電気事業者に対して地域独占をはじめとした最高度の保護政策がとられてきたのは、産業の発展と生活の向上にとって電気が必需であるにもかかわらず、その供給能力が十分ではなかったからです。同様に極めて高い参入障壁によって銀行が厚く保護されてきたのは、産業の発展と生活の向上にとって資金が必需であるにもかかわらず、その供給能力が十分ではなかったからです。
こうした保護政策は、避け得ない弊害として、電気事業者と銀行の経営体質を著しく自己本位にしたのですが、需要が供給能力を上回っていた限り、結果的には顧客本位が実現していたのですし、自己本位からする横柄横着傲慢不遜も、社会的必需を満たすことの健全な自負心として発現することで、許容され得る範囲に収まっていたわけです。
供給能力が需要を上回ったとき、全てが狂ったわけですか。
時間の経過とともに、供給能力は増大して需要に均衡します。そのとき、規制改革によって保護政策は撤廃されなくてはならないのですが、実際には、それは不可能です。いわゆる規制の虜という現象で、保護によって被規制側の力が強大化して、規制側の政府の力を凌駕してしまうからです。
その結果、不要となった保護政策は継続し、ついに供給能力は需要を大きく超過するに至りますが、それでも簡単には変革は起きません。それが社会の仕組みです。社会変革は、自然に起きるものではなく、何かの事象をきっかけとして不連続な断絶が生じ、古きものが破壊され、新しきものが創造されることで実現されるのです。
電気事業の場合は、福島の原子力事故が断絶をもたらしたわけですか。
2011年、業界の盟主であった東京電力は、規制の保護に安住した驕りの極、福島の事故を防止し得ずに、自壊しました。規制改革は、これを機に一気に進捗して現在に至り、更に加速していくでしょう。今や、電気は普通の商品として競争的環境のなかで取引されており、地域独占を失った旧電気事業者は、顧客本位の経営体質に転換できない限り、いずれは淘汰される運命にあるわけです。
銀行を変える契機は、どこからくるでしょうか。
昭和の最後において、銀行は、既に過剰な融資力をもち、規制の保護に安住した統制の不在によって、その過剰の捌け口を不動産投機に求めました。その結果、1998年、日本債券信用銀行と日本長期信用銀行が破綻し、極めて深刻な金融危機が生じたのです。しかし、驚嘆すべきことに、このときにすら抜本的な銀行改革は起きませんでした。それほどに日本の銀行の基盤は強固になっていたのです。
銀行は、その後の様々な規制改革にもかかわらず、少しも揺るぐことなく、今日に至り、今や、自らの強さが自らを破局に追い込むという深刻な矛盾に陥っています。なぜなら、現在の金利環境下において、巨額な過剰預金をもっていることが破綻寸前にまで銀行経営を圧迫しているわけですが、預金が流出しないことは銀行の強さそのものだからです。
この極めて特異な危機の構造に対して、金融庁のとり得る施策は、銀行の解体、即ち銀行の外へ金融機能を移転させる制度的な工夫以外にはあり得ず、実際、テクノロジーによって預金から決済機能を分離すること、個人の金融資産の保有形態を預金から投資信託等へ移転させること、この二つが鍵になっているのです。しかし、これも自然に進展するものではなく、危機を転じて変革とするためには、遠からず、何らかの強制力を伴う大胆な施策が必須となるでしょう。
銀行が解体すると、銀行員もなくなりますか。
銀行は株式会社なのに会社ではなくて銀行と呼ばれ、その長は社長ではなくて頭取と呼ばれる、これぞ稀少な資金を独占的に支配してきた銀行の特権性の象徴ですが、今や、資金は、稀少どころか、世に氾濫しているわけですから、銀行は、ありふれた商材を扱うものとして、単なる会社と呼ばれ、長は社長と呼ばれ、所属員は社員と呼ばれるべきです。
頭取と呼ばれ、行員と呼ばれることは、資金の稀少性があったときには、社会的使命感を支える自負心を養ったでしょうが、とうの昔に、特権意識を養い、銀行本位な組織風土を醸成するものに堕落しています。つまらないことのようですが、頭取が社長になり、銀行員が会社員になることは、改革の起点として、それなりの効果のあることでしょう。
銀行と銀行員は変われますか。
自己本位にできた銀行は解体されて、機能別に再編される、そして、人の行動様式が顧客本位に変わる、顧客本位な人の行動様式は組織風土を顧客本位に変える、これが銀行改革の道筋です。
具体的には、銀行は、持株会社のもとで、一つの事業部門に縮小され、その業務の多くは、機能ごとに再編された兄弟会社に移転されるべきで、金融庁の政策課題は、持株会社の経営態勢整備、持株会社の業務範囲の拡大的見直し、傘下子会社の機能別整理、子会社間の利益相反管理の徹底に絞られるはずなのです。
