20161110 金融庁のいう「日本型金融排除」とは何か 金融庁は、10月21日に、2016事務年度の金融行政方針を公表しましたが、そのなかで、「日本型金融排除」という耳慣れない言葉を用いています。その意味は、お金を借りることのできるはずの企業のうち、実際には、銀行等から排除されている、つまり、借りることができないものもあるのではないかという金融庁の仮説ですが、さて、この仮説、実態把握を通じて検証されるのか。 金融行政方針
20161027 投資のリスクは生活のリスク 投資教育などというと、すぐに、どれだけ投資のリスクをとれるのか、という話から始まるのですが、個人の資産形成においては、何のために資産を形成するのか、という目的から始めなくてはなりません。目的は、生活の重要な一部を構成しているはずなので、投資のリスクは、生活のリスクとして認識されない限り、正しく理解されないのです。 金利生活
20161020 投資をおいしく学ぶ 金融庁は、個人による投資を、資産形成という呼び方に改めて、その普及促進のために、投資教育を重要な政策課題にしています。しかし、国民の視点では、教育という名のもとの押し付けはおかしなことで、自主的に投資を学習することの支援策でなければならないはずですが、学習を促すには、経済合理的な目的だけでなく、楽しさも必要です。さて、国民が楽しく投資を学ぶ環境の整備とは、どういうことか。 金利生活
20161013 金融における葡萄畑の宝探し イソップの寓話集にある葡萄畑の宝探しの話は、金融に置き換えて、その寓意を考えると、徹底した顧客志向こそ、金融機関の利益である、ということになるでしょう。これを、金融のなかでも、資産運用関連の業務についていえば、フィデューシャリー・デューティーの徹底こそ、金融機関の利益である、ということです。顧客とは、自分の葡萄畑のことであり、そこに宝物が隠れているのです。 フィデューシャリー・デューティー
20161006 投資を難しくみせておいてから、説明と称して騙すこと 投資信託等の販売を巡っては、販売会社の説明義務が問題となるのですが、顧客の立場からは、理解に達したという実質要件が充足していない場合でも、販売会社の立場からは、責任が果たされたという形式要件が充足してさえすればいいわけですから、販売会社にとっては、顧客の真の理解を得る必要など少しもないばかりか、むしろ、無理解につけ込むほうが得とすら、いえるかもしれません。 金利生活
20160929 投資教育が欺瞞的営業にならないために かねてより、投資教育の重要性がいわれています。これは、日本の巨額な個人金融資産が圧倒的に預貯金と保険に偏っている現実を是正して、投資信託等を通じた資本市場での運用へ振り向けるには、投資の基礎知識の普及が不可欠だとの論拠に基づくのですが、国民の経済行動を教育によって直すという政策は、いかにも、お上の視点です。投資が真に必要なものなら、各自が勝手に学ぶはずですから、政府は、投資の必要性が国民に認識されていない構造問題にこそ、目を向けるべきです。 金利生活
20160915 麻生太郎先生の「よほどやばい」発言の含蓄 麻生太郎副総理は、日本国民の意識として、「何となく債券、株に投資するのは危ないという思い込みがある。あれは正しい」としたうえで、「われわれの同期生で証券会社に勤めているのは、よほどやばいやつだった」と述べられたようです。先生特有の乱暴すぎるくらいに明快な発言ですが、実は、意外に、深い含蓄がありはしないでしょうか。 金融の脱構築
20160908 銀行の食文化革命 銀行経営は、これから、大きく変貌します。社会的責務の大きさ故に、経営を律する厳格な枠組みが必要であることには、何ら変わりはありませんが、それは、他律的な規制や、従来型のリスク管理を超えて、自律的なリスクアペタイトフレームワークと呼ばれるものに置き換わるでしょう。アペタイトとは食欲ですが、さて、銀行の新たな食文化の醸成とは、どのようなことか。 リスクアペタイトフレームワーク
20160901 銀行よ、カネに豊かな色をつけてみよ カネに色がないならば、カネを商材にしている銀行において、どうして差別化が可能なのか。そもそも、無色透明の一般的なカネを、無色透明なカネとして扱うことで、どうして付加価値を生み得るのか。銀行は、カネに色をつけることで、本源的な付加価値を生み、色の違いという差別化を競うものではないのか。ならば、銀行よ、カネに個性豊かな色をつけて、世の中を明るくしてみよ。 成長戦略
20160825 銀行が預金をやめるとき 銀行に限らず、預金取扱金融機関は、預金を受け入れることができるという特権の上になりたっているのですが、同時に、その特権によって、最高度に規制されてもいるわけです。さて、現在の社会経済環境において、預金という特権は、銀行機能にとって、必須のものなのか、預金なくしても、銀行機能は、よりよく実現されるのではないのか、むしろ、特権を放棄することで、経営の自由度を確保するほうが得策なのではないのか。 金融の脱構築