英米法では、他人からの高度な信頼のもとで職務を遂行する人をフィデューシャリーと呼び、フィデューシャリーが負う義務をフィデューシャリー・デューティーといいます。法体系の異なる日本において、フィデューシャリー・デューティーは、英米法を専攻する少数の法学者の研究対象にすぎなかったのですが、金融庁の2014年事務年度の行政方針のなかで、その徹底が金融機関に求められたことから、現在では金融界に遍く知られています。
日本法のなかでフィデューシャリー・デューティーに最も近いものを求めれば、忠実義務になるので、金融庁は、この特殊な用語を敢えて使うことで、金融機関に対して、通常の忠実義務を超えた高度な忠実義務の徹底を求めたことになります。なお、フィデューシャリー・デューティーは、当初は、理念的規範として導入され、2017年に「顧客本位の業務運営に関する原則」に具現化されています。
そして、金融庁は、まさに現時点において、フィデューシャリー・デューティーの法規範化を進めているわけですが、法案においては、「顧客等の最善の利益を勘案しつつ、顧客等に対して誠実かつ公正に、その業務を遂行しなければならない」との表現が採用されています。要は、「顧客等の最善の利益」を掲げることで、英米法のフィデューシャリー・デューティーの日本法への輸入を図っているわけです。
最善とは、どういう意味でしょうか。
人は、自分にできない用事を他人に頼むとき、信頼している人を選びますが、逆にいえば、信頼しているからこそ、用事を頼むわけですから、頼まれた人は、その信頼に応えようとして、依頼人のために、頼まれた内容に忠実に、用事を済ますわけです。そして、社会通念上、このような頼む人と頼まれる人の関係を信頼関係といいます。
ここで、問題は忠実であることの意味です。多くの場合、忠実であるとは、依頼の内容に形式的に忠実であることですが、依頼された状況によっては、背景の事情を理解したうえで、依頼内容を適切に解釈することにより、依頼者の真の意図に対して忠実であるように行動しなければ、信頼に応えたことにならない場合があります。
こうして、依頼者の意図に忠実であろうとするとき、依頼された人は、その意図の実現に関して、様々に異なる方法と手段を考えたうえで、そのなかから、当然に、依頼者の利益に最も適うものを選択します。つまり、最善であるとは、依頼者の意図を理解し、その意図に忠実であろうとすることであり、可能な実現方法を全て検討したうえで、依頼者の意図に最も適うものを選択し、それを確実に実行することになります。
信頼関係を超えた信認関係ですか。
信頼関係において、依頼を受けたものによって最善を尽くされることが予定されているとき、それは信認関係と呼ばれます。実は、信認関係という用語は、英米法におけるフィデューシャリー関係、即ち、顧客とフィデューシャリーとの関係を意味する翻訳語なのであって、要は、フィデューシャリーとは、顧客の利益のために最善を尽くす人のことなのであり、フィデューシャリー・デューティーとは、最善を尽くす義務なのです。
なお、フィデューシャリー・デューティーは、最善を尽くす義務である以前に、当然の前提として、専らに顧客の利益のために働く義務を意味していて、この後者の義務は、信頼関係においても、依頼を受けたものに課されますから、信頼関係と信認関係の違いは、最善を尽くす義務の有無に帰着するのです。
日本の法体系においても、最善が求められ得るのでしょうか。
信頼関係は、当然のことながら、業務委託契約における委託者と受託者との間に成立するわけですが、委託者の利益が特別に保護される必要のあるときは、日本の法律においても、受託者に法律上の忠実義務が課せられていて、その代表例は、資産運用の委託において、受託者の投資運用業者等に課されている忠実義務なのです。
ただし、日本の忠実義務の主眼は、受託者の職務の遂行において、自身の利益を図ることや、委託者以外の第三者の利益を図ることなど、いわゆる利益相反を禁じることにあって、受託者に最善を尽くすことまでは求めていないのです。
こうした忠実義務のあり方は、日本に固有というよりは、法律一般の機能からして当然であって、むしろ、英米法のフィデューシャリー・デューティーが極めて特異なのです。しかし、重要なのは、米国をはじめとして、この特異な英米法の文化をもつ国々において、資産運用の高度化が実現したことであって、故に、金融庁は、フィデューシャリー・デューティーに着目するわけです。
フィデューシャリー・デューティーにおいて、どのようにして最善が尽くされるのでしょうか。
