
投資信託に損失の可能性があっても、顧客は、投資信託の利用目的を理解し、目的の実現を願うのであれば、その危険を受け入れるはずです。その目的こそ、資産形成です。
冒険は、危険を冒すから、冒険といわれるのですが、実は、成功を確信している冒険家にとっては、危険は自己の管理下に置かれたものと自覚されているので、危険を冒すという実感はないはずです。つまり、冒険家として、敢えて冒険するからには、成功への確信がなくてはならず、確信を形成するために、危険の科学的分析に基づいて、その制御のための事前準備を周到にするので、成功を確信したときに、危険を冒すという実感はなくなるのです。
この事情は、起業家にとっても同じで、起業とは、損失の危険を冒すことなのではなく、成功への確信のもとで、利益の獲得に賭けることなのであって、成功への確信は、事業構想の理論的精緻化に投入される努力の量に比例して深まるわけです。要は、一般に、不確実性の伴う企図を実行させるものは、失敗を恐れない勇気ではなくて、成功への確信なのであり、成功への確信は知的努力によって形成されるのです。
程度の差こそあれ、どの行動も何らかの信念に基づいているわけですか。
橋を渡れるのは、橋は落ちないとの信念があるからであり、飛行機に乗れるのも、飛行機は墜落しないとの信念があるからです。そうした信念は、安全確保のために厳格に設計されている社会的制度に対する信頼に基づいていて、更に、その信頼は制度の担い手である専門家の知見と努力と良心に向けられているわけです。
人は、何をするにしろ、他者への何らかの信頼に基づいて行動しているのであって、要は、安心とは他者への信頼なのです。冒険や起業においては、成功への確信、即ち、自分自身への信頼だけが行動の支えとなるのは、頼るべき他者がいない特殊な状況だからです。そして、自分すら頼ることができないとき、人は、神に頼って、不確実性に賭けるのです。信頼と信仰の差は、信じる対象の違いです。
医師の手術を受けられるのも、医師の専門的知見に対する信頼があるからですね。
手術には失敗の危険を伴いますから、患者が手術を受けることは、医師の専門的知見に対する信用、および、医師は最善をつくすはずだとの信念に基づいてのみ、可能なのです。ただし、危険がある以上は、医師とすれば、責任を限定するために、患者が危険を承知したうえで、その危険を受け入れることについて、文書による患者の意思確認を必要としますが、その手続きは、手術を受けることを決めている患者に対して、最後に事務的になされるのです。
投資信託の販売においては、逆に、金融機関は最初に顧客に損失の危険を説明するようですが。
そもそも、どの商品の販売においても、商人は、顧客に対して、最初に、商品の効用、即ち、購入によって得られる顧客の利益を示し、顧客の関心を引いた後で、顧客の不利益である対価の支払いの話をするのです。この顧客の利益を先にいうという商業の基本原則は、原理的には、投資信託の販売についても、適用されるはずですから、金融機関は、投資信託を販売する前に、顧客の利益を先に述べるべきなのです。
しかし、現実には、金融機関は、最初に、顧客の損失の可能性を説明し、投資信託が生み出す付加価値とは無関係に、手数料の話をしています。こうした商業の常識に反した事態は、投資信託の運用成果が不確実なので、金融機関としては、顧客に利益を約束できないことに起因しているのですが、ここでは、手術の危険における医師と患者との関係に対比するとき、二つの問題を指摘できるわけです。
第一は、金融機関が顧客から信頼されていないことですか。
不確実性のある投資信託の販売は、金融機関に対する顧客からの高度な信頼がなければ、成立し得ません。顧客からの高度な信頼とは、患者の医師への信頼と同様に、金融機関の専門的能力に対する信頼と、金融機関は顧客の最善の利益のために行動するはずだとの信念を含みます。しかし、残念ながら、そのような高度な信頼を顧客から得ていると自負できる金融機関はないといえます。なぜなら、そうした立派な金融機関があるのなら、商業の常識にそった投資信託の販売を行っているはずだからです。
当然のことながら、この点の改革は、金融行政の大きな課題であって、故に、金融庁は、英米法の特殊な概念であるフィデューシャリー・デューティー(fiduciary duty)を参考にして、「顧客本位の業務運営に関する原則」を策定し、この原則に基づく自律的な行動を金融機関に求めていて、更には、法律上に、「顧客等の最善の利益を勘案しつつ、顧客等に対して誠実かつ公正に、その業務を遂行しなければならない」との金融機関の義務を定めているわけです。しかし、法律ができたからといって、顧客の信頼が生じるわけではありません。
なお、フィデューシャリーとは、弁護士のように、顧客からの高度な信頼のもとで職務を遂行する特殊な職業人の類型で、フィデューシャリー・デューティーは、フィデューシャリーが顧客からの信頼を守るために負う厳格な義務のことです。
