フィデューシャリー・デューティーとベストをつくす義務

フィデューシャリー・デューティーとベストをつくす義務

森本紀行
  • このエントリーをはてなブックマークに追加
  • mixiチェック
昨年の9月に金融庁が初めて導入したフィデューシャリー・デューティー、金融界では、今、静かに、その意味するところが浸透し始めています。フィデューシャリー・デューティーは、原点において、専らに顧客のために、ということにすぎないのですが、そのことを徹底して考え抜き、かつ実践していけば、そこから、次々と、重要な帰結が派生してきます。フィデューシャリー・デューティーの射程は長いのです。
 
 世のなかには、他人の信認を得て、行う業務があります。例えば、医師は、患者からの信認のもとで、弁護士は、依頼人からの信認のもとで、業務を遂行します。英米法では、医師や弁護士のように、他人の信認を得て職務を遂行する人のことを、フィデューシャリーと呼びます。フィデューシャリー・デューティーとは、他人の信認を得たものとして、フィデューシャリーが負っている義務です。
 故に、フィデューシャリー・デューティーが発生するためには、信認関係が成立していなければならないのですが、どのような場合に信認関係が成立するかは、難しい問題です。例えば、駅の待合室で、隣に座っている人に、自分の荷物を見てくれているように頼んで、お手洗いにいくというときに、頼まれた人と頼んだ人の間に信認関係は成立するのか、というような事例は、いくらでもあることですから、簡単には決めかねるわけです。
 
法律上、保護される信認関係は、客観的に定まっているのではないでしょうか。
 
 英国や米国、また歴史的に英米法を継受している国では、それぞれの国において、信認関係の成立と、そこでのフィデューシャリー・デューティーの内容は、法規範として、客観的に確立しています。
 特に、資産の管理を他人に委任することについては、委任するものと委任を受けたものの間に、信認関係が成立し、委任を受けたものは、重いフィデューシャリー・デューティーを負うことが、客観的な規範として成立しています。実は、ここにこそ、英米法の国における事業としての資産運用の根底があるのです。
 しかしながら、日本では、そもそも、歴史的経緯として、フランスやドイツの法律を継受しており、フィデューシャリー・デューティーに直接に該当する法規範は存在しません。現段階においては、日本のフィデューシャリー・デューティーは、金融庁の行政基本方針のなかで、主として資産運用関連の業務を念頭において、改革の方向性を示す理念として掲げられているものです。
 
金融庁が、他でもなく、フィデューシャリー・デューティーという用語を採用したからには、少なくとも資産運用に関連しては、英米法で確立している法規範を改革の指針にするということでしょうか。
 
 金融庁にして、フィデューシャリー・デューティーをとりあげたからといって、資産運用関連の諸法律を英米法に準拠したものに抜本的に改正することなど、毛頭考えてはいないでしょう。そもそも、全体の法体系が異なるなかで、一部分にだけ、系統の異なる体系を接受することは、実務的に不可能です。
 また、法律改正等によって規制を導入しても、それは、新しいルールを作るだけのことです。日本の金融機関はルール遵守には厳格ですから、新ルールは、たちどころに金融機関の表面的な行動を変えるでしょう。しかし、だからといって、金融機関のプリンシプル(行動原理)までも、変え得るとは限らないのです。
 ルールは、所詮は、最低限守られるべきことにすぎません。金融庁の用語でいえば、ミニマム・スタンダードです。ミニマム・スタンダードが守られているからといって、ベストがつくされるのでない限りは、資産運用関連業務の質が改善することにはならないのです。
 真の改革は、ミニマム・スタンダードを引き上げることではなくて、ベストを伸ばすことです。金融庁の用語でいえば、ベスト・プラクティスの追求こそが重要なのです。それは、ルールによってではなく、各金融機関のプリンシプルの確立によって、また、金融業界全体として、各自の固有のプリンシプルのもとで、創意工夫と切磋琢磨がなされることによって、実現されるものです。
 フィデューシャリー・デューティーは、ルール等の外部規範なのではなくて、金融機関自身のプリンシプルとして、ベスト・プラクティスを追求するための内部規範なのです。ですから、それは、規制によって強制されるものではなくて、金融機関が、金融庁との建設的な対話のなかで、資産運用関連業務の健全なる発展を真剣に考えたときに、自分自身に課す義務として、自然に到達する行動様式であるわけです。
 
しかし、フィデューシャリー・デューティーは、その原点において、専らに顧客のために、という義務であるはずですが、それが、なぜ、ベストをつくす義務になるのでしょうか。
 
 専らに顧客のために、ということから直ちに導けること、即ち、フィデューシャリー・デューティーの直接的な内容を確認しておきましょう。
 まず、自明なこととして導けるのは、職務の遂行に関連して、自己や第三者の利益を求めてはならないということ、つまりは、利益相反取引の禁止です。さて、ここで、大きな問題は、利益相反という日本語の意味です。相反を字義通りに解すれば、顧客の損失のもとで自己や第三者の利益を図ることになります。
 実際に、日本法でフィデューシャリー・デューティーに該当するのは忠実義務ですが、日本の忠実義務のもとでの利益相反取引の定義は、一般に、顧客の積極的な損失のもとで自己や第三者の利益を図ることと、狭く解されているようです。ここで、積極的な損失という意味は、よりよい方法で職務が遂行されていたならば得られたであろう逸失利益を含まないという意味です。
 しかし、フィデューシャリー・デューティーにおいては、利益相反の意味は、日本の忠実義務よりも、はるかに広く解される余地があります。例えば、医師も弁護士も、また資産運用会社も、当然のことながらが、有償の業務として職務を遂行しているのですから、そこには、自己の利益のために、という側面があることを問題にし得るわけです。
 これについては、職務の遂行には、諸経費がかかるわかるわけですから、それを顧客に請求することは、専らに顧客のために、という原則には反しないと解されています。しかし、ここからは、合理的報酬という条件が導かれてきます。
 つまり、例えば、資産運用会社であれば、職務の遂行のためには、その原価として、人件費等の経費を要しますし、株式会社であれば、原価に正当な資本利潤も加えなくてはならないでしょうが、逆にいって、資産運用会社が顧客に請求できる報酬は、提供される職務の内容との関連において、正当性を合理的に説明できるものでなければならず、それを超える報酬をとることは、フィデューシャリー・デューティーに反する可能性があるということです。
 
