企業経営において、人的資本は、働く人そのものではなく、人の働く広い意味での環境を意味します。働く環境が生産性に大きな影響を与えることは、工場の製造装置の性能や配置等と作業効率との関係を考えれば、簡単に理解されますが、人的資本は、装置や建物等の有体物で構成される物理的な環境ではなく、人事処遇等の諸制度、雰囲気のような文化や風土、知名度や信用等の社会的評価などの無形のもので構成される目に見えない環境です。
物理的な環境は、働くことの生産性の向上について、持続的な効果を発揮するものとして、会計的に資産となります。無形の環境についても、それが生産性の向上について持続的な効果をもつのであれば、理論的には資産なのであって、こうした資産性のある無形の環境が人的資本なのです。故に、適切な用語の使い方としては、人的資産と呼ぶべきですが、それでは働く人自体を指しやすいので、人的資本というのです。
なぜ敢えて人的資本と呼ばれるのでしょうか。
人的資本という表現は、貸借対照表の用語を借りているのであって、人的資産には、反対勘定において、負債か資本が対応するので、資本のほうをとって、人的資本といわれるのです。しかし、それだけではなくて、資本という用語に特別の意味が籠められていると考えられます。
そもそも資本は何かといえば、どの事業にも、一時的な損失の発生することは不可避ですが、資本は、その損失を吸収する能力であって、損失が資本によって吸収されるからこそ、事業は持続可能になるわけです。そして、資本の本質として、より重要なのは、資本があるからこそ、企業は、一時的な損失の発生を恐れずに、不確実な未来に賭けていけることです。
我々の経済体制は資本主義といわれますが、資本主義の資本とは、第一義的には、不確実な未来に賭けていく起業家精神と解されるべきです。この起業家精神としての資本は、第二義的な資金としての資本のなかに魂を吹き込み、資金は魂を得て活性化され、活性化された資金の動態が経済を成長させるわけで、この経済成長の仕組みが資本主義なのです。同様に、人的資本の資本は、働く人の働き方精神とでもいうものに関係するのです。
では、働き方精神としての人的資本は、働く環境としての人的資本に魂を吹き込むのでしょうか。
人は何のために働くのか、この本質的な問いは、企業との関係からいえば、人は何のために特定の企業のなかで働くのかという問いになります。この答えについて、敢えて図式的にいえば、一方に、安定収入を得るため、他方に、自己実現のためという両極があるはずです。要は、働く人にとっては、自己実現の機会を企業の外に求めるか、あるいは企業の内に求めるかの二つの方向があり得るわけです。
この第一の方向において、働く人が企業の外で自己実現を目指すときに、人的資本は、第一義的には、働き方精神なのであって、第二義的な人的資本としての働く環境に作用して、それに魂を吹き込み、活性化させます。例えば、働く人は、企業の外での活動時間を最大限に確保するためには、自由度の高い勤務形態を活用して、就労時間中の生産性を高めるはずで、逆に、生産性を高める方向に機能してこそ、自由度の高い勤務形態は人的資本になるのです。
強い規律のもとでの勤務形態が人的資本になることもあるでしょうか。
仕事には様々な種類があるのであって、自由度の高い勤務形態が生産性を高める職種もあれば、逆に、生産性を低下させる職種もあります。故に、働く環境は第二義的な人的資本なのであって、職種に応じて適切に設計され、かつ、企業の外で自己実現を目指す人の働き方精神によって適切に利用されてこそ、人的資本になるのです。
第二の方向、即ち、働く人が企業のなかで自己実現を目指すときは、働く環境が第一義的に人的資本なのでしょうか。
企業は、企業のなかで自己実現するように、働く人を促し、動機付けるのであって、その方法として、人材の登用、処遇、育成等に関する諸制度が機能していて、なかでも、とりわけ重要なのは、大胆な登用、将来の貢献期待に対する報酬、自己研鑽や研修の機会の提供などです。これらは費用支出を伴うものですが、そこには、理論的には、前払い費用として、また、効果が持続するものとして、資産性があるのであって、まさに典型的な人的資本になるのです。
そして、この人的資本こそ、人的資本といわれるときに、一般に想起されるものであり、人的資本投資といわれるのは、そこにおいて資産性のある費用の支出があるからです。この人的資本は、雰囲気的なものとしての働きがい、あるいは働くことの充実感、社会からの評価に伴う誇りなどの人的資本と結合して、第一義的な人的資本として、第二義的な人的資本である働き方精神に作用して、働きの生産性を高くするのです。
