日本の住宅は資産ではなくて、使い捨てられる耐久消費財です。住宅は、耐久消費財として、手ごろな価格のもとで大量供給されることによって、住宅を所有したいという消費者の願望を強く刺激して、昭和の経済成長に大いに貢献したわけですが、その結果、現在では、廃棄物としての古家屋を処分することが社会的課題になるという惨状を招いたのです。
また、豊かな老後生活のための原資の確保として、国民の安定的な資産形成が金融行政の重点施策となるなかで、住宅が資産価値をもっているのならば、それを利用した様々な工夫もあり得るわけですが、現実には、多くの場合、全く価値がなく、逆に修理費等が嵩むという弊害のほうが大きいわけです。
そこで、長く使える高品位の住宅、即ち資産価値のある住宅が普及していけば、国策に適うわけですが、そのことは、必然的に、住宅を所有することと、住宅に住むこととの分離を意味します。そして、住宅の所有は住宅という資産への投資に進化し、住宅の価値を維持し、その価値を高めるように管理する投資運用業が成立することになります。
住むためには、住宅を借りるべきだということでしょうか。
住宅を所有することの動機として、単に所有したい、あるいは自分の好みで設計した住宅に住みたいという願望のあるのが普通でしょうが、そのような非経済合理的な動機のもとでは、住宅は耐久消費財にならざるを得ず、社会全体として、極めて非効率に住宅資源が配置されることになります。非効率の典型は高齢者夫婦が子供の独立した後の大きな家に住むことです。
それに対して、住宅を所有することではなくて、住宅に住むことについて、家族構成等との関係で需要が経済合理的に見積もられ、それに適正に均衡するように住宅の供給がなされるのならば、効率的な住宅資源の配置が実現されるわけですが、そのとき、住宅を所有することと住宅に住むことは、完全に分離するはずで、逆に、その完全な分離を行わない限り、効率的な住宅資源の配置は実現しません。
社会全体で住宅を所有し、社会全体で住宅を利用するということですか。
いうまでもなく、計画経済のもとでなければ、社会全体での効率的な住宅資源の配置など実現し得ないわけですが、社会の成熟とともに、経済合理的な住み方が普及してくれば、住宅に住むことと所有することの分離は着実に進展していって、大きな住宅の塊が社会的に所有されることになる、即ち、投資対象として独立することになるわけです。
なぜ投資対象になるのかといえば、合理的に住むことに対して適正に住宅が供給される限り、個々の物件はともかくも、全体としての住宅の集合は常に住む人を見出す、即ち、稼働するわけですから、安定的な賃料収入を見込めるからです。
投資対象として独立するから、大きな資金調達が可能になるわけですか。
住宅が耐久消費財になる理由の一つは、価格を低く抑えるためです。それに対して、所有を分離し、投資目的の大きな資金調達を行えば、資産として長期間利用される高品位で高価格の住宅を建設できるわけです。逆にいえば、長期間利用され、高価格だからこそ、資産価値があり、価値のある資産への投資だからこそ、資金調達が可能になるということです。
長期間利用されれば、資産管理が極めて重要になりませんか。
社会構造の変化により、住むことの需要の内容も変化します。故に、住宅の資産としての長期的な価値を維持し、高めるためには、適時の適切な改修投資など、能動的な資産管理が必要で、それが住宅を投資対象に構成する投資運用業者の専門家としての機能なのです。逆に、こうした専門家の管理のもとにあるからこそ、住宅は資産としての価値をもつわけです。それに対して、個人が自分で住むために所有している住宅は、まさに、そのことによって資産価値が失われているのです。
住宅を所有したいという願望には、土地神話といいますか、地価上昇への備え、もしくは期待が含まれてはいないでしょうか。
住宅は土地を内包していて、住宅自体は耐久消費財だとしても土地は資産だという考え方は、現在でも根強く残っているのかもしれません。事実、昭和の時代には、地価は上昇していたのです。さて、今後の地価の動向は不明ですが、確実にいえることは、土地は住宅等の建物の底地として利用されてこそ価値があるのですから、価値のない住宅の底地よりも、価値のある住宅の底地のほうが投資対象として有利だということです。
