またまた、プライベートエクイティなるものについて

森本紀行
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プライベートエクイティなるものについての三回目ですね。前回は、プライベートエクイティの機能と、投資銀行の機能とは、どこが違うのか、というところで終わったのでした。早速ですが、どこが違うのでしょうか。

 投資銀行の機能というのは、企業(事業)金融の機能としてみるときは、プライベートエクイティ投資に限らず、投資本来の金融機能と同じなのではないでしょうか。前回の話の流れとしては、子会社の譲渡という合併買収の領域における機能の同一性ということだったのですが、より広く本質的な同一性があるのだと思います。
 投資銀行という機能は、その名前にも痕跡をとどめるように、投資の本来の金融機能を分解したことから、独立して生まれたのではないでしょうか。もっとも、投資銀行側の人は、投資銀行の本来の業務を分解したことから、投資の業務が独立したのだというでしょうけれども。
 企業(事業)金融の視点に立てば、投資銀行業務とは、企業(事業)の資金調達を支援することですが、それは、二段階に分かれるわけです。
 第一が、その企業(事業)の構造に照らして、最適な資本構成キャピタルストラクチャ)を設計することです。例えば、収益化までに時間のかかりそうな案件では、株式のような時間制約のないものを厚くするなどの判断です。第二が、実際に、株式や社債の新規発行などの具体的な資金調達手段を組成して、そこに投資家の資金を引き込むことです。
 いうまでもないですが、資金調達は投資家の資金と出会って初めて意味を成すのだから、後段の投資家への働きかけが決定的に重要になります。
 公開(パブリック)の資本市場を通じる場合は、広範囲の不特定多数の投資家から資金調達するのですから、投資銀行は一つの大きな資金調達装置のようなものになります。特に、今日のグローバル化した資本市場では、その装置は全世界を網羅するものにならなければならないのです。ここに、これまで一貫して進んできた投資銀行の巨大化の背景があるのです。
 一方、その資本市場の参加者は、最終的な投資家なのでしょうか。もちろん、個人や自己勘定資金を運用する機関投資家も多いでしょう。しかし、中核となる投資家は、最終投資家ではなくて、その代理人として運用を委託された運用会社です。
 ここに、一つの機能の二つの業務への分化が起きているのです。資金調達側に立つ投資銀行の業界と、資金運用側に立つ運用会社の業界への分化です。これが、現在の資産運用産業の基本構造です。
 ところが、プライベートな市場を通じて資金を調達する場合はどうでしょうか。投資銀行の巨大な装置を必要とするでしょうか。また、調達と運用の分化自体が必要なのでしょうか。例えば、今まさに話題にしているプライベートエクイティを通じた資金調達を考えてみてください。


なるほど。プライベートエクイティの場合は、投資家の資金が先に集積されている。だから、資金を集める必要がなく、投資銀行を介する必要もない、そういうことですね。

 そうです。しかも、重要なことは、資本構成を設計するという投資銀行の機能もまた、プライベートエクイティの運用者のほうへ移転していることです。ここに、企業(事業)金融の本来の機能への一体化があるのです。


プライベートエクイティを通じて、金融機能を統合することの利点は、投資銀行を使って公開市場を経由する場合と比較して、どこにあるのでしょうか。

 時間と費用でしょう。前回の子会社の譲渡による資金調達の例は、この時間の利点を中心にして展開したのでした。しかし、もう一つの費用の面も大切です。もっとも、一概に、プライベートエクイティの仕組みのほうが安い、ということをいっているのではありません。社会的な責任という意味での費用構造の合理化をいっているのです。


利益相反の可能性のことでしょうか。

 資金調達として子会社を売却するとき、投資銀行に売却先の紹介を依頼すれば、その対価を払うことは当然です。一方、プライベートエクイティの運用者との直接交渉で売却すれば、その費用を節約できる、そういう意味での費用の合理化をいっているのではないのです。プライベートエクイティに安く売れば、むしろ、実質費用は高いかもしれないからです。
 本当の資金調達というのは、調達側と投資側の双方の利益を公正に均衡させることです。そうすることで、反復継続的な安定した資金調達と、反復継続的な安定した投資機会との、両方を実現するというのが、金融の社会的機能であるはずです。
 双方の利益を均衡させるためには、報酬体系も、その方向にそって合理化されなければなりません。時間の要素について考えてみましょう。投資銀行の報酬は、取引完了時に全額一括で払われます。売り手との関係では、それでいいかもしれませんが、買い手との関係では、それでいいのでしょうか。
 一方、プライベートエクイティの場合、運用者は、運用期間全体を通じて長期的に、運用報酬の形で回収するしかないのです。一種の瑕疵担保のような、仕事の結果についての責任を、長期に負担することになるのです。その仕組みが、投資銀行とは違うのです。


