20180712 奢り奢られることの仮想通貨的考察 物を贈り、また贈られることは、人と人との間にある関係を確認して強化するための儀礼です。贈答は、儀礼であって経済取引ではないとしても、物の交換であることに相違なく、交換である以上、そこに交換価値の同等性があるはずです。ならば、同等性を図る価値の尺度を想定できるわけで、仮想通貨というのは、まさに、その尺度のことではないのか。 仮想通貨
20180705 ツケで飲むことの仮想通貨的考察 ツケというのは代金を帳面に書き付けておいて後で請求することですが、いまどき、ツケで飲ませる店も、ツケで飲む人も少ないのでしょう。しかし、ツケは全く形を変えて復活する可能性が高いと思われます。形を変えてというのは、いわゆる仮想通貨という名のもとに一括されている諸概念の適用の一つのあり方としてという意味です。 仮想通貨
20180628 スルガ銀行が夢に日付をいれるやり方 スルガ銀行の個人金融事業の戦略は、顧客の「夢をかたちに」して、「夢に日付を」いれること、即ち、「対話を通してお客さまの思いを把握し、寄り添い、夢を叶えてさしあげたい」という理念に集約されていたようです。敢えて過去形にするのは、スマートデイズ社関連の問題を機に、見直しが不可避になるだろうからですが、さて、この理念のどこに事件を引き起こす要因があったのか。 スルガ銀行(2018)
20180621 金融の使命は金融を不要にすることだ 借金したい人はいないのです。借金するのは、借入金で実現したい目的があるからで、その目的が借金をしないでも実現できるなら、誰も借金しないはず。金融の利用目的に極限まで遡行し、金融によらずに目的を達成できる可能性を最大限まで追求し、なお残る金融固有の領域、それを明らかにしない限り、金融の未来を語ることはできません。さて、金融に未来はあるのか。 金融の脱構築
20180614 スルガ銀行の何がいけないのか 住宅ローンを欲しい人はいません。欲しいのは住宅です。金融は、それ自体としての意味や目的をもたず、金融の外にある本来の目的を実現するための手段にすぎないのですから、金融機能を使わなくても目的を実現できるのであれば、金融は不要です。しかし、事態は容易に転倒します。金融は自己の存立のために目的を創造しようとし、その逸脱の結果、危機に陥る、それが金融の歴史です。そして、その不幸な歴史に、スルガ銀行が新たなページを書き加えたようです。 スルガ銀行(2018)
20180607 ラーメン産業に投資する方法 ラーメン産業は日本の食文化に確固たる地位を築き上げていて、長い行列のできる店も珍しくなく、大いに繁栄しているようにみえます。しかし、その産業の発展を支えてきたのは苛烈極まりない競争環境であって、新規開業から1年足らずで閉鎖に追い込まれる店も数多あるわけです。さて、この事態を投資の視点でみるならば、個社の高い破綻確率を上手に制御し、産業としての収益性と成長性に如何にして参画するかという課題に整理されますが、さて、その答えは。 金融の脱構築
20180531 こんな投資信託があれば飛ぶように売れる 金融庁が強力に推進している金融構造改革のもと、個人貯蓄が預金から投資信託に移動していくと期待されているのですが、その流れを作るためには、分散投資のための品揃えとして、公社債等の確定利回りの資産を対象とした投資信託が不可欠です。しかし、現在の金利情勢のもとで、その分野で預金に勝てるものを作ることは極めて困難です。さて、どうすれば、魅力ある社債等を創出して、この困難を克服できるのか。それができれば、飛ぶように売れる投資信託になること請け合いなのですが。 投資信託 金利生活
20180524 かくも高コストの預金を集めていたら銀行は潰れる 預金は銀行の資金調達手段ですが、金利は限りなくゼロに近いとしても、巨大装置と化した銀行という仕組みのなかで預金を集めることには多大な経費がかかっていますし、なによりも元本を保証することにかかわる費用は極めて大きいと考えられますから、実は、非常に高価な資金調達になっているのです。にもかかわらず、調達資金を運用できる機会は多くなく、その金利も低いとしたら、経営がなりたつはずはなく、さても、銀行の破綻はあり得るのか。 金融の脱構築
20180517 株式がまともな投資対象になるために 株式は企業の資金調達手段として広く認知されているもので、それに投資することについては、玄人の機関投資家も素人の個人も全く疑問を感じていないようですが、実のところ、株式の基本特性を仔細に検討するまでもなく、株式ほど投資家の権利保護に欠けるものもないわけです。さて、そのような株式が真の投資対象として価値をもち得るための条件とは何なのか。 株式投資
20180510 無用になった銀行が消えた後に残る必要なもの 銀行の果たしてきた社会的機能は銀行でなくとも供給できる、むしろ銀行でないほうが効率的に提供され得る、そういう可能性が急速に現実味を帯びてきて、銀行の存在意義が揺らぐなか、改めて銀行とは何か、銀行でなくてはならない必然性はどこにあるのかが問われなくてはなりません。問うて、その答えがみつからないなら、銀行は消滅するしかありませんが、さて、銀行は存続し得るのか。 金融の脱構築