20170928 金融の営業では、お金を語るな、夢を語れ 融資は、お金の話ではなくて、資金使途である実業の話です。住宅ローンは、お金の話ではなくて、住むことの必要性を充足するための一つの選択肢の話です。ゼロ金利のときに、預金は、お金を貯めるものではなくて、決済手段であり、金庫替りです。生命保険は、お金ではなくて、生活保障です。損害保険は、お金ではなくて、失われたものの填補です。故に、金融の営業で、お金の話をするなかれ。 金融の脱構築
20170907 銀行に本当のことを話す顧客はいない 銀行から融資を受けている中小企業の社長は、個人として債務の保証人になっているので、万が一に備えて自分の財産を隠しておく誘因をもちます。その社長のところに同じ銀行の営業が個人財産の運用の提案に行っても、本当のことを聞き出せるとは到底思えません。ある程度の資産をもつ人は銀行を複数に分けていることが多く、その顧客の預金総額がいくらか、そのうちの一つの銀行は知り得ません。さて、このようなことで、銀行は真の顧客本位を実現できるのか。 金融の脱構築
20170831 無価値な銀行において銀行員が価値を生むために 商人とは、顧客の求めに応えるものです。これは、商業の定義そのものであって、銀行業も例外ではないはずです。経済は需要優先ですから、商業の発展は、顧客が求めるものが高度化するにつれ、それに応える供給側の商人の創意工夫を誘発することで、実現されてきたのです。ならば、銀行の未来は、顧客の視点で創意工夫が生まれてくるように、組織の仕組みを改めることにかかってくるのではないか。 金融の脱構築
20170427 住宅ローンを不要にする住み方改革のすすめ アベノミクスの構造改革による成長戦略は、ついに働き方改革にまで及びましたが、おそらくは、その次は住み方改革になるのではないでしょうか。働く主体に着目されたように、住む主体を軸にして住むという機能が再構成されるとき、物質としての住宅市場の構造は抜本的に変わり、住宅ローンも従来の意味を失うはずですが、さて、そのとき金融機関はどうすべきか。 金融の脱構築
20170223 銀行は消滅、信金・信組は不滅 株式会社の銀行と信用金庫や信用組合のような協同組織金融機関とは、表面的には同じ業務を行っているようにみえて、背後の理念においては、本質的に異なるものです。なぜなら、協同組織は、設立基盤となっている構成員間の相互扶助原理に基づき、共同体としての共通価値の創造を目的にして、金融機能を提供しているからです。 金融の脱構築
20170209 銀行死す、銀行員よ、死の覚悟をもて 銀行は、ついに歴史的使命を終えつつあります。そして、もうすぐ、規模と数の縮小が始まり、いずれ遠くない将来には、消滅に向かうのです。この展望のもとで、今、銀行員はどうすべきか、どうすることで自分の未来を確かなものにすることができるのか。この未曾有の危機を転じて機会にするためには、死の覚悟をもって金融の本質を直視するほかないのではないか。 金融の脱構築
20160915 麻生太郎先生の「よほどやばい」発言の含蓄 麻生太郎副総理は、日本国民の意識として、「何となく債券、株に投資するのは危ないという思い込みがある。あれは正しい」としたうえで、「われわれの同期生で証券会社に勤めているのは、よほどやばいやつだった」と述べられたようです。先生特有の乱暴すぎるくらいに明快な発言ですが、実は、意外に、深い含蓄がありはしないでしょうか。 金融の脱構築
20160825 銀行が預金をやめるとき 銀行に限らず、預金取扱金融機関は、預金を受け入れることができるという特権の上になりたっているのですが、同時に、その特権によって、最高度に規制されてもいるわけです。さて、現在の社会経済環境において、預金という特権は、銀行機能にとって、必須のものなのか、預金なくしても、銀行機能は、よりよく実現されるのではないのか、むしろ、特権を放棄することで、経営の自由度を確保するほうが得策なのではないのか。 金融の脱構築
20160818 銀行がなくなる日に、銀行機能は甦る 銀行がなくなっても、銀行が提供している金融機能が残る限り、何ら問題はなく、そのことで金融機能の利用者にとっての利便性が向上するのならば、銀行のない社会のほうが望ましいわけです。要は、銀行でなければ決して提供し得ないような機能、即ち、銀行の絶対的な存在意義はあるのか、あるのなら、その意義を再確認すべきだし、ないのならば、高度規制業としての銀行を廃止し、各金融機能の提供を完全に自由化するべきではないのか。 金融の脱構築
20160602 モノを借りても買っても、費用は同じ 住宅は借りるのが得か、買うのが得か、これは、誰しもが考える難問です。しかし、金融理論的には、住むという機能において、経済効果、あるいは経済価値が同じものは、等価でなければならない以上、借りても、買っても、費用は同じでなければならないはずです。しかし、現実には、等費用になりません。では、理論と現実の差を、どう考えるべきか。 金融の脱構築