プライベートな関係性の中での取引というのは、もともとが、双方利益の考量の上にしか成り立たないのですから、当然といえば、当然ですね。そもそも、融資も含め、プライベートな関係性の中で行われる資金調達(運用)は、投資銀行を仲介させないのが原則なのでしょうね。

 少し話が逸れるのですが、この論点は、「金融の社会的機能としての投資銀行業務」などで、むしろ、プライベートな融資の出し手である銀行等の社会的責任として、論じてきたものです。ですから、プライベートエクイティについても、エクイティという面よりも、プライベートという側面に、より大きな比重をかけて論じているのです。
 念のためですが、投資銀行の悪口をいっているのではないのです。逆に、機能としての投資銀行の重要性をいっているのです。プライベートな関係性の中では、その機能は銀行やプライベートエクイティの運用者が果たすのだ、そういうことをいっているのです。一方で、パブリック(公開)な市場では、投資銀行機能は、まさに投資銀行が果たすのです。ここでは、投資銀行は社会的に不可欠な存在です。
 パブリックな市場の中で投資銀行の介在を前提にして行う投資と、プライベートな直接的な関係性の中で行われる投資との間には、本質的な差のあること、および、プライベートな関係性の中での投資がより本源的な投資なのではなかろうかということ、この二点が私の一貫した主張なのです。


銀行のような、長期間にわたり多様な取引が継起する中で構築されるプライベートな関係性はわかりますが、プライベートエクイティの場合は、「特殊な状況において、私的な関係性の中で提供される資金供与の柔軟な形態」として定義される以上、一時的な関係性にならざるを得ないのではないでしょうか。

 そうですよね。特殊な状況において、というところが、プライベートエクイティの鍵なのだから、まさに、プライベートエクイティ固有のプライベート性を論じないといけないのです。実際、常態においては、多くの場合、銀行との間のプライベートな関係性の中で、金融機能は完了しているのですから。
 どのような企業(事業)でも、一時的不振とか、新規事業投資とか、事業再編とか、様々に常態から逸れた状況に陥ります。そのようなときにこそ、プライベートエクイティの機能が必要になる。必要な機能だからこそ、投資収益が合理的に見込める。大雑把にいえば、このような仕組みにプライベートエクイティ投資の要点があるわけです。
 私が着目しているのは、実は、非常態は特殊なものではなくて、どの企業(事業)にも周期的に起きることであり、産業全体としてみれば、常にどこかが非常態なのだろうということです。ですから、銀行等の常態における金融機能と、プライベートエクイティの非常態における金融機能との間の連続的な連携、あるいは相互補完が、産業の安定的成長のためには不可欠なのだ、と考えているのです。
 プライベートエクイティが直接的に企業とプライベートな関係性をもつのは、非常態という限られた期間だけなのでしょう。しかし、その裏には、常態における潜在的な関係性を構築しておかなければならないのです。ここに、いわゆるディールフロー(deal flow)といわれる潜在案件にかかわる情報能力の問題が出てくるのです。
 しかし、また、時間切れのようですから、続きは次回に譲りましょう。
森本紀行

森本紀行(もりもとのりゆき)

HCアセットマネジメント株式会社 代表取締役社長

東京大学文学部哲学科卒業。ファンドマネジャーとして三井生命(現大樹生命)の年金資産運用業務を経験したのち、1990年1月ワイアット(現ウィリス・タワーズワトソン)に入社。日本初の事業として、企業年金基金等の機関投資家向け投資コンサルティング事業を立ち上げる。年金資産運用の自由化の中で、新しい投資のアイディアを次々に導入して、業容を拡大する。2002年11月、HCアセットマネジメントを設立、全世界の投資のタレントを発掘して運用委託するという、全く新しいタイプの資産運用事業を始める。