所有と利用を分離することで投資対象化できるものは、住宅以外にもあるのではないでしょうか。
そもそも、かつては、企業が本社屋等の不動産を自社で保有して利用するのが普通だったのですが、経営効率改善の努力の過程において、それらの不動産が大量に投資運用業者に売却されることで、商業用ビルが有力な投資対象に成長した経緯があります。しかも、投資対象としての商業用ビルの開発は、大都市の土地の利用効率を大きく高めたわけです。同じ改革を家計について行えば、住宅が投資対象になるというだけのことです。
また、所有と利用の分離とは、いわゆるシェアリングのことです。今後、ありとあらゆる分野でシェアリングが進行していき、仮に、その手法としてリースが利用されるとしたら、リース対象資産は多様化し、その一部は投資対象として独立していきます。例えば、自動車は代表的な耐久消費財ですが、膨大な数の自動車の塊が投資対象になる日も遠くはないでしょう。
国有財産も投資対象になるでしょうか。
確かに、民間の投資運用業者が買収することで、投資対象に構成できる国有財産は少なくないはずですが、論点は経済合理性とは無縁な役所仕事のもとに財産管理がなされていることですから、管理運用を民間の専門家に委託し、国家が投資家としての収益を享受する方法もあり得ます。国家の利益は当然に国民の利益です。
それにしても、安倍前首相の躓きの石が国有財産の管理を所管している財務省理財局だったことを想起するに、新政権のもとで、国有財産管理の改革に何らかの進展があっても驚くべきことではありません。そもそも、理財とは、財産を上手に管理運用することです。
個人が所有する事業も、投資対象化できるでしょうか。
経営者の高齢化にともなって、経営者自身や同族が所有する企業の事業承継が大きな問題になっています。しかし、事業に価値があるのならば必ず承継者がいて、事業に価値がないのならば必ず承継者はいないので、どちらにしても承継が問題になるはずはありません。そこで、事業承継という問題があり得るとしたら、企業の現状を維持したままでは、事業の承継が困難だと考えるほかありません。
つまり、事業承継の問題は、承継されるべき事業の問題ではなく、事業を営む企業の問題であり、実際上は企業を所有する経営者と同族の問題であり、より具体的には、それら当事者が高齢化していて時間の余裕がないという切迫した事態が問題なのです。
ならば、早期に事業の所有と経営を分離しておく必要があったということでしょうか。
経営者が自分の事業に愛着をもつのは当然ですが、企業は公器であるといわれることにも真理があって、事業の成長のある段階においては、経営者は、個人財産としての企業価値と社会的価値としての事業価値の分離を行い、投資家に転身すべきなのでしょう。経営者の立場ではなく、投資家の立場において、自分の事業に価値を見出すとき、その事業は、第三者の外部の投資家にも、価値のあるものになるのです。
人間の解放ですね。
事業に執着する経営者は、事業を支配しているのではなく、事業に支配されているのです。住宅を所有している人は、その住宅に支配され、そこに住み続けようすることで人生の可能性を狭くしているように、事業に支配されている経営者は、投資家に転じることで開かれる新たな人生の可能性を放棄しているのです。所有と利用の分離、所有と経営の分離は、所有に支配されている人間の解放です。
以上
次回更新は、10月1日(木)になります。
2019/08/29掲載「事業承継が問題になること自体が問題だ」
2019/05/09掲載「憧れの金利生活者になるために」
2017/04/27掲載「住宅ローンを不要にする住み方改革のすすめ」
森本紀行(もりもとのりゆき)
HCアセットマネジメント株式会社 代表取締役社長
東京大学文学部哲学科卒業。ファンドマネジャーとして三井生命(現大樹生命)の年金資産運用業務を経験したのち、1990年1月ワイアット(現ウィリス・タワーズワトソン)に入社。日本初の事業として、企業年金基金等の機関投資家向け投資コンサルティング事業を立ち上げる。年金資産運用の自由化の中で、新しい投資のアイディアを次々に導入して、業容を拡大する。2002年11月、HCアセットマネジメントを設立、全世界の投資のタレントを発掘して運用委託するという、全く新しいタイプの資産運用事業を始める。