株式投資における資本効率論の迷妄

株式投資における資本効率論の迷妄

森本紀行
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資本は利潤を生むものである以前に、損失を吸収するものであって、企業が資本利潤を生み得るのは、損失を回避するからではなく、損失を恐れずに不確実な未来に賭けていくからです。故に、真の株式投資は、資本とは賭けの期待損失であるとの理解に基づくべきなのです。
 
 新しい事業の創造においては、初期投資が必要ですから、それに応じて必ず初期損失が発生しますが、その損失を恐れる人は、そもそも起業に挑戦するはずもありません。起業家は、初期損失を見込み、それを吸収できるだけの初期資本を調達しているのですから、予定された損失の発生を恐れる必要はなく、恐れるべきは、その損失が投資として未来の価値を創造せずに、単なる損失に帰着することです。
 つまり、初期損失が事業創造のための投資といえるためには、事前の計画に従って、資金が適切なところに、適切な時点で投じられることが必要なのであって、この損失の計画性が投資の本質であり、それが起業の成功を規定しているわけです。要は、上手に損をするから、結果として儲かるということです。
 
ならば、起業段階が終了し、事業が軌道に乗ったとき、資本は解放されるべきでしょうか。
 
 資本の必要性がなくなったとき、それが出資者に返されるべきことは、それ自体としては、簡単明瞭な絶対的真理です。しかし、第一に、どれほどの利潤を付して、どのような時間軸において、還元されるべきかという点、第二に、資本は、起業の初期損失の吸収という機能を演じるだけではなく、事業の維持継続と成長とのためにも必要とされるはずで、どのような条件のもとで、どの程度の資本額が留保されているべきかという点、この二点は非常に難しい現実的問題を常に提供し続けています。
 
どのようにして事業の維持継続のための資本は算定されるべきでしょうか。
 
 仮に成長しないと前提しても、企業の業績は必ず変動し、ときに損失が発生しますから、事業の維持継続のためには、一定の仮定のもとで最大損失発生額を計測し、それを吸収できるだけの最低所要資本額を留保しておく必要があります。そして、実は、企業経営において、この最低所要資本額の適正な見積もりは決定的に重要なのです。なぜなら、自己資本を最小化することは、同時に、資本利潤率を最大化することになり、また、所要額を超えて留保されている自己資本は、配当等により株主に還元されるべきだからです。
 しかし、この最低所要資本額の見積もりは簡単ではなく、業績変動の振れ幅は事業構造に規定されていて各社に固有のものですから、振れ幅の大きいほど、より大きな自己資本が必要だとはいえても、それ以上の一般的なことはいえないのです。しかも、自己資本が大きくなれば、要求される資本利潤の絶対額も大きくなりますが、業績の振幅の大きい事業ほど利益率が高いとは必ずしもいえないという難問も生じます。
 また、負債があるときは、損失が拡大して自己資本が減少してくると、債務超過に転じる可能性を生じて事業継続が危機に陥りますから、負債と資本との比率が重要な論点として浮上してきます。つまり、負債を増加させれば、資本利潤率は上昇しますが、同時に債務超過の危険を上昇させるという二律背反があり、そこには、最適資本構成、即ち、負債と資本の最適な比率があるべきですから、その比率を定めて、維持していくという極めて高度な経営課題が生じるのです。
 
では、成長のために必要な資本額の算定は、なおさら難しいのでしょうか。
 
 必要な資本額との関係においては、成長は、第一に、連続的な成長、即ち規模の成長であって、規模の拡大に比例して、事業継続のための最低所要資本額も増大していき、第二に、非連続的な成長、即ち新たな起業の連続であって、いわば終わりなき起業ですから、常に、起業の初期損失の見込みに対応する資本が留保されていなければならないわけです。そして、いうまでもなく、算定が難しいのは後者の場合です。
 
多角化による分散効果ですか。
 
 ある事業を営む企業において、別の新しい事業を創造するとして、二つの事業の業績変動が相互に相殺される、即ち、第一の事業が不振のときは第二の事業が好調で、逆に第一の事業が好調のときは第二の事業が不振であるのならば、第二の事業の起業のための初期資本は、事業が軌道に乗った段階で、その多くを解放し得ることになります。
 これが分散効果ですが、二つの事業の業績の間には、完全な相反はあり得なくとも、必ず何らかの相殺効果はあるのですから、企業の成長戦略として、単純に一つの事業の規模を拡大させるのではなく、複数の、あるいは多数の事業を集積することにより、上手に分散効果を取り込めば、所要資本を小さくして、資本利潤率を上げることができるはずです。
 
