倹約するな

倹約するな

森本紀行
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金融庁老後2000万円報告書は、思いがけない経緯で有名になり、多くの国民に老後生活の経済的基盤を考えさせる契機を与えて、金融庁の意図は曲がった形で実現したのですが、曲げられてはならない重要な点は、金融庁が描いたのは老後における質素な倹約生活ではなく、倹約しない豊かな消費生活であり、そのための財源の確保だったということです。
 
 老後2000万円報告書とは、6月3日に金融庁が公表した金融審議会市場ワーキング・グループの「高齢社会における資産形成・管理」と題する報告書のことで、そこには、高齢夫婦無職世帯の家計についての厚生労働省の調査を引用して、「毎月の赤字額は約5万円となっている。この毎月の赤字額は自身が保有する金融資産より補填することとなる」としたうえで、「不足額約5万円が毎月発生する場合には、20年で約1,300万円、30年で約2,000万円の取崩しが必要になる」と述べられていました。
 高齢夫婦無職世帯というのは、「夫65歳以上、妻60歳以上の夫婦のみの無職世帯」のことで、収入の大半を公的年金に依存していて、その平均実収入約20万9千円に対して、平均実支出は約26万4千円となっており、そこに5万5千円の差があるのですから、その30年分、即ち360月分は、1980万円、即ち約2000万円になるわけです。
 
公的年金だけでは生計費が5万5千円も不足しているとして、野党が政治問題化を狙ったのでしたね。
 
 報告書は、稚拙にも5万5千円の差額を赤字と表現してしまったので、野党に格好の材料を提供することになったのですが、意図としては、5万5千円は豊かな生活のための追加支出の位置づけですから、公的年金給付で最低生活保障がなされているとする政府公式見解に反する余地は全くなく、故に、政府は単なる表現の不適切さとして問題を切り捨てることができたのです。
 
表現が適切かどうかはともかくも、豊かな老後生活のためには、5万5千円不足することに変わりないようですが。
 
 政府が責任を負うのは、あくまでも最低生活水準の保障であって、そこについては現状の公的年金給付によって確保されているというのが政府公式見解です。それに対して、豊かな老後生活については、何をもって豊かさと感じるのかに極めて大きな個人差のあることですから、政府が介入すべき領域では全くなく、逆に、そこに敢えて政府が言及すれば、政府のいう豊かさをもって、政府が責任を負うべき生活水準だと理解される余地を生じます。
 そして、政府が現在の公的年金給付よりも5万5千円以上の水準に責任を負うと解されるのならば、その差額を国民の自助努力によって賄うべきだとする金融庁の提言は、政府の責任を放棄し、それを国民に転嫁するものと解されても仕方なく、事実、野党は、そのように理解し、あるいは敢えて曲解し、政治問題化しようとしたのです。
 
ところで、5万5千円は、現実には、どのようにして賄われているのでしょうか。
 
 厚生労働省の調査によれば、高齢夫婦無職世帯の平均貯蓄額は2430万円となっています。そして、老後2000万円報告書は、この貯蓄を取り崩すことで5万5千円の赤字を填補しているという書き方をしていて、2430万円もの貯蓄の形成経路については全く何の言及もないままで、年金生活に入るまでに個人の自助努力として少なくとも2000万円の貯蓄を形成しておく必要があるとの結論を導いたのです。
 
金融庁は、なぜ豊かな老後生活に言及したのでしょうか。
 
 それは、金融庁の行政の目的として、金融機能の高度化によって経済の持続的成長を実現することが掲げられているなかで、経済成長の動因が消費にあり、その消費に占める高齢者の比重が大きい以上、当然のことだといわざるを得ません。
 そして、より具体的には、資産形成、即ち老後の消費生活の原資を勤労期間中に積立てることの奨励が金融行政の課題となり、それを更に具体的な施策にしたものが税制優遇措置としての「つみたてNISA」となり、その「つみたてNISA」の恒久化を念頭に公表されたのが老後2000万円報告書であったわけです。
 なお、いうまでもありませんが、経済の持続的な成長と安定的な資産形成は相互規定関係にあって、経済の成長が資産価値の増大をもたらし、それが消費を刺激して経済の成長につながる、この好循環の実現が金融行政の目的とされているのです。
 
しかし、現実は好循環ではなくて、悪循環ではないでしょうか。
 
 余命が長期化すれば、老後生活の必要原資は増加しますが、現に手元にある取り崩し可能な資産が増大しないのならば、その資産額を前提にして、生活のほうを倹約して切り詰めるしかない、そう考えることは自然です。実際、高齢者の資産は金利ゼロの預貯金に偏在するわけですから、増えるはずもなく、増えない資産が消費抑制、倹約奨励に働いている可能性を否定できません。
 他方で、資産を増加させようとする努力は、反対効果として資産の減少を招く危険を伴いますから、老後の不安のもとでは極めて困難だと思われ、その結果として預貯金への偏在が生じていると考えられますから、ここには悪循環があるといえるでしょう。
 ところが、この点、老後2000万円報告書の記述は、2430万円の内容や5万5千円の取り崩しの目的などの分析を欠いており、極めて不十分なものだといわざるを得ません。可能性としては、5万5千円は豊かな生活のための消費ではなく、倹約しても不足する生活費を補うものかもしれず、幸いにも野党の攻撃の知的水準が低かったために、かろうじて金融庁は救われたということかもしれません。
 
