昭和死語辞典に載せるべき言葉に、窓際族があります。企業のなかで、幹部職に登用されずに行き場を失い、閑職に追いやられ、なぜか窓際の席をあてがわれて、無為に時を過ごす人のことです。陽当たりのいい暖かい窓際に座り、書類を読むふりをして居眠りをし、それでも給料をもらえて、定時に来て定時に帰り存分に余暇を楽しめるのですから、窓際族は憧れの対象かと思いきや、実際には、出世街道を外れた人として憐みの対象だったのです。
その後、平成ともなれば、企業の経営環境は厳しさを増し、窓際族だった人は窓もないような追い出し部屋などと呼ばれたところに押し込まれ、無為の強制を精神的圧力として機能させ、自主退職が強く促されるようになり、窓際族の暖かさは完全に失われ、理不尽で冷酷非情なものが際立ってくるのです。そして、窓際族は死語になりました。
その平成も終わり、令和となった今、窓際族はどこへ行ったのでしょうか。
窓際族というのは、同年次の人のうち幹部職に登用された少数者と選に漏れた多数者との間に大きな処遇格差を生じさせないようにして、生じたものだと考えられます。つまり、昭和の時代には、処遇における年功的要素が強かったわけで、課長や部長は少数でも、同年次の人を課長級や部長級として処遇していたために、幹部職の仕事をしない幹部職待遇の人が大勢できたということです。
現在の企業の人事処遇制度では、年功的要素は希薄となり、完全になくなっている例も珍しくなく、窓際族は名実ともに消滅したのに間違いありませんが、同年次の人のうち少数しか幹部にならないのは今も昔も同じですから、登用の選に漏れた人は大勢いるわけで、それらの人は、閑職に追いやられているわけではなくて、経験や能力に基づいて適正な職務を割り当てられ、職務の遂行状況に応じて適正に処遇されているのだと考えるほかありません。
登用の選に漏れるといういい方は、雇う側の企業中心の発想ではありませんか。
優雅な窓際族が憧れの対象にならなかったのは、企業の人材登用の選抜に漏れたものとして、本人にとっては不本意な待遇だったからであり、周辺も不遇な地位とみなしていたからです。故に、本人の希望で窓際族になったとしたら、極楽至福の地位にあることを喜んだに違いないと想像されるのですが、いうまでもなく、本人の希望で窓際族になることはできなかったわけです。
同時に、窓際族は、極端に生産性の低い人材利用方法なのであって、企業にとっても非常に不満の大きなものだったに違いありませんし、一見して明らかに合理性を欠き、企業風土に悪影響を与えるものとして、人事政策上も好ましくなかったに違いありません。つまり、窓際族というのは、奇怪至極なことに、企業と本人の双方にとって望ましくないものだったのであり、そこには企業の利益のために従業員に不利益を強いるという普通の構図はなかったのです。
では、なぜ窓際族があり得たのでしょうか。
おそらくは、窓際族の背後にあったのは、出世至上主義という価値観であって、常に出世を目指すこと、今よりも上位の職位に登用されるべく努力することが規範として企業内に確立されるためには、企業の都合で幹部に選抜されなかった場合にも、経済的には幹部職に準じた処遇にせざるを得ないと考えられたのでしょう。
そして、年功序列の本質は、この出世至上主義にあったのだと思われるのです。つまり、年功序列は、実は登用における年功序列ではなく、厳格な人材登用戦略のもとで、経済的処遇だけが年功序列になっていたのであり、逆に経済的処遇を年功序列にすることで、厳格な人材登用戦略を可能にしていたと考えられるのです。
このとき、企業にとって重要なのは人材登用戦略だけであって、経済的処遇における年功序列は必要悪だったはずですから、平成になって経営環境が厳しくなったときには、いとも簡単に窓際族は窓際から追い出し部屋に移されたわけです。
なぜ出世を目指すのでしょうか。
出世しても、しなくても、経済的処遇に大きな格差がなかったとしたら、出世には、少なくとも経済的な誘因はなかったはずで、今となれば、なぜ出世が目指されたのか、必ずしも明らかではありませんが、出世を目指すことと働くこととは、ほぼ同義だったのではないでしょうか、なぜ出世を目指すのかという問いは、なぜ働くのかという問いと同じように、問う意味を欠いていたのではないでしょうか。
そもそも、出世とは何でしょうか。
出世とは、企業組織の階層を一つ一つ登っていくことであり、究極的には頂点の社長になることだったはずですが、社長とは何だったのかといえば、それは現在の社会で想定されているような経営の専門家ではなく、端的に出世街道の終点であり、出世の最終目的地だったのでしょうから、出世とは何か、なぜ出世が目指されたのかという問いは、循環して無意味に帰します。
では、出世は不条理ですね。
