女性の34%が働いており、これらの比率は世界でも格段に高い水準となっている」として、更に、「体力レベルを見ても、現在の高齢者は過去のわが国の高齢者と比較して高い水準にある。また、アンケート結果では、60 歳以上で仕事をしている者の半数以上が70 歳以降も働きたいと回答している」と述べています。
しかし、これらの事実の背景に関する分析は全くなされていません。「70 歳以降も働きたい」のは、生活のために働かざるを得ないことが理由なのならば、野党の主張は正しくなります。そうではなくて、報告書が政府公式見解に従うものならば、高齢者が働きたいのは、働くことに楽しさと生きがいを見出すからであり、立派に働けるものが働かないのは国民の義務に反するからであり、働くことが若い世代に対する責任の履行になるからです。
要は、超高齢化社会において公的年金を老後の最低生活保障として機能させるためには、老後の定義を変えるほかない、即ち勤労期間を長くするほかないのです。このことは国民の誰もが納得せざるを得ない自明の理です。報告書は、この自明の理を前提にしているのでしょうが、もう少し丁寧に説明と論証を行うべきだったのです。
興味深い事実の指摘がなされていても、その事実に関する分析を全く欠いていることは、報告書全体にみられる欠陥ではないでしょうか。
報告書が生んだ老後2000万円問題というのも、高齢夫婦無職世帯の平均において、公的年金を主とした実収入額よりも実支出額が約5万5千円多いという単純な事実から、そこに何らの分析を加えることなく、その差額を填補されるべき赤字として記述したことに起因していました。
実は、これらの世帯は平均して2434万円もの純貯蓄額を有していて、貯蓄の本来の目的に即して、より豊かな生活をするために計画的に取り崩して費消していた、少なくとも政府の公式見解に従えば、そう解釈するほかない事実なのですから、一歩踏み込んで、その論証さえしておけば政治問題にはなり得なかったのです。その点が論証できなかったというのなら、野党の批判以前に、報告書は全ての価値を失います。
企業年金についても、事実は書かれていても、何らの分析も提言もありませんね。
報告書は、注において「企業年金などの充実も、老後収入の確保という視点から、重要な視点である」とする一方で、実は、本文では、企業年金の縮小傾向を事実として記載し、しかも、その縮小傾向を前提にしてしまっています。おそらくは、報告書は、働く人の自助努力の必要性を説くに急で、企業年金の重要性を認識しつつも、その縮小傾向を論旨の補強に使いたかったのでしょう。
しかし、報告書の本来のあり方としては、最初に、政府責任によって確実に最低生活が保障されるべきことを論証したうえで、次に、企業責任による企業年金の充実の方向が示され、最後に、働く人自身の資産形成の自助努力によって豊かな老後を実現することが提唱されるべきだったのです。
ところが、実際には、政府責任による最低生活保障の確約がなく、企業責任の縮小の事実のみが示され、働く人の自助努力だけが強調されたのですから、政治問題化も当然のことだったわけです。
以上
次回更新は、7月11日(木)になります。
2019/05/09掲載「憧れの金利生活者になるために」
2018/11/29掲載「企業年金に企業の品位品格が現れる」
2014/04/24掲載「公的年金資産運用改革論の誤謬」
森本紀行(もりもとのりゆき)
HCアセットマネジメント株式会社 代表取締役社長
東京大学文学部哲学科卒業。ファンドマネジャーとして三井生命(現大樹生命)の年金資産運用業務を経験したのち、1990年1月ワイアット(現ウィリス・タワーズワトソン)に入社。日本初の事業として、企業年金基金等の機関投資家向け投資コンサルティング事業を立ち上げる。年金資産運用の自由化の中で、新しい投資のアイディアを次々に導入して、業容を拡大する。2002年11月、HCアセットマネジメントを設立、全世界の投資のタレントを発掘して運用委託するという、全く新しいタイプの資産運用事業を始める。