個人の生活においては、必ず資金が必要になりますが、必要額が必要なときに手元にあるとは限りませんから、そこに金融が発生するのです。つまり、金融は資金の過不足を時間軸上で調整する機能であって、不足を補うのが融資であり、余剰の滞留する場所が預金です。そして、余剰を預金に滞留させることの延長として、金融庁のいう資産形成、即ち投資信託等で適切に運用し、その増殖を図る機能があるわけです。
全く同じように、企業活動においても、資金の不足を補うものとして融資や投資という金融機能があって、個人の預金は銀行等を通じて企業への融資となり、個人の資産形成は投資信託等を通じて企業の発行する社債や株式を取得すること、即ち投資になっています。つまり、個人生活における資金余剰が企業活動の資金不足に充当されるところに金融の本質があるのです。
資金の好循環ですね。
企業は、資金を活用して付加価値を生み、資金の提供者である個人に資金の利用料、即ち融資や社債の利息や株式の配当を支払います。そして、企業の創造する付加価値が増大すれば、配当が増えると期待され、その期待は株式の価格を押し上げます。こうした利息、配当金、株価の上昇差益は、個人の所得を増加させて消費を刺激し、更に企業活動を活性化させて、より大きな付加価値の創造につながります。これが資金の好循環であり、経済成長の金融的側面です。
さて、個人の余剰資金が預金に滞留し、それが融資となって企業活動に投じられる資金循環の経路は、銀行等が介在することにより、個人の受け取る預金の利息は企業の支払う融資の金利よりも低くなりますから、能率が悪いわけです。そこで、より好い循環のために、金融庁は、個人の余剰資金が投資信託等を通じて直接に企業活動に投じられるように資金の流れを付け替えようと努力していて、故に資産形成を最重点施策に掲げているのです。
個人の余剰資金は必ず預金に滞留し、故に企業は融資を通じて資金需要を満たすことができるのですから、この原点における預金の必然性こそが金融の基本ではないでしょうか。
個人の余剰資金は必ず預金に滞留する、その必然性があるために、預金には元本保証があるのです。そして、預金は、今となっては遠い昔、十分に高い金利が付されていたとき、安全性と収益性を兼ね備えたものとして余剰資金を吸収するのに最適な手段であり、預金に滞留した巨額な資金が産業界への融資となって経済成長に貢献することで、金融は効率的に機能し、好循環を実現していたのです。
この昔の好循環において決定的に重要なのは、金融が必然性に基づく自然な秩序を形成していたこと、即ち、個人の余剰資金は自然に預金に滞留し、銀行等の預金取扱金融機関は、産業界の旺盛な資金需要に対して自然に融資を行っていたということです。つまり、そこには、金融機能に対する需要を積極的に創造する必要性はなかったということであって、個人生活や企業活動における金融機能の需要に対して、金融界は受動的立場を貫徹できていたのです。
その遠い昔でも、生命保険では積極的な需要創造が必要だったのではないでしょうか。
生命保険は、死亡保障機能よりも貯蓄性の強いものから始まり、経済成長とともに国民所得が増大して生活水準が上昇するにつれて、貯蓄から保障へと重心を移すことで発展してきました。
そして、貯蓄としての保険は、預金と同じように元本保証があり、預金よりも高い利率と配当がついていたので、預金の延長として自然に普及したのです。こうして生命保険に滞留した貯蓄は、生命保険会社によって、産業界への融資として、また企業の発行する株式や社債の取得による投資として、好循環の重要な一翼を担っていたわけです。
ただし、死亡保障に対する需要は必ずしも自然に生まれるものではなかったのですから、顧客に対する積極的な働きかけが必要でした。しかし、その働きかけは、保険の販売、あるいは需要の創造という言葉では表現できないものであって、むしろ保険の必要性についての啓蒙、あるいは顧客が必要性に気付くような触発活動だったのです。
つまり、敢えて自然という言葉にこだわれば、本来の保険営業とは、顧客が保険の必要性を理解すれば、その合理的判断として、自然に保険に加入するだろうという原理に立脚したものだったのです。もちろん、当時においても、この自然性を超えた無理な営業が一部にはあったでしょうが、総じてみれば、今日みられるような保険の必要性のないところにも強引に保険を販売するような逸脱現象はなかったといっていいでしょう。
さすがに、株式や社債の取引では、事情は全く違っていたのではないでしょうか。
個人の余剰資金が株式や社債の取得に向かうことは、決して自然な資金の流れではなく、故に、企業の株式や社債の発行による資金調達は融資の補完的位置づけにすぎないものであって、しかも、その主要な引受先は生命保険会社や銀行等でしたから、そこに敢えて個人の余剰資金を取り込もうとすれば、工夫が必要だったのです。
そのとき、最も自然なのはギャンブルの需要を取り込むことだったに違いありません。つまり、株式や社債は公開市場で発行され、そこで売買が繰り返されるので価格変動を伴いますから、投機、即ち、その価格変動をついて売買を繰り返すことにより、立派なギャンブルにできるわけです。
