人が他人を知るとは、ある場面において、その人が示した一つの側面を知ることです。その人との交渉が深まるにつれて、多様な場面における多様に異なる多数の側面が知られていき、その人の同一性を前提として、それらが重ね合わされて、その人についての一つの像が形成されます。いわば、他人の多数の平面の写真から、その一つの立体の像ができるのです。
場面、側面、平面は面であり、そのときの仮のものとして、仮面であるわけですが、多数の仮面が重ね合わされて構成される像の裏には、実体性を備えた顔があるはずだと普通は考えます。別のいい方をすれば、像は他人そのものの像であり、像の裏には他人という実体が存在すると思うのが自然なのです。今どきの表現を使えば、ヴァーチャルな仮面の背後には、リアルな顔があるはずだということです。
リアルな顔はないのでしょうか。
実は、人が他人について認識し得るものは、仮面としての他人の様々な現れだけですから、それらの現れがリアルなものであって、その背後に、様々な仮面を統一するものとして、真の顔をもった他人そのものがあると想定することは、観念的な要請にすぎません。ならば、真の顔という観念がヴァーチャルなのであって、仮面から構成された像がリアルなのです。
ところが、自分自身についていうならば、様々な場面において、多数の他人に対して、自分の様々に異なる仮面を見せながら、それらの仮面を統合して自分自身がリアルに存在していることに疑う余地はありません。しかし、自己の内面の確信として自分がリアルに存在していても、そのリアルな顔は自分では見ることができず、見えるものは鏡のなかのヴァーチャルな像にすぎないわけです。
そこで、他人のリアルな仮面の裏にヴァーチャルな顔があり、自分のヴァーチャルな顔の裏にリアルな自分があるとしたら、他人のリアルな仮面の裏にもリアルな他人があるはずだと推論できます。こうして、古代ギリシアに始まった哲学の問いは、自分がリアルにあることの確信、その確信に基づいて、自分の前にたち現れる諸現象から、自分の外にリアルなものが構成されていく仕組み、自分の外のリアルなものの裏にあるべきヴァーチャルでリアルな不可思議なものについて、今もなお、終わることなく営々と続いています。
そろそろ、哲学から商業に急降下しませんか。
商人は、顧客の多様でリアルな消費行動を見て、その裏に顧客像を構成しています。このこと自体は常識でしょうが、哲学的にいえば、構成された顧客像は、あくまでも像であって、ヴァーチャルなものにすぎないのに、商業的には、多くの場合、特に対面の事業においては、顧客像をリアルなものとして、実在する人間そのものとして、錯覚しているのです。
錯覚しているからといって、実害はあるでしょうか。
商業の基本は顧客本位、即ち、現に目の前にある顧客のリアルな消費行動に対して、その真の需要に適切に応えることです。それに対して、顧客がリアルにあると錯覚することは、それに直接に働きかけようとする能動的な努力、即ち営業につながりますが、営業は商人本位に商品を販売することになりやすく、顧客のリアルな消費行動の裏にある真の需要を見失い、顧客本位に反することになりがちです。
そこで、顧客本位の営業があり得るとしたら、顧客がヴァーチャルな顧客像であることを自覚したうえで、その像の精緻化を図り、より精緻に構成された顧客像に対して、より精緻に適合した商品を提供することになります。そして、顧客像の精緻化とは、個別具体的なリアルな顧客の需要に適切に応えることの積み重ねにほかなりません。
精緻化とは、顧客像をリアルにすることではないのでしょうか。
他人のヴァーチャルな仮面の裏にリアルな顔があるかどうかは哲学上の大問題ではありますが、その問題を棚上げしても、人間が現に存在して生きている事実のもとで、実生活に何等の支障をきたすこともありません。ましてや、商業においては、顧客像の精緻化の先に、リアルな顧客があると仮定しても、それが追えば常に先へ先へと逃げ去り行くものであり、掴もうとすれば常に必ず手元をすり抜けるものであれば、ないのと同じです。
重要なのは、真の顧客は知り得ないものだとの了解です。顧客を知り得ると思い、顧客を知っているとの錯覚のもとで営業がなされるからこそ、顧客本位にならないわけで、真の顧客本位とは、顧客自体は知り得ず、知り得るのは顧客の個別具体的でリアルな需要だけだとの前提のもとで、そのリアルな需要に適切に応えることを通じて、顧客像を作り上げていくことなのです。