では、なぜ多角化には批判が多いのでしょうか。
 
 企業経営の基本として、多数の異なる事業を営むにしても、各事業に十分な収益性の備わっていることが前提条件になるのは当然で、分散効果は二次的なものにすぎないわけです。しかし、こうした前提条件を備えた真の分散は必ずしも普通ではなく、多くの場合、好採算の事業の裏で、不採算事業の継続が正当化されている偽りの分散なのです。故に、企業は、安易な事業の多角化をすべきではなく、他社に対して差別優位があって収益性の高い専門分野に経営資源を集中すべきだとされるのです。
 また、上場企業については、分散投資は投資家が行うもので、企業は固有の専門分野に特化すべきだという考え方があります。つまり、社会経済全体における分業として、投資家の機能は、資本の分散であり、投資先の企業の機能は、投資家によって配賦された資本の効率的活用であるというわけです。
 
多角化にはモラルハザードの側面もあるでしょうか。
 
 保険理論におけるモラルハザード(moral hazard)とは、保険の主旨に反した不当な利得の発生のことで、その典型例として受験生の落第保険があげられます。受験生は自分の意思によって意図的に落第できますから、受験生を被保険者として落第という事故に付保すれば、不当に保険金が支払われてしまう可能性があって、保険として成立し得ないのです。
 つまり、一般化すれば、保険者の知り得ない被保険者の意図のように、保険者と被保険者との間に情報の非対称性のあることには保険を適用できないわけで、企業の営む事業についても、受験と同じように、経営者の意図、あるいは不当な怠慢と看做し得る不作為や不注意により、損失が発生し得ますから、付保できないのです。ところが、多角化とは事業相互間で保険をかけあっていることと同等ですから、そこにはモラルハザードの可能性があって、不採算事業の温存というのは、この側面から説明できると考えられるのです。
 
健全な多角化もあり得るのではないでしょうか。
 
 事業そのものには付保できなくとも、事業の遂行に付随する諸危険、例えば商品等の運送中の事故には付保できるわけですから、単なる多角化ではなく、一つの事業を中核として、他の諸事業が緊密な連関をもった付随事業といえるのならば、そこにはモラルハザードの可能性はないともいえます。しかし、その判定は極めて困難です。
 
困難な問題といえば、所要資本額は損失の見込みにすぎず、現実には、見込みを大きく超える損失の発生があり得るのではないでしょうか。
 
 見込みは、所詮は見込みにすぎず、例えば経済危機に見舞われたときのように、見込みを超えた損失の発生は不可避であって、単に生起確率が小さいだけですが、その小さな確率も考慮して自己資本を留保すれば、資本利潤率は低下します。実は、この難問を解くために、資本市場の機能があるのであって、企業経営として、資本を必要とするときに、いつでも必要額を調達できるのならば、過剰に資本を留保する必要はないはずですが、実際には、経済危機において、資本市場は機能しないという解き得ない矛盾があります。
 
結局、所要資本額の見積もりには、あまりにも複雑に多様な要因が絡むので、客観性を備えた推計は不可能といっていいわけですか。
 
 客観的な証明が不可能だから、対話が必要なのです。責任ある投資家は、経営者との対話において、資本過剰を指摘して配当等による還元を求めるのならば、危機に際しては増資引受けを確約すべきであり、多角化の非効率をあげつらうのならば、真の事業結合のあり方を提案すべきであり、そして、なによりも、損失の発生を非難するのならば、その損失が未来への投資になっていないことを論証して、経営者の反論に耳を傾けるべきなのです。しかし、現実には、無責任な一方的な議論が横行しているようです。
≪ アーカイブから今回に関連した論考 ≫
2020/03/19掲載「安っぽいSDGsとESGで儲けようとする君たちへ
2016/06/30掲載「リスクに、おいしい、まずい、はあるのか
2014/08/28掲載「異端を尊ぶJR九州
森本紀行

森本紀行(もりもとのりゆき)

HCアセットマネジメント株式会社 代表取締役社長

東京大学文学部哲学科卒業。ファンドマネジャーとして三井生命(現大樹生命)の年金資産運用業務を経験したのち、1990年1月ワイアット(現ウィリス・タワーズワトソン)に入社。日本初の事業として、企業年金基金等の機関投資家向け投資コンサルティング事業を立ち上げる。年金資産運用の自由化の中で、新しい投資のアイディアを次々に導入して、業容を拡大する。2002年11月、HCアセットマネジメントを設立、全世界の投資のタレントを発掘して運用委託するという、全く新しいタイプの資産運用事業を始める。