そして、ギャンブルは不自然なものではなくて、ある種の人間にとっては、逆に本性に適うものとして自然なのです。その自然性については、預金が自然な資金の滞留場所であったのと同じです。同じという意味は、どちらも自然に存在する需要なのであって、積極的な勧誘によって創造された需要ではなかったということです。
金融が自然な需要を自然に満たすことで機能していた時代は、とうの昔に終わり、その後、金融界は混迷に陥ったようですが。
金融の深刻な矛盾は、経済の規模が大きくなるにつれて資金の蓄積は拡大しますが、同時に、限界成長率は低下していくわけですから、資金需要は逆に減退していくことです。この段階で、金融は経済実態に対して受動的たり得なくなって、需要の積極的な創造という迷妄に転落し、様々な問題を惹起するのです。
代表的には、初期の深刻な事例として、不動産関連融資の積極的な創造が生んだ昭和のバブルがあります。そして、バブル崩壊後の一段と厳しい環境のもと、最近では、本来の保険機能から完全に逸脱した外貨建ての貯蓄保険の乱売があり、数年前には、極めて投機色の強い内容の投資信託が高齢者に大量に販売される事態がありました。
そして、何よりも問題なのは、融資需要を大幅に超過する融資能力のもとで、金融機関同士が不毛な競争をすることによって金利の引き下げ競争が生じ、貸出金利が信用リスクに理論的に対応する水準を大きく下回るところにまで低下してきたことです。もはや、融資の事業構造は崩壊しているのです。
これらの現象は、金融の特殊性というよりも、需要のないところでは、事業をしようとしても事業にならず、事業を成立させようとすれば詐欺紛いの強引な商法にならざるを得ないという自明のことを示しているだけです。
金融庁は規制しないのでしょうか。
金融庁は、これまでの経験からして、従来型の規制では規制しても実効性はないという結論に達しているとみられます。実際、規制は金融サービスの外形を制限するのみで、内容は民間の自治の領域として規制し得ないのですから、どのように外形規制を強化しても、その枠のなかで実質的に規制の主旨に反したことは簡単になし得るのですし、事実として、過去の経緯は、そうした規制と規制の潜脱の不毛な繰り返しでした。不毛というより、生真面目な規制に対する狡猾な潜脱の反撃は、滑稽かつ醜悪だったといっていいでしょう。
そこで、金融機関に自制を求めたわけですか。
金融庁は、顧客本位の徹底という名のもとで、顧客の真の需要に対して受動的に行動することを金融機関に求めたのですが、この主旨を規制による強制で実現することは不可能ですから、金融機関の自制と自律として施策化したのです。しかし、このことは、金融機関に対して、需要に応じて身の丈を縮めるように求めるものですから、理屈は理解されても、組織の自己保存本能のもとでは実行され得ないのです。
ただし、この金融庁の施策が金融の本来のあり方を再発見させる契機になったことは間違いありません。典型的には、資産形成の目的の再定義です。つまり、資産形成の目的を豊かな老後生活の原資の創出に置くのならば、預金は自然な場所どころか最も不自然な場所であって、投資信託のなかに自然な場所が見いだされなければならないのですから、この点の啓蒙こそ、本来の投資信託の営業でなければならないということです。これは、昔の保険営業のあり方と全く同じです。
そうしますと、従来型ではない規制を工夫することで、金融の原点への回帰を促すしかないですね。
金融庁のいう顧客本位を徹底することは、顧客の真の需要に忠実であることであり、顧客が現に必要とする金融機能を確実に提供し、顧客が未だ必要性を認識できていない金融機能を顧客の利益の立場で提案することに帰着します。しかし、これを規制で強制することは不可能です。
そこで、金融庁にできることは、金融機関が顧客本位を徹底せざるを得ない環境を規制によって作ることです。そのためには、各金融機関に自分の顧客に対してのみ全ての活動を集中させればよく、そうさせる方法は極めて簡単であって、全ての勧誘行為、即ち新規顧客を獲得するための積極的な活動を禁止すればいいだけです。
積極的な勧誘を禁止することは、本来の営業を禁止することではなく、むしろ本来の営業を強化することです。即ち、真の営業とは、既存顧客について隠された需要を発掘することであり、既存顧客における評判を高めることで、新規顧客から選択される金融機関になることなのです。実は、金融庁は、後者については、「見える化」という名前で既に施策に取り上げていますが、それに実効性を与える規制が必要だということです。
以上
次回更新は、11月28日(木)になります。
2019/09/26掲載「不要な生命保険はどれくらいあるのか」
2019/05/23掲載「銀行員がいなくなる日のために」
2018/06/21掲載「金融の使命は金融を不要にすることだ」
森本紀行(もりもとのりゆき)
HCアセットマネジメント株式会社 代表取締役社長
東京大学文学部哲学科卒業。ファンドマネジャーとして三井生命(現大樹生命)の年金資産運用業務を経験したのち、1990年1月ワイアット(現ウィリス・タワーズワトソン)に入社。日本初の事業として、企業年金基金等の機関投資家向け投資コンサルティング事業を立ち上げる。年金資産運用の自由化の中で、新しい投資のアイディアを次々に導入して、業容を拡大する。2002年11月、HCアセットマネジメントを設立、全世界の投資のタレントを発掘して運用委託するという、全く新しいタイプの資産運用事業を始める。