金融における不毛なソンタクを豊饒な対話に転換するために

金融における不毛なソンタクを豊饒な対話に転換するために

森本紀行
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金融界は重篤なソンタク病に侵されています。顧客は金融機関の意向をソンタクし、金融機関は金融庁の意向をソンタクします。そこで、病魔克服のために、金融庁は、金融機関との対話を目指し、金融機関には顧客との対話を求めています。では、ソンタクを廃して、対話を可能にする条件とは何か。
 
 ソンタクとは、他人の心を推察することです。他人の心を推察して行動し、発言することは、社会生活のなかでは当たり前のことであり、必要なことですが、ソンタクといわれるときには、必ずしも望ましいことではないとの響きをもつのはなぜでしょうか。それは、地位の格差を前提とし、下が上の意向を配慮して阿るような行動をとるときに、ソンタクという用語が使われるからではないでしょうか。
 監督官庁として、金融規制を司るものとして、金融庁が金融機関に接する限り、そこに優越的な力が働くことは、金融庁が意図しようが、しまいが、不可避です。故に、金融機関は、金融庁の意向をソンタクせざるを得ないのです。
 銀行や信用金庫等の金融機関は、融資業務を行う限り、債務者である顧客に対する関係では、優越的な力が働いてしまいます。金融機関が意図的に優越的な力を行使することは、優越的地位の濫用として厳に戒められるところですが、意図せざるものとして自然に優越的な力が働いてしまうことは、金融機関には防げません。故に、顧客は金融機関をソンタクするのです。
 そして、ソンタクが働く限り、金融庁の真の意向は決して金融機関に伝わらず、金融機関の真の意向は決して顧客に伝わりません。故に、逆の方向性においても、金融機関の真の意向は金融庁に伝わらず、顧客の真の意向は金融機関に伝わらないのです。
 この事態に対して、金融庁は、真の顧客の意向に沿わない金融機関の営業姿勢を公然と批判し、金融機関は、金融庁の無理解を裏で批判するのです。不毛であり、不幸なことだといわざるを得ません。
 
金融規制においては、ソンタクの余地のない明確な数値基準を定めることで、問題を回避しようとしてきたのではないでしょうか。
 
 その通りですが、この点に関して、金融庁の森信親長官は、2016年4月13日に、「静的な規制から動的な監督へ」と題して、歴史を画する有名な講演を行い、独自の見解を表明して、金融界に衝撃を与えました。
 森長官のいう「静的な規制」とは、現在の世界標準のもので、規制当局が「何重もの分厚い防護壁」に喩えられる客観的な数量指標基準を定め、金融機関に画一的に無条件で遵守させるものです。ここには、規制が厳格に遵守されている限り、金融機関が何をしようが、「何重もの分厚い防護壁」に守られた金融システムの安定性は揺るがないという規制当局の自負があり、故に規制当局は金融機関と口をきく必要もないという思想があります。ソンタクなど、全くあり得ない仕組みなのです。
 これに対して、森長官は、「動的な監督」を対比させることで、批判を加えたのです。つまり、規制当局と金融機関が防護壁を隔てて一切の接触を断てば、規制当局は金融の生きた動態を把握できず、有効な金融行政を適時に行うことはできないので、規制当局は金融機関と積極的に対話をしなければならないとしたのです。
 
ところが、対話は対等なもの同士の間でしか成立せず、優越的な地位にある金融庁は、金融機関と対話できるはずもなく、金融機関のソンタク病を悪化させただけだというわけですか。
 
 裏で森長官の悪口をいう人の論点は、結局は、その一点に収斂するのです。「静的な規制」は、規制遵守を条件として、金融機関の行動の自由を保障するものだが、森長官のいう「動的な監督」は対話という名のもとで金融機関の経営に介入することであり、金融機関は金融庁の意向をソンタクしながら経営することを強いられる、これが森長官批判の要点です。
 しかしながら、おそらくは、森長官は、この批判の正当性を承知のうえで、敢えて対話路線への歴史的転換を断行したのです。つまり、現在の日本が抱える深刻な課題を直視するとき、金融庁は、もはや規制当局としてのみ受動的に機能することはできず、国民の経済厚生の増大という金融行政の真の目的を実現するためには、プロアクティブに、即ち能動的に政策の調整と立案を行わなければならないとの決意のもとで、批判を恐れずに前に進んだのでしょう。
 
