20151008 金融機関に創意工夫を促す強制力 金融庁は、新しい「金融行政方針」において、自らの機能を、金融機関の創意工夫を引き出し、支援することとしています。画期的な転換です。しかし、これでは、金融機関に自発的な創意工夫の意思がなければ、金融庁の行政課題は実現し得ないことになってしまいます。さて、どうすれば、金融庁として、金融機関に、自発的改革を促すことができるのか。 金融行政方針
20151001 「国益への貢献」を掲げた金融庁の英断 金融庁は、9月18日に、2015事務年度の「金融行政方針」を公表しました。2014事務年度のものは、「金融モニタリング基本方針」という名前だったのですが、とうとう、モニタリングという用語すら、表題から消えました。替えて、「国益への貢献」を掲げた行政方針としたことは、単に体裁の問題ではなくて、金融庁という組織のあり方自体を変える本質的転換を意味しています。さて、何が変わったのか。 金融行政方針
20150917 フィデューシャリー・デューティーとベストをつくす義務 昨年の9月に金融庁が初めて導入したフィデューシャリー・デューティー、金融界では、今、静かに、その意味するところが浸透し始めています。フィデューシャリー・デューティーは、原点において、専らに顧客のために、ということにすぎないのですが、そのことを徹底して考え抜き、かつ実践していけば、そこから、次々と、重要な帰結が派生してきます。フィデューシャリー・デューティーの射程は長いのです。 フィデューシャリー・デューティー
20150910 厚生年金基金の「フィデューシャリー宣言」 厚生年金基金といえば、かつては、企業年金の代表的な器でしたが、現在では、事実上、同一業界の多数の事業主で作る総合型を残すのみで、それすら、間もなく、大多数は、解散か、確定給付企業年金基金への改組によって、消滅してしまうのです。総合型の確定給付企業年金基金になっても、必ずしも存立基盤が堅牢でないなか、「フィデューシャリー宣言」を公表することは、組織強化の切り札にならないでしょうか。 フィデューシャリー・デューティー
20150903 企業年金が「フィデューシャリー宣言」をする意義 企業年金の資産の運用を受託している投資運用業者等は、専らに企業年金の利益のために職務を遂行する義務を負いますが、この義務を、金融庁は、フィデューシャリー・デューティーと、片仮名で呼んでいます。ならば、企業年金は、専らに制度の加入員と受給者の利益のために職務を遂行する義務を負うのですから、企業年金にも、フィデューシャリー・デューティーが課せられるのではないでしょうか。 フィデューシャリー・デューティー
20150827 「フィデューシャリー宣言」の意義について HCアセットマネジメント株式会社は、8月21日に、自社のウェブサイトにおいて、「フィデューシャリー宣言」を公表しました。投資運用業者として、専らに顧客の利益のために働くこと、即ち、合理的な報酬のもとで、他の一切の自己の利益、また第三者の利益を求めないことを、顧客に対して、明示的な宣言として、確約したのです。さて、この宣言に至る背景には、何があるのか。 フィデューシャリー・デューティー
20150820 ゆうちょ銀行の新運用会社は手数料稼ぎが目的なのか ゆうちょ銀行は、7月22日に、三井住友信託銀行と野村ホールディングスとの間で、投資信託を開発・運用するために、新しい資産運用会社を設立するとの構想を発表しました。これは、親会社の日本郵政との同時上場を控え、固有の企業価値を創出するための施策だと思われますが、さて、ゆうちょ銀行の思惑通りに、ことは運ぶのか。 日本郵政(2014)
20150813 投資信託における系列重視は悪か 投資信託の販売会社には、系列の投資運用業者の投資信託を優先的に取り扱う傾向があります。いわゆる系列重視といわれることですが、この裏には、金融機関の経営において、顧客の利益よりも自己の利益を優先している可能性があることから、金融庁も問題視しています。さて、系列重視は、本当に悪いことなのか。 投資信託 金利生活
20150806 投資信託の販売会社のフィデューシャリー・デューティー 投資信託の顧客の意識の問題として、誰にお金を預けたと感じているでしょうか。法律上は、お金は投資信託を受託している信託業者に預けられているのですが、実際には、販売会社に預けていると感じている投資家が多いのではないでしょうか。ならば、販売会社には、投資家の信認を得たものとしての重責があるのではないでしょうか。 フィデューシャリー・デューティー
20150730 投資信託よ、金集めから投資へと、死して甦れ 他人の資産を預かり、守り、殖やす、これが、投資運用業の原点です。他人から資産を預けられるほどに社会的な信頼を得ているという誇り、他人の資産管理を一任で行うことの重責、この二つの自覚にこそ、投資運用業の本質はあるのです。しかし、日本の投資運用業の不幸な歴史は、資産を営業力で集めることから始めてしまったのです。さあ、今こそ、浅ましい金集めから、重責を担う誇り高き投資の事業へと、死して蘇らねば。 投資信託 金利生活