では、第二の論点は、投資信託の利用目的ですか。
手術には目的があって、患者は目的を完全に理解し、目的の実現を強く願って、手術の危険を受け入れるのです。同様に、投資信託に損失の可能性があっても、顧客は、投資信託の利用目的を理解し、目的の実現を願うのであれば、その危険を受け入れるのです。それに対して、現状の金融機関による投資信託販売では、利用目的が欠落しているために、競輪や競馬、あるいは投機におけるように、趣味で損失の危険を冒す人だけが対象になってしまうわけです。
この点についても、金融行政の視点は鋭くて、金融庁は、新たに資産形成という概念を構成し、それを投資信託の利用目的として、金融機関、および国民全体に提示しています。資産形成とは、豊かな老後生活のために、公的年金給付の補完となる生活原資を形成することであって、非常に長い勤労期間中に計画的に積み立てるために、投資信託の価格変動を長い時間軸上に分散できて、長期的に利益を得られる蓋然性が高まるので、顧客にとって、不確実性が受け入れられ易くなるのです。
顧客に提示する利益として、未来の豊かな消費では、あまりにも抽象的ではないでしょうか。
資産形成とは、現在の消費に充当し得る資金について、それを長期の積み立て投資に回して、将来の消費原資を形成することですから、要は、伝統的な用語でいえば、貯蓄なのですが、それを資産形成と呼び変えることによって、長期的な資産の増殖の効果が強調されているわけです。つまり、現在の消費を繰り延べれば、より大きな消費が可能になるという理屈なのです。
しかし、資産形成は、現在の消費を抑制することであり、また、将来の豊かな消費とはいっても、現在の消費に比較すれば、現実味を欠くものであって、必ずしも魅力的ではありません。これは、生命保険についても同じで、保険料の支払いという不利益は明白でも、保障の効用は実感されるものではないのです。
実は、金融機関は、住宅ローン等のローンを中核事業としていて、そこでは顧客に効用を説明する必要すらないのですから、本質的に商業の常識を欠いているのです。故に、資産形成や生命保険の事業において、顧客の効用を理解し、それを説明する技術が未熟であり、著しく稚拙なのです。こうして、専門的知見を欠いたなかで、金融機関の利益のために、資産形成や生命保険の事業が展開されるので、顧客の真の利益に反した事態の横行となるわけです。
少なくとも生命保険については、事実として、効用がありますね。
生命保険会社の事業は、銀行等の金融機関に保険の販売が開放されるまでは、専門的知見をもった人を担い手として、生命保険が役に立った事例に基づいて、保障の必要性を普及啓蒙することで、成立していました。故に、生命保険に必要なことは、原点への回帰なのです。
資産形成についても、世のなかは広いわけで、金融機関の認知し得ないところで、多くの優れた成功事例が実在しているはずです。故に、資産形成にとって必要なことは、そうした事例を集めて、世に知らしめて、事業の原点となる基礎を構築することになるのです。
・金融におけるclient benefit first, money followsの実践哲学(2025.5.29掲載)
顧客の利益を最初に述べる「クライアント・ベネフィット・ファースト」は商業の常識であり、金融庁の顧客本位という思想はこの原則に通じるものであることを解説しています。
・賢い投資と楽しい投機で豊かに暮らすために(2021.10.21掲載)
そもそも使途のない資金を運用させようという金融機関の発想自体が間違っており、個人が投資信託を利用するときも、資金使途が必要であることを論じています。
・不要な生命保険はどれくらいあるのか(2019.9.26掲載)
保険業では、本来の保険機能から逸脱した商品の提供や過剰保険の課題が問題視されています。保険業における真の顧客本位の業務運営や保険領域の非金融化に関して論じています。
(文責:坂口)
次回更新は、6月26日(木)になります。
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森本紀行(もりもとのりゆき)
HCアセットマネジメント株式会社 代表取締役社長
東京大学文学部哲学科卒業。ファンドマネジャーとして三井生命(現大樹生命)の年金資産運用業務を経験したのち、1990年1月ワイアット(現ウィリス・タワーズワトソン)に入社。日本初の事業として、企業年金基金等の機関投資家向け投資コンサルティング事業を立ち上げる。年金資産運用の自由化の中で、新しい投資のアイディアを次々に導入して、業容を拡大する。2002年11月、HCアセットマネジメントを設立、全世界の投資のタレントを発掘して運用委託するという、全く新しいタイプの資産運用事業を始める。