金融庁の組織構造を改めない限り、金融機関の立場からは、どの機能のもとで金融庁がものをいっているのか判断できないと思いますが。
 
 その通りですから、いずれ遠からず、金融庁の組織が抜本的に再編されて、金融庁の人の名刺を見て、金融機関が判断できるようにするのでしょう。
 金融機関としては、規制に関することなら、公表されている客観基準に従って受動的に対応すればよく、政策に関することなら、経営への介入など心配することなく、自分の利害に直接に関係することとして、対等な対話において、いうべきことを能動的に自由にいえばいいでしょう。どちらにしても、ソンタクの余地はなくなります。
 
では、森長官が導入した諸施策は、規制当局の立場のものではなくて、政策当局の立場のものなのでしょうか。
 
 森長官は、一貫して、ミニマムスタンダードの遵守からベストプラクティスの追求へ、といってきたはずです。ミニマムスタンダードの遵守とは、「静的な規制」のことで、規制当局としての機能を意味し、ベストプラクティスの追求とは、金融サービスに利用者の視点、即ち、金融庁にとっては国民の視点、金融機関にとっては顧客の視点で最善をつくすことですから、「動的な監督」に対応していて、政策当局としての機能の発現にほかならないわけです。
 森長官の理念を表現してきた様々な用語、例えば、事業性評価に基づく融資、顧客との共通価値の創造、顧客本位の業務運営(フィデューシャリー・デューティー)などは、悉くベストプラクティスの追求に属することで、実は、ミニマムスタンダードの遵守にかかわることについては、言及されること自体が稀なのです。
 
そうしますと、金融機関は、政策を規制だと誤解してきたことになるのでしょうか。
 
 誤解だとしても、誤解するのが当然であるような誤解です。金融機関にとって、金融庁は権限を有する規制当局なのであり、それ以外ではあり得ないのです。やはり、金融庁の組織を改正しない限り、金融機関の意識を変えることは不可能だと思われます。
 
金融庁にとって、政策を推進するためには、金融庁の規制当局としての優越的な地位に基づく強制力の発揮が必要ではないでしょうか。
 
 規制は強制力を伴うものですが、政策は、規制化しない限り、提言にとどまり、提言は、金融機関の自発的賛同を得ないかぎり、効果を発揮しません。政策実現について、金融庁にできることは、直接的に金融機関に働きかけ、間接的に国民に語りかけて、金融機関の行動を促すほかないのですが、事実として金融庁がやってきたことは、まさに、そこにつきていて、新たなる規制は導入されていないはずです。
 森長官が多用する金融機関の淘汰という言葉も、顧客本位を徹底できない金融機関は淘汰されるという予言であって、金融庁が規制によって淘汰するという意味ではありません。実際、金融庁が顧客本位といった段階で、淘汰の原動力は顧客、即ち国民になったわけです。金融庁の機能は、単に、国民の合理的選択行動を促すことによって、顧客本位ではない金融機関から顧客流出が生じ、淘汰されるような環境を整備するにとどまるわけです。
 
そうした環境整備は事実上の強制ではないでしょうか。
 
 森長官に対する影の悪口としては、そういうことになりますが、国民の合理的選択行動を促すことは、金融機関への強制ではなく、その結果、どの金融機関が淘汰されるかも、金融庁が誘導できるものではないので、やはり金融機関への強制ではありません。金融庁は、顧客本位な金融機関は成長し、そうでない金融機関は淘汰されると予測しているわけですが、金融機関に強制して、その予測を受け入れさせることなど決して行っていないはずです。
 