では、インターネット上の商業のほうが顧客本位になりやすいのでしょうか。
インターネット上の商業においては、顧客は、顧客自らが属性を登録した仮面であり、消費行動履歴から構成された像であり、情報の集合にすぎないのですから、それを商人が自覚しているかどうかはともかくも、完全にヴァーチャルなものとして扱われます。
こうして、インターネットでは、顧客がヴァーチャルなので、顧客のリアルな需要に集中し得て、あるいは集中せざるを得ず、それに端的に応えるのが事業の目的になって本質的に顧客本位であり得るのに対して、対面では、そこにリアルな顧客があるとの錯覚のもとで、リアルな需要に忠実でいられずに、余計な営業をしてしまい、顧客本位に反する場合が多くなるわけです。
顧客本位とは仮面に忠実であることですか。
人は、消費目的に応じて、様々なインターネットの商店を使い分けるでしょうし、同じ商店でも、用途に応じて口座を複数もつかもしれません。こうして、顔の見えないインターネットでは、人は常に仮面なのですが、だからといって、商人にも、顧客にも、少しも不都合はありません。
実際、インターネットで女性の服飾品を販売するとき、顧客が女性であるか、実は男性であるかは、少しも重要な問題ではなく、見えている仮面に忠実でありさえすればよくて、そもそも、見えない顔に忠実であることはできません。この点、対面の商業においても、見えているのは、あるいは見るべきものは、顧客の顔ではなくて、特定の需要を表現した仮面であることを学ぶべきです。
仮面から顧客像を構成するには、どうしたらいいでしょうか。
この仮面のもとで、その商品に需要があるのなら、あの別の商品にも需要があるだろうと推論し、その推論手法を情報分析の高度化によって洗練させて、次々と少しずつ異なる仮面を推測していって、より多面的な顧客像を構成しようとするのは、インターネット上の商業の基本的な営業戦略ですが、特定の商品の販売戦略である限りは、流行りもののAIを使って消費行動履歴の分析を精緻化させても、顧客の立場からみれば、多くの場合、余計なお世話の押し付けにならざるを得ません。
そこで、情報収集に関する優越的地位をもつ企業においては、情報収集源を拡大させて、収集情報を巨大化させて、顧客の多様な消費行動の総体を掴み、更には消費行動以外の行動の全体をも捉えて顧客像を精緻化しようとする試みがなされるわけですが、周知のように、それは個人情報の不正な利用だとして規制される方向にあります。
では、むしろ対面の商業のほうに可能性があるのでしょうか。
対面の商業における新たな可能性は、商人と顧客との境界をなくすことです。これが共同体、即ちコミュニティの考え方であって、コミュニティがヴァーチャルであり、その部分としての個人がヴァーチャルだとしても、同一のコミュニティに属している個人と個人の関係はリアルだということです。故に、商人と顧客が同一のコミュニティに属していれば、その関係はリアルです、ちょうど、顧客がヴァーチャルでも、顧客と商人との間の商取引はリアルであるように。
実は、これは少しも難しい話ではなくて、コミュニティといえるほどに確立された顧客基盤のもとにおける商業では、商人と顧客との関係が先にあって商取引が行われていて、商取引の継続により基盤が強化されていくという常識的なことです。そして、おそらくは、この常識とインターネットとの非常識な結合に、全く新しい商業のあり方があるのです。
以上
2020/12/24掲載「会社員である前に人であり街の住人であり子である」(関連するキーワード:コミュニティ)
2018/09/13掲載「スマートコントラクトが作る映画「マトリックス」の世界」(関連するキーワード:ヴァーチャル・インターネット)
2018/07/12掲載「奢り奢られることの仮想通貨的考察」(関連するキーワード:ヴァーチャル)
森本紀行(もりもとのりゆき)
HCアセットマネジメント株式会社 代表取締役社長
東京大学文学部哲学科卒業。ファンドマネジャーとして三井生命(現大樹生命)の年金資産運用業務を経験したのち、1990年1月ワイアット(現ウィリス・タワーズワトソン)に入社。日本初の事業として、企業年金基金等の機関投資家向け投資コンサルティング事業を立ち上げる。年金資産運用の自由化の中で、新しい投資のアイディアを次々に導入して、業容を拡大する。2002年11月、HCアセットマネジメントを設立、全世界の投資のタレントを発掘して運用委託するという、全く新しいタイプの資産運用事業を始める。