20160630 リスクに、おいしい、まずい、はあるのか 今、日本の金融規制のあり方は、大きく変わろうとしています。それを受けて、金融機関の経営管理のあり方も、抜本的な転換を求められています。そのなかで、注目されているのがリスクアペタイトフレームワークです。さても、リスクに対する食欲とは、どういうことか。リスクは、金融機関の食物なのか。リスクに、おいしい、まずい、はあるのか。 リスクアペタイトフレームワーク
20160623 金融におけるディリスキングとリスクシェアリング 金融も含めて、事業の本質は、リスクをとることです。ただし、通常の事業においては、とられたリスクの顕在化は想定されておらず、経営の能力において、リスクの顕在化を阻止できる前提になっているはずです。ならば、金融におけるリスク管理も、通常、考えられているように、リスクの顕在化を前提として、それに防御壁をもって静的に備えるものではなく、本当は、リスクの顕在化を動的に阻止する攻撃的な能力の開発なのではないのか。 リスクアペタイトフレームワーク
20160616 金融における「動的な監督」とリスクアペタイトフレームワーク 不確実な未来へ賭けること、つまり、リスクをとることは、全ての事業の本質ですが、特に、金融においては、その社会的機能の重要性と、故に厳格に規制されている現実を反映して、最高度に発達したリスク管理態勢がとられてきました。では、技術的に高度なリスク管理は、リスクをとる能力の高度化をもたらしたのか、逆ではないのか、ならば、金融における真のリスク管理とは何か。 リスクアペタイトフレームワーク
20160609 カネは、モノに換えない限り、太らない マイナス金利というのは、事実として現に起きていることですが、資本主義経済体制を支える原理の根幹にかかわる問題であって、早急に解消することが必要です。そのためには、わざわざ費用をかけてカネをもつくらいなら、カネをモノに換えたほうが得だ、即ち、カネを使い切るほうが得だというマインドが生じなければならない、それがデフレマインドからの脱却の意味ですが、さて、どうすれば、そうなるのか。 成長戦略
20160602 モノを借りても買っても、費用は同じ 住宅は借りるのが得か、買うのが得か、これは、誰しもが考える難問です。しかし、金融理論的には、住むという機能において、経済効果、あるいは経済価値が同じものは、等価でなければならない以上、借りても、買っても、費用は同じでなければならないはずです。しかし、現実には、等費用になりません。では、理論と現実の差を、どう考えるべきか。 金融の脱構築
20160526 金融機関にとっての規制遵守のインセンティブ 金融庁の森長官は、4月13日の「静的な規制から動的な監督へ」と題する講演で、「規制当局が自分自身で銀行を経営できるわけではありません。規制は銀行に適切なインセンティブをもたらすのでなければうまく機能しません」と述べています。ここで、森長官は何を意味したのか。金融機関が規制を遵守するインセンティブとは何か。 金融行政方針
20160519 金融庁は「規制の虜」になるのか 金融庁の森長官は、4月13日の「静的な規制から動的な監督へ」と題する画期的な講演で、日本の新しい金融行政手法である「銀行等との対話」の意義を熱く語るなかで、日本の外の従来型の規制手法を支持する人による「当局が銀行と対話をすればregulatory captureのリスクが高まる」という主張に言及されています。さて、金融庁は、金融機関との対話によって、「規制の虜」になってしまうのか。 金融行政方針
20160512 学資ローンの条件を学業の成績で決めるフィンテック 今、学生の奨学金のあり方が問題となっているようですが、公的な制度としての奨学金を離れて、自由な民間の金融として、学資ローンを考えてみるとき、フィンテックに関連して論じられる金融の本質がみえてくるようです。つまり、債務者が積極的に自己に関する情報を提供することの利益誘因の問題です。 フィンテック
20160428 森金融庁長官の熱き思いに金融界も熱く応えよ 金融庁は、森長官のもと、金融行政の革命的転換を、強力に、かつ急速に、推進しています。そのなかで、金融規制がはたすべき機能も大きく変わろうとしているのですが、逆に、被規制側の金融界は、この変革に十分に対応できていないようにみえます。さあ、金融界よ、森長官の燃えたぎる情熱に、もっと熱き思いで応えようではないか。 金融行政方針
20160421 弁護士はフィデューシャリーとして喜んで成仏すべきか 今、金融界では、フィデューシャリーとしての義務が非常に注目されています。実は、フィデューシャリーの代表は弁護士なのですが、そこでは、専らに社会のために働いて、かろうじて生活が維持でき、最後に成仏できれば、それでいいではないかという成仏理論を唱える人もいます。さて、フィデューシャリーとして生きることは、金融機関としても、弁護士としても、経済的に報われないのか。 フィデューシャリー・デューティー