そうしますと、フィデューシャリーとして、ベストをつくしていたならば得られたであろう逸失利益もまた、顧客の損失に含め得るということですね。
 
 例えば、日本では、「金融商品取引法」上、投資運用業者に忠実義務が課されているのですが、上記のような忠実義務の日本的理解のもとでは、自己または第三者の利益を図るために、意図的に顧客に損失を与えるのでない限り、忠実義務違反に問われることはありません。
 ですから、仮に、証券会社の子会社の投資運用業者があって、発注先として優先的に親会社を使っていたとしても、それが明らかに親会社の利益を図るものであるにもかかわらず、結果として、平均的な執行能力によって処理される限り、忠実義務違反にはなりません。
 これに対して、フィデューシャリー・デューティーは、いわば、より高度な忠実義務として、投資運用業者に、顧客の利益のために最良執行を目指す義務を課すものです。この義務のもとでは、発注先として優先的に親会社を使うことはできず、親会社は、あくまでも、多数の発注候補先の一つとして、純粋に執行能力の見地から、選ばれるものにすぎなくなるわけです。
 同様に、「確定給付企業年金法」上は、企業年金の資産管理にも、忠実義務が課されているので、企業にとっての親密な金融機関やその関係会社を運用機関として採用することは、明らかに企業等の利益を図るものであるにもかかわらず、その運用機関が平均的な運用をしている限り、忠実義務違反になりません。
 これに対して、フィデューシャリー・デューティーのもとでは、企業年金の資産運用にとって、最善の運用機関を採用する義務が生じますので、企業にとっての親密な運用機関を優先的に採用することは、できなくなるのです。
 金融庁が、「資産運用の高度化」という政策課題との関連で、フィデューシャリー・デューティーを導入したのは、まさに、ここに理由があるのです。フィデューシャリー・デューティーのもとで、関係当事者がベストをつくす義務を負うことで、はじめて、切磋琢磨による技術の高度化が生じるからです。
 企業年金が最良の投資運用業者を採用する義務を負うからこそ、投資運用業者間の運用能力についての健全なる競争が促され、また、投資運用業者が最良執行の視点で証券会社を選定するからこそ、証券会社の執行能力についての健全なる競争が促され、そうした競争的環境のなかで、切磋琢磨による技術の発達が促されるのです。
 
専門的能力だけによる競争のなかで、専門的能力の向上が図られること、これぞ、まさに、プロフェッショナリズムの貫徹ですね。
 
 プロフェッショナリズムとは、親会社の力や人的関係などに依存しないで、職業的能力だけによって、事業を遂行することです。ここでは、能力に対する顧客からの信頼だけが基盤なのですが、そのような信頼は、能力の高さだけでなく、専らに顧客のためだけに働くというフィデューシャリーとしての立場にも、基づいています。
 つまり、専らに顧客のためにというフィデューシャリー・デューティーと、ベストをつくすというプロフェッショナリズムとは、表裏一体なのです。それは、いうまでもなく、完全な経営の独立をも意味します。フィデューシャリー・デューティーとは、独立したプロフェッショナルの生き方そのものなのです。
 投資運用業者にとって、経営のプリンシプルの確立とは、フィデューシャリー・デューティーのもとでプロフェッショナリズムを貫徹することに帰着します。そのプリンシプルを顧客に対する確約として公表することで、自らに課した義務に履行強制力を付与すること、それが「フィデューシャリー宣言」の意味です。
 
以上

 
 大型連休ですので、一回お休みをいただいて、次回更新は10月1日(木)にさせていただきます。
≪ アーカイブから今回に関連した論考 ≫
2015/09/10掲載「「厚生年金基金の「フィデューシャリー宣言」
2015/09/03掲載「「企業年金が「フィデューシャリー宣言」をする意義
2015/08/27掲載「「フィデューシャリー宣言」の意義について
2015/06/04掲載「「コーポレートガバナンス・コード」から抜け落ちている企業年金
2015/04/02掲載「企業年金と運用機関の不適切な関係
2015/03/19掲載「企業年金と母体企業の不適切な関係
2014/10/23掲載「金融庁のいうフィデューシャリー・デューティーとは何か

≪ アーカイブから今週のお奨めは「アートな投資」  ≫
2013/05/21掲載「アートに投資する投資のアート
森本紀行

森本紀行(もりもとのりゆき)

HCアセットマネジメント株式会社 代表取締役社長

東京大学文学部哲学科卒業。ファンドマネジャーとして三井生命(現大樹生命)の年金資産運用業務を経験したのち、1990年1月ワイアット(現ウィリス・タワーズワトソン)に入社。日本初の事業として、企業年金基金等の機関投資家向け投資コンサルティング事業を立ち上げる。年金資産運用の自由化の中で、新しい投資のアイディアを次々に導入して、業容を拡大する。2002年11月、HCアセットマネジメントを設立、全世界の投資のタレントを発掘して運用委託するという、全く新しいタイプの資産運用事業を始める。