しかし、金融機関の多くが顧客本位という金融庁の施策を受け入れたのは、そこに事実上の強制力を感じたからではないでしょうか。
 
 森長官批判の構図では、政策当局としての施策である顧客本位の裏には、規制当局としての真意が潜んでいるのであって、金融機関としては、それをソンタクさせられて、事実上の強制のもとで、顧客本位を受け入れざるを得なかったのだ、となるわけですが、本当に、そう思っている金融機関があるなら、直ちに淘汰されてしまえばいいでしょう。
 事実は全く異なるはずです。金融庁の施策の背景には、金融界の誰もが認めざるを得ない閉塞状況があるのです。所詮は、金融機関の相当数は、金融庁の予言を待つまでもなく、自然淘汰されざるを得ない状況のなかで、金融庁の施策に合理性を認め、打開への糸口を見出したからこそ、金融機関の多くが顧客本位を受け入れたのです。
 金融庁は、指導力のあるコンサルタントとして、機能したにすぎないのです。実際、金融庁は、一貫して、金融機関に対し、厳しい環境下で、持続可能性のあるビジネスモデルを構築する必要性をいってきたはずです。これが規制でしょうか、強制でしょうか。これはコンサルティングではないでしょうか。
 
コンサルタントとしての金融庁の位置付けが対話の前提になるわけですね。
 
 コンサルタントは先生ではありませんから、金融機関は、遠慮なく自分の悩みをぶつけたらいいでしょう。悩みを解決するのがコンサルタントの仕事です。金融機関が金融庁をコンサルタントとして位置付ければ、悩みを隠すことは損になり、受け入れるかどうかはともかくも、いっていることに一応は素直に耳を傾けるほうが得になります。
 もちろん、従来の金融庁職員の行動様式や知見では、到底、コンサルタントは務まりません。ですから、森長官は、金融庁職員に対して、抜本的な意識改革を求めたのです。金融機関として、その成否を冷ややかに論評することは許されません。なぜなら、金融庁の改革を応援することは、金融機関自身の利益だからです。
 
金融機関は、森長官批判の構図を、顧客と自分自身の関係に適用して、反省すべきですね。
 
 金融庁にソンタクを強いられていると悪口をいっている金融機関経営者は、どれだけ自分が顧客にソンタクを強いているかわかっているのでしょうか。金融庁は金融機関の経営を理解していないと悪口をいう経営者は、融資先企業の経営を理解しているのでしょうか、預金者の家計を把握しているのでしょうか。
 金融機関は、融資、住宅ローン、投資信託等の商品を介してしか顧客を知りません。そこには商品の営業しかなく、顧客は不在なのです、「静的な規制」において、規制しかなく金融機関が不在であるように。顧客本位は、直接に顧客に向き合い、対話することです、「動的な監督」において、金融庁が金融機関と対話するように。
 顧客本位への対応において、少なからざる金融機関が顧客との対話、商品営業からコンサルティングへという方向を明瞭に示しています。これを実践できる金融機関は淘汰されずに済むでしょう。
 
以上

 
 次回更新は、9月28日(木)になります。
≪ アーカイブから今回に関連した論考 ≫
2017/07/27掲載「銀行にみるソンタク文化の病理
2016/06/16掲載「金融における「動的な監督」とリスクアペタイトフレームワーク
2016/05/19掲載「金融庁は「規制の虜」になるのか
森本紀行

森本紀行(もりもとのりゆき)

HCアセットマネジメント株式会社 代表取締役社長

東京大学文学部哲学科卒業。ファンドマネジャーとして三井生命(現大樹生命)の年金資産運用業務を経験したのち、1990年1月ワイアット(現ウィリス・タワーズワトソン)に入社。日本初の事業として、企業年金基金等の機関投資家向け投資コンサルティング事業を立ち上げる。年金資産運用の自由化の中で、新しい投資のアイディアを次々に導入して、業容を拡大する。2002年11月、HCアセットマネジメントを設立、全世界の投資のタレントを発掘して運用委託するという、全く新しいタイプの資産運用事業を始める。