働く環境が作用しなければ、働き方精神は人的資本にならないわけですね。
第一の働き方においては、働く環境は、働き方精神によって適切に利用されたときに、人的資本になるのであり、同様に、第二の働き方においては、働き方精神は、働く環境によって適切に動機付けられたときに、人的資本になるのです。故に、働く環境にしても、働き方精神にしても、人的資本にならない場合があるわけです。要は、人的資本も資本である以上は、不確実性のもとにあるのであって、企業経営の核心は、常に不確実性への賭けの巧拙にあるのです。
二つの働き方のもとにある人材に、敢えて名前をつけると、どうなるでしょうか。
第一の働き方をする人は、企業からみれば、支払った人件費に見合った貢献を得るものとして、費用人材です。しかし、企業としては、費用に見合った貢献を得るのは最低限のことにすぎないのですから、費用以上の貢献を引き出すために、働く環境としての人的資本を整備するのです。
簡単にいえば、ここでは、働く人に対して、働きやすい環境、あるいは快適に働ける環境、更にいえば仕事を楽しめる環境を提供することで、働きの生産性を高めてもらう、即ち、費用以上の貢献をしてもらう仕組みが人的資本になるのです。こういえば、簡単に理解できるように、職種に応じて、働きやすさ、働くことの快適さは大きく異なるわけで、故に、人的資本を適切に設計することが経営の要諦になるわけです。
ならば、第二の働き方をする人は資産人材ですか。
第二の働き方をする人に対して、企業は費用支出を伴う投資をしていて、そうした投資は前払い費用としての資産なのですから、投資の対象となる人材は、正しく資産人材なのです。企業としては、前払い費用としての投資は、働く人の将来貢献への期待であって、それが実際の貢献で回収されることを期待しますから、ここでは、人的資本は、期待に応じた貢献を引き出す仕組みになるのです。
しかし、この人的資本には大きな不確実性が伴うわけで、その結果、資産人材には三つの可能性が生じるのです。第一に、期待通りの貢献を実現できない人で、企業としては、期待を達成可能なものに引き下げるので、こうした人材は費用人材に転じます。
第二に、期待通りの貢献を実現する人ですが、企業にとっての前払い費用は、働く人にとっては前受け報酬として負債なのですから、こうした人材は、負債を弁済する人として、負債人材と呼ばれ得るでしょう。そして、第三に、期待以上の貢献をする人で、こうした人材は、負債人材との対比において、資本人材と呼ばれ得るでしょう。当然に、企業としては、資本人材が最も望ましい人材のあり方なのであって、資産人材における人的資本は、より狭義には、資本人材を生む仕組みになるのです。
企業には三種類の人材があるわけですね。
要は、費用人材というのは、企業で働く普通の人のことで、多くの人は費用人材なのです。しかし、企業には、少数の幹部がいるわけで、それが資産人材のうちの負債人材に該当するのです。資産人材のうちの資本人材になるのは、更に少数なのであって、それが経営層に登用される人です。
・会社員である前に人であり街の住人であり子である(2020.12.24掲載)
当コラムでは、人と各種コミュニティの関係を論じており、その中で人とコミュニティとしての会社との関係性について論じています。今回ご案内するコラムと合わせて読むと理解が深まると思います。
・企業が人を採用するという倒錯した発想が終わるとき(2020.7.9掲載)
働く人を企業の視点から見た場合は人的資本として論じることになりますが、こちらは人が企業を選び働くという視点で論じたコラムになります。
・仕事をしたくない人ほど生産性が高くなるわけ(2020.5.14掲載)
人と企業の関係性と生産性について、生きがいや生き方といった、哲学的な側面から解説しています。今回ご紹介するコラムで言及されている働き方精神に関連しています。
(文責:岸野)
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森本紀行(もりもとのりゆき)
HCアセットマネジメント株式会社 代表取締役社長
東京大学文学部哲学科卒業。ファンドマネジャーとして三井生命(現大樹生命)の年金資産運用業務を経験したのち、1990年1月ワイアット(現ウィリス・タワーズワトソン)に入社。日本初の事業として、企業年金基金等の機関投資家向け投資コンサルティング事業を立ち上げる。年金資産運用の自由化の中で、新しい投資のアイディアを次々に導入して、業容を拡大する。2002年11月、HCアセットマネジメントを設立、全世界の投資のタレントを発掘して運用委託するという、全く新しいタイプの資産運用事業を始める。