出世の目的は出世だというしかないのですから、出世は不条理です。しかし、趣味に目的はなく、スポーツ等における記録の更新は記録の更新自体が目的であるように、人間の存在に不条理はつきものです。実は、人間の存在自体が不条理なのであって、故に、人間は目的のないところに目的に替わる意味を創造して不条理を回避するわけです。
こうして、人間は、働くためには、経済的報酬以外の目的として出世を求め、自己目的化した出世に意味を求めた結果として、ゴルフの腕前が上がると嬉しいように、職位が上がることに大きな喜びを見出し、企業内での自分の地位を確認することに満足し、肩書が立派になることに自己の成長を実感し、そこに働きがいを得たのでしょう。
出世至上主義は、今日に至るも、名残をとどめているでしょうか。
昭和と現在を比較すれば、窓際族の死語化は小さな例にすぎないといえるほどに、企業経営のあり方は大変貌を遂げています。しかし、肝心要の経営者の選抜のあり方については、出世競争の最終勝利者という位置づけに変化はないようにみえます。そして、企業経営の中核である経営者選抜の方法が変わっていないのならば、企業経営全体として、いかに表層の変化が大きくても深層に変化はなく、一皮むけば昭和の風景があって、出世至上主義は今でも名残以上の力をもっているはずです。
出世至上主義が変わっていないのならば、窓際族的な非効率は形を変えて温存されているということでしょうか。
出世至上主義が企業の内部だけで通用する固有の価値観を醸成することは不可避です。昭和の時代には、それが企業の個性として差別優位の形成につながった面は否定できないでしょうし、また、そのようにして出世至上主義が機能していたからこそ、その強固な定着を招いたということでしょう。
しかし、企業固有の価値観が支配的になり、その価値観のもとで経営者が選抜されるとき、企業として、劇的に変化する経営環境に対応していく能力を養い難いことは明らかです。また、企業の内部価値の優越は、顧客不在の経営につながりやすいことも明らかですし、極端な場合には、社内の論理が法令等に優越する事態にもなり得て、深刻な社会問題を引き起こします。そして、実際に現在の日本においては、こうした問題は現実のものです。
故に、働き方改革ですか。
働き方改革は、各人が多様な価値観のもとで働くことに帰着するわけで、まさに出世至上主義を確定的に終焉させることでなければなりません。そもそも、出世至上主義は、企業という組織が先にあって、そこに個人を埋没させることによって機能するものですから、本質的に組織の自己変革力を欠いています。
故に、働き方改革は、その組織の弊害を破壊するものとして、個人が先にあって、個人の集合が組織を作るという原点への回帰を目指すことでなければならないのであって、個人が中心となり、個人が組織を造り替えていくなかでは、組織は、社会変動の原因であり同時に結果となって、常に社会構造に対して適合的なものに変化し続けていくことができるのです。
敢えて出世という言葉を使い続けるなら、働き方改革は、企業内の出世ではなく、広い社会のなかでの出世を目指すことになりませんか。
出世には明瞭な階層的秩序が必須で、その階層を工夫しながら一段一段上がっていくことのゲーム的喜び、地位の上昇に対する他人からの賞賛や憧れ、他人からの評価で高まる自己意識が出世の本質であって、この出世の本質は働き方改革においても変わりようがなく、働き方改革が社会のなかでの自分を確立させ、その立場で企業等の活動に参画することにより、社会のなかにおける自分を成長させていくことだとしたら、成長を図る指標としての他人からの評価は不可欠なのです。
そして、おそらくは、ここに昭和との決定的な違いがあって、現在の高度情報化社会においては、狭い企業のなかでしか可能でなかった情報の流通を世界規模で簡単に実現できるわけで、働き方改革と情報化は不可分離の関係にあるのです。
以上
次回更新は、12月12日(木)になります。
2019/05/16掲載「会社員という職業がなくなる日のために」
2019/03/28掲載「タクシーで学ぶ働き方改革の本質」
2019/03/07掲載「鼠を捕る猫よりも魚を盗る猫のほうが優秀な人材だ」
森本紀行(もりもとのりゆき)
HCアセットマネジメント株式会社 代表取締役社長
東京大学文学部哲学科卒業。ファンドマネジャーとして三井生命(現大樹生命)の年金資産運用業務を経験したのち、1990年1月ワイアット(現ウィリス・タワーズワトソン)に入社。日本初の事業として、企業年金基金等の機関投資家向け投資コンサルティング事業を立ち上げる。年金資産運用の自由化の中で、新しい投資のアイディアを次々に導入して、業容を拡大する。2002年11月、HCアセットマネジメントを設立、全世界の投資のタレントを発掘して運用委託するという、全く新しいタイプの資産運用事業を始める。