20140626 公共ファイナンスの視座 何が公共の事業であるべきなのか、そのこと自体が難しい問題ですが、現実に、公的部門から供給されるサービスに対して、利用料が徴収されているものが少なからずあるわけです。これらの事業は、利用料というキャッシュフローを生んでいるのですから、理論的には、民営化できるし、完全には民営化しなくとも、民間部門と連携した独自の金融や経営の仕組みを考え得るはずです。 成長戦略
20140619 運用委託の構造とアセットアロケーション 誰がアセットアロケーション、即ち、資産配分を行うのか。年金基金等の資産運用のように、重い社会的責任のもとで、高度な専門性を求められる場合には、外部の専門家の運用会社が使われるわけですが、さて、資産配分というような大きな意思決定は、年金基金等の投資家と運用会社との間で、どのように分担されるべきでしょうか。 投資戦略論
20140612 アセットを分類する基軸とアセットアロケーション アセットアロケーション、即ち、資産配分は、投資の基本ではありますが、資産の配分より前に資産の選択があり、選択の前には資産の分類があるはずです。実際のところ、資産の分類など、単なる便宜にすぎないのですから、どうとでもなる、ならば、選択も配分も、どうとでもなる。どうとでもなる投資の基本というものは、さて、いかなる意味において基本たり得るや。 投資戦略論
20140605 アセットアロケーションという誤謬について アセットアロケーションは、投資の基本であるようにいわれますが、もっと基本的なことは、アロケーション(配分)よりも、セレクション(選択)ではないでしょうか。まずは、いくつかの投資対象資産を選択し、その選択された範囲のなかで、やっと、配分比率が問題になる。一体、資産選択の理論は、どこへいってしまったのでしょうか。 投資戦略論
20140529 リスク分散という誤謬について リスク分散ということは、投資の基本であるようにいわれますが、さて、どれだけの人が、その意味を正しく理解しているのでしょうか。一つの籠に卵を盛るな、という喩にしても、ある種の損益相殺という漠然たる理解にしても、分散によって管理できるリスクと管理できないリスクの峻別を弁えない限り、リスク分散という言葉で本来意図されてきた投資の本質を把握することはできないでしょう。 投資戦略論
20140522 冒険者はリスクを冒さない 冒険者とは、読んで字のごとく、危険を冒す人のことでしょうから、冒険者がリスクを冒さないとは、さて、どういうことか。それは、冒険者の自覚では、リスクは完全に制御可能なものとして認識されており、リスクに対する姿勢において、リスクを冒すという表現が不適切であるような境地に、冒険者は立っているということです。 投資戦略論
20140515 リスクをとるという誤謬について 投資の世界では、リスクをとることが当然の前提であるかのように考えられています。しかしながら、もしも、リスクが単に損失の可能性を意味するだけならば、誰もリスクはとらないでしょう。リスクをとるとリターンが得られるというのは誤謬ではないのか。誤謬でないのならば、リスクをとるということは、損失の可能性を受け入れること以上の何かでなければならないはずです。 投資戦略論
20140508 GPIFのリスクを正しく論じるために 投資の世界では、リスクをとれとか、とるなとか、リスクが高いとか、リスク管理だとか、リスク分散だとか、投資自体がリスクだとか、はてはリスクオンだのオフだのと、とにかく、リスクという言葉を用いた言説が氾濫しています。しかし、これは、決して活発な建設的な議論を意味するものではなく、リスクという用語の曖昧な使用に起因する混乱と誤解と誤謬と無意味の氾濫にすぎないようです。 年金基金
20140424 公的年金資産運用改革論の誤謬 公的年金資産の運用改革については、緊急の政策課題としてとり上げられたことから、やれ、リスクをもっととれ、日本株を買い増せ、インフラ投資に振り向けろ、はたまた逆に、資金の性格からしてリスクをとるのはいかがなものかなど、勝手な議論が横行していますが、さて、資産運用の本来あるべき論理としては、どう考えるべきなのか。 年金基金
20140417 大胆予測、2020ニッポン国際金融センター 政府は、2020年の東京オリンピック開催までに、日本をアジア最大の国際金融センターにするという構想を掲げています。日本の金融の実情を知り抜いている専門家ほど、それは現実味のない妄論だ、と一蹴してしまうのでしょうが、実は、いけるのではないか、常識を超えたことが起こり得るのではないか、そのような大胆な予測、というよりも熱い期待を展開してみましょう。 成長戦略