むしろ、金融行政の課題としては、現に年金受給者となっている人の悪循環を断つことのほうが重要ではないでしょうか。
 
 金融庁の政策課題は、様々な施策に具体化されているわけですが、そのなかの大きなものに金融構造改革があります。そこでは、個人の預金が銀行等に集まり、それが融資を通じて産業界に還流する現在の流れを、産業界が発行する債券や株式等を直接に、または投資信託を通じて個人が取得する流れに付け替えることが目指されているのですが、この施策にとっては、高齢者に偏在する預金は極めて重要であると同時に解を得難い論点です。
 そこで、老後2000万円報告書における金融庁は、この困難な問題を先送り、「つみたてNISA」を軸にした勤労層の資産形成に論点を絞ったものとみられます。つまり、現在の高齢者の悪循環を断つ前に、未来の高齢者、即ち現在の勤労層が同じ悪循環に陥らないようにすることを優先させたのでしょう。
 
しかし、その勤労層においても、悪循環があり得るのではないでしょうか。
 
 金融庁のいう資産形成が陥る矛盾は、勤労層が遠い先の豊かな老後生活に備えて原資を積立てることは、積立てる資金を倹約によって捻出する限り、現在の消費を抑制させる効果を必然的に伴うということです。はたして、未来の豊かな消費のための現在の倹約というのは、どのような影響を経済成長に与えるのか、むしろ、未来の倹約を前提にした現在の豊かな消費のほうが経済成長に寄与するとも考えられるのです。
 
国民が倹約する限り、金融庁の施策は機能しないということでしょうか。
 
 問題は、より深刻に産業界に露呈しているようです。つまり、産業界の倹約、即ち、利益を出すために積極的に売り上げを増やそうとするよりも消極的に費用を削減しようとすること、および、産業界の未来への不安、即ち、手元流動性を消費せずに危機に備えるものとして過剰に留保することは、経済成長の抑制効果をもたらし、倹約と不安が倹約と不安を増幅する悪循環を生じているのであって、これは個人における倹約と老後への不安がもたらす悪循環と全く同じ構図です。
 
産業界の悪循環を断つものは未来への投資でしょうか。
 
 企業の経営効率の改善によって生じた余剰は、未来の不安のために留保されたのでは意味がなく、未来の成長のために投資されなければなりません。この未来への投資、投資がもたらす成長こそ企業経営の本質です。悪循環が断たれるためには、未来の不確実性が暗い不安から明るい成長の可能性へ転じられ、成長の可能性のための投資がなされることが必要であり、そして、可能性が事実としての成長につながったときに、悪循環は好循環に転じるのです。
 
そこで、個人の家計についても、投資が必要になるわけですか。
 
 必要な消費までも切り詰める倹約ではなく、不要な消費をなくす家計の合理化が必要なのであり、合理化によって生じた余剰は、老後の不安に備えて預金に留保されるのではなく、豊かな老後のために投資されなければなりません。そして、投資された資金が増殖して豊かな消費に充当されたとき、悪循環が好循環に転じるのです。このとき、いわずもがなのことですが、投資された資金は増殖しなければならないわけであって、ここに金融庁が金融機関に対してつきつけている資産運用の高度化という課題があるのです。
 
投資には、自分自身に対する投資もありますね。
 
 もちろん、自分自身に対する投資こそ、本来の投資です。自分自身への投資により人材価値を高め、高度な専門性を身につければ、より大きな所得が得られ、より長く働くことができ、より豊かな暮らしができる、これこそ家計合理化の真の目的でしょう。
 
以上



次回更新は、12月19日(木)になります。
≪ アーカイブから今回に関連した論考 ≫
 2019/08/08掲載「これが老後2000万円報告書の改訂版だ
 2019/05/09掲載「憧れの金利生活者になるために
 2019/04/25掲載「楽しく夢のある投資信託
森本紀行

森本紀行(もりもとのりゆき)

HCアセットマネジメント株式会社 代表取締役社長

東京大学文学部哲学科卒業。ファンドマネジャーとして三井生命(現大樹生命)の年金資産運用業務を経験したのち、1990年1月ワイアット(現ウィリス・タワーズワトソン)に入社。日本初の事業として、企業年金基金等の機関投資家向け投資コンサルティング事業を立ち上げる。年金資産運用の自由化の中で、新しい投資のアイディアを次々に導入して、業容を拡大する。2002年11月、HCアセットマネジメントを設立、全世界の投資のタレントを発掘して運用委託するという、全く新しいタイプの資産運用事業を始める。