例えば、米国の年金基金の資産管理責任者はフィデューシャリーなのであって、運用委託先の投資運用業者を選定するときは、最善を尽くす義務を負いますから、委託しようとする投資領域について、そこに専門性のある全ての投資運用業者を調査したうえで、年金基金の投資方針や、投資運用業者の能力などの様々な基準に対して、最善と評価される一社を選択するわけです。
そこで、年金基金は、まずは、投資運用業者の調査を行うために、専門のコンサルタント会社を起用します。コンサルタント会社は、投資運用業者のデータベースを駆使して、規模、設立年、過去の運用実績、投資手法の特徴など、年金基金が定めた諸条件のもとで、第一次候補の選定を行い、次いで、実地訪問調査を経て、いわゆるショートリスト、即ち、数社に絞り込まれた候補のリストを策定します。
年金基金は、意思決定機関において、ショートリスト上の各社に面接して質疑を行い、一社を選択するわけですが、どの会社が選ばれようとも、こうした厳格な選定手続きが踏まれている以上は、法律上、フィデューシャリー・デューティーの果たされたことは明らかであり、逆に、フィデューシャリー・デューティーの果たされたことが明らかになるように、選定手続きが構築されているわけです。
そうした選定手続きのもとで、投資運用業者は、資産運用に専念できるわけですね。
委託者である年金基金等の投資家にフィデューシャリー・デューティーを課すことは、結果的に、年金基金と同じくフィデューシャリーである投資運用業者に、義務の履行を徹底させることになります。なぜなら、新規顧客を獲得するための営業活動は、フィデューシャリー・デューティーを負う投資家に対しては無意味になり、投資運用業者は現にある顧客の利益のために、運用に専念することになり、故に、運用において最善が尽くされるからです。
合理的報酬も、重要ではありませんか。
フィデューシャリー・デューティーから導かれる規範として、投資運用業者の得る報酬の合理性があります。つまり、報酬は、専らに顧客のために働くことの対価でなければならないので、新規顧客開拓のための経費を含み得ないのですから、この面からも、投資運用業者は、運用に専念することになるわけです。
故に、金融庁は、企業年金基金に対して、最善を尽くす義務を課すわけですか。
法案にある「顧客等の最善の利益を勘案しつつ、顧客等に対して誠実かつ公正に、その業務を遂行しなければならない」との義務は、企業年金基金に対しても課せられます。実は、「顧客」ではなく、「顧客等」となっているのは、「等」に企業年金の加入員と受給者を含ませるためなのです。
この法案における金融庁の期待は、いうまでもなく、企業年金基金に最善を尽くす義務を課せば、米国と同様に事態が進展し、投資運用業者は、母体企業との金融取引の関係ではなく、運用能力だけによって選定されるようになり、運用に専念して最善を尽くすことになって、資産運用が高度化していくというものです。この金融庁の期待が実現することは、日本の投資運用業の未来にとって、決定的に重要なのです。
・企業年金に企業の品位品格が現れる (2018.11.29掲載)
コーポレートガバナンス・コード第2章中の企業年金への言及が行われている原則の内容に沿って、企業年金のあるべき姿について論じています。
・企業年金が「フィデューシャリー宣言」をする意義 (2015.9.3掲載)
年金における忠実義務とフィデューシャリー・デューティーの違い、また、年金におけるフィデューシャリー・デューティー上の問題点について論じています。
・企業年金と母体企業の不適切な関係 (2015.3.19掲載)
母体企業と企業年金のあるべき関係性について論じられているほか、企業年金のベストプラクティスについても触れられています。
(文責:酒見)
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森本紀行(もりもとのりゆき)
HCアセットマネジメント株式会社 代表取締役社長
東京大学文学部哲学科卒業。ファンドマネジャーとして三井生命(現大樹生命)の年金資産運用業務を経験したのち、1990年1月ワイアット(現ウィリス・タワーズワトソン)に入社。日本初の事業として、企業年金基金等の機関投資家向け投資コンサルティング事業を立ち上げる。年金資産運用の自由化の中で、新しい投資のアイディアを次々に導入して、業容を拡大する。2002年11月、HCアセットマネジメントを設立、全世界の投資のタレントを発掘して運用委託するという、全く新しいタイプの資産運用事業を始める。