こうした組織の解体と再編は、現在の銀行の経営風土刷新には絶対不可欠であって、持株会社の経営体制から銀行出身者を排除するくらいの破壊力がなければ、顧客本位の視点での金融の機能別再編は実現できません。強権発動の是非を含め、ここが金融行政の要諦です。故に、銀行と銀行員は根本的に変わることを強制され、変われない銀行と銀行員は淘汰されざるを得ないのです。
顧客本位な行動様式とは、具体的に何を意味するでしょうか。
嘘は泥棒の始まりといいますが、小さな約束事を守ることから遵法精神が芽生え、遵法精神が高度な規範意識となったとき、規則遵守が徹底されるように、顧客本位な小さな行動の徹底から顧客本位の理念が生まれ、顧客本位の理念が規範意識にまで高度化したとき、顧客本位な行動様式が確立してきます。逆にいえば、金融庁や経営者が顧客本位の徹底を叫んだところで、人は顧客本位に行動しないのです。
例えば、資金不足の過去においては、銀行が貸すという銀行本位の発想でも結果的には借りる顧客の利益になったのですが、資金過剰の現在においては、顧客が借りるという顧客本位の発想に転換しなければならないわけで、ならば最も簡単な思考様式転換の訓練として、顧客を主語にした語り方の徹底が有効でしょう。
銀行が融資先企業の経営支援をすることも、銀行が主語だからいけないのでしょうか。
まさに、顧客を主語にすることで、そうした反省の契機を得ることが重要なのです。経営改革は融資先の企業自身が行うことであって、その結果として、資金効率が上昇すれば融資の一部は必要でなくなり、成長戦略が軌道に乗って必要資金が増加すれば融資への需要が発生するので、銀行は、そうした需要の増減に対して適切に対応するだけでいいのです。
つまり、顧客が上手に借りることについて、顧客本位に銀行として様々に助言でき、支援できるにしても、より多く貸すために、あるいは融資の回収可能性を維持するために何をなそうとも、それは銀行本位の立場からするものにすぎないわけです。
顧客が借りるという立場を徹底するとき、融資の営業はあり得るでしょうか。
借りる顧客の立場を徹底すれば、資金使途のないところに融資需要はないという自明の事実のもとで、融資営業は、銀行本位の極みとして、本来は、あり得ないことが明らかになります。しかも、銀行が貸すという立場で融資営業をすれば、過剰融資として顧客の利益を損ない、銀行自身も信用損失を被るか、他行からの借り換えになって競争による金利低下を招くか、いずれにしても銀行の利益にはならないのです。
また、顧客に真の資金需要が発生したときは、顧客が銀行に借りに行くのであって、銀行が顧客に貸しに行くのではありません。積極的な営業をしない限り、自分の銀行が選ばれないというのならば、銀行に本源的な競争力はないことになります。借りる顧客の立場を徹底すれば必ず顧客に選ばれる、そのような信念のもとに行動できなければ、これからの銀行員は勤まりません。
お金の話ではなく、資金使途の話をすることが重要ではありませんか。
融資にしろ、投資信託等の資産形成にしろ、資金自体には何の価値もなく、価値は資金を使って顧客が創造するものです。故に、お金の話しかできない銀行員は、何の価値もなく、確実に淘汰されます。逆に、顧客が創造する価値を語り、顧客と価値を共有できている限り、資金使途が具体化したときには必ず顧客に選ばれる銀行員になれるのです。
顧客が銀行を選ぶとき、顧客が語るのであって、銀行が質問する必要はないですね。
銀行からの質問に真実をもって答える人はいない、この厳粛な事実を悟ること、これが銀行員からの脱皮の第一歩です。そして、患者が医師に真実を語るのは、医師を信頼して自身の病気を治したいと強く願うからであるように、顧客が銀行に真実を語るのは、顧客が銀行を信頼して使途の実現を熱望するからだと理解するとき、淘汰されない銀行員になれるのです。
以上
次回更新は、7月9日(木)になります。
2019/10/03掲載「銀行の地域独占で貸出金利は上昇するのか」
2019/07/25掲載「銀行を捨ててこそ捨てられない銀行になれる」
2019/05/23掲載「銀行員がいなくなる日のために」
森本紀行(もりもとのりゆき)
HCアセットマネジメント株式会社 代表取締役社長
東京大学文学部哲学科卒業。ファンドマネジャーとして三井生命(現大樹生命)の年金資産運用業務を経験したのち、1990年1月ワイアット(現ウィリス・タワーズワトソン)に入社。日本初の事業として、企業年金基金等の機関投資家向け投資コンサルティング事業を立ち上げる。年金資産運用の自由化の中で、新しい投資のアイディアを次々に導入して、業容を拡大する。2002年11月、HCアセットマネジメントを設立、全世界の投資のタレントを発掘して運用委託するという、全く新しいタイプの資産運用事業を始める。