グローバルは、球を意味するグローブの形容詞形で、球とは、いうまでもなく、地球です。さて、地球の表面に中心はありませんが、地球の表面を平面の地図に表せば、必ず中心が生まれますから、日本で売られている世界地図では、日本が中心となり、英国で売られている世界地図では、英国が中心になるわけです。日本が極東で、シリアが中東になるのは、英国の地図の上でのことであって、日本の地図では、アメリカ東海岸が極東で、英国は極西になるのです。
グローバルとインターナショナルの違いですか。
インターナショナルは、字義としては、国家と国家の関係ですが、実際には、一つの国家を中心にして、その国家と他の国家との関係を意味しているわけです。それに対して、グローバルは、字義通り、国家を超えた地球という次元にあるものです。
故に、理屈上、真のグローバルは、地球が一つの国家に統合されたときに成立します。そして、地球が一つの国家になれば、国家という概念自体が根本的に変質するはずです。なぜなら、現状、国家は、他の国家との関係において、即ち、インターナショナルな地平において、成立しているからです。
世界は国民国家の成立によって生まれたのですね。
近代市民社会の成立は、国民国家の成立によって画されます。以来、今日に至るまで、同じ国家に属する人同士の関係、即ち国内的な関係と、異なる国家に属する人同士の関係、即ちインターナショナルな関係とは、本質的に異なるものとなりました。人類の歴史は、暴力による支配の歴史ですが、国民国家の成立は、少なくとも国内における理性の支配を実現し、暴力による支配を否定します。しかし、かえって、戦争という国家間の暴力の行使を正当化させてきたのです。
普遍理性の勝利を信じる理想主義の立場からいえば、グローバル化とは、歴史の進歩であり、人類の叡智の進展であり、理性の創造的な自己展開なのであって、最終的に、地球の上に、一つの世界市民社会を成立させ、理性の支配を実現し、暴力による支配を廃絶するはずです。いかに遠かろうとも、その日は必ずくるのです。
もはや、哲学ですね。
哲学ではなく、経済です。グローバルは、端的に人と人との関係です。日本企業がアメリカの顧客に商品を売るというのは、インターナショナルな発想です。グローバルな発想では、単に一企業が一顧客に商品を売るだけのことです。グローバル化とは、そうした発想の転換のことでなければなりません。
アメリカ国家の強大な軍事力を背景にして、アメリカ企業が多国籍展開できているのだとしたら、それはグローバルではありません。アメリカ企業は、純粋に事業の合理性のみに基づいて、多国籍企業としてではなく、ましてやアメリカ企業としてではなく、無国籍企業として、世界展開できてこそ、真のグローバルです。グローバル化とは、そうした力の支配から、理性の支配への転換でなければならないのです。
やはり、哲学ですね。
理念としては、グローバルは、社会哲学の地平にあります。しかし、そういうことは、逆に、いかに現実社会がグローバルでないかを物語ります。代表例がオリンピックです。本当は、真にグローバルなスポーツの祭典でなくてはいけないのに、実際には、競技の仕組みも、開催地の選定も、国家と国家の競争関係になっています。
オリンピック運営の背後にある哲学は、真にグローバルなものであるはずですが、現実の運営は、著しく錯綜したインターナショナルな政治的利害の対立です。むしろ、グローバル経済活動のほうが真にグローバルな協調と相互理解に支えられています。それは、おそらくは、経済活動のなかに、経済の合理性という普遍性が潜むからです。
理性は普遍的であり、没個性ですが、人は個性的ではないでしょうか。
グローバル化とは、何か一つのものに統合されることではありません。そもそも、理性以外には人間には共通するものはなく、全てが個性的なのです。グローバルは、理性による支配であると同時に、多様なる感性、心性、価値観、言語、食べ物、着るものなど全ての個性的なものの共存です。故に、グローバルと並んで、もう一つの重要概念が多様性、即ち英語のダイバーシティになるわけです。グローバルは、多様性と組み合わさって、真に意味のあるものになるのです。
多様なものは、多様なものとして、相互に尊重しあい、相互に刺激しあい、相互に吸収しあい、相互に働きかけあうことで、新しいものを創造していくわけで、その過程が人類の進歩であり、世界市民文化の創造的革新であり、経済社会の成長なのです。
その多様性のなかで、日本的なものが輝くわけですか。
中国やインドやイタリアの食文化に刺激を受けて、日本でラーメンやカレーライスやナポリタンという国民食が創造されたように、浮世絵がフランス印象派に大きな影響を与えたように、伊万里がマイセンに影響を与えたように、日本は、世界から影響を受け、世界に影響を与えて、多くのものを創造してきました。
日本にしかないもの、日本の文化的伝統のなかから生まれてきたもの、日本固有のもの、日本の歴史的体験に根差すもの、日本の個性、日本人各人の個性、要は、徹底的に日本的なものをグローバルな文化創造の場に提供することによって、日本はグローバル文化の進歩に積極的な貢献ができるのです。
しかも、日本にこだわることは、日本に閉じ籠ることではないのですから、ありとあらゆる非日本的なものを日本的なものに融合させ、そこに、化学反応、いや、爆発を起してこそ、グローバルなわけです。正統な日本料理を海外に普及していこうという発想は、少しもグローバルではありません。日本料理の技法を全世界のありとあらゆる食材に適用し、日本固有の食材を世界のありとあらゆる調理方法に適用してこそ、グローバルなのです。そういう意味で、ラーメンの世界展開はすごいのです。
正統な英語を学ぶことは、少しもグローバルではないのですか。
英語を生得の言語とし、正統な英語を話す人々は、世界共通言語としての正統な英語の普及を望むかもしれませんし、英語以外の言語を生得の言語としている人は、正統な英語を身につけたいと願うかもしれません。しかし、正統な世界共通言語は、それができるとして、英語を基礎に置いたものかもしれませんが、多様な他言語から新しい表現や単語が取り込まれて、正統な英語とはかけ離れたもの、即ち破調の英語になるべきです。
日本でグローバル化がいわれるとき、必ず英語教育の問題になりますが、正しい英語を語学として習得することは目的ではないはずで、社会的行動として英語を使って意思を伝えることが目的ですから、英語教育政策の課題は、英語を教えることではなく、英語を使う機会を作り、ジャパングリッシュ、即ち日本的破調英語を輸出することになるはずです。
世界的破調英語の創造に参画することがグローバルなのですね。
日本固有の価値は、英語に翻訳され得ない場合もあるし、敢えて英語に置き換えない場合もあるので、英語のなかに日本語が外来語として入り込むことになります。英語のワギューは和牛ですが、それは、日本にしかない特別な牛肉なのです。故に、そのまま、英語の単語になってしまったのです。
和牛は、日本の高度な品質にこだわったが故に、その故にこそ、グローバルな高級食材になったのです。しかし、他方で、牛肉が西洋の代表的な食材であったからこそ、グローバルになり得たわけで、単なる日本の固有性だけでは、グローバルな食材たり得なかったはずです。
日本のマンガ文化を日本の立場から日本の外へ紹介しても、マンガ文化のグローバル文化への創造的成長は起き得ません。日本のマンガ文化と、日本の外のありとあらゆる現代芸術の領域とが相互に響きあい、創造的に働きかけあい、何か新しいものが生まれてこそ、日本のマンガ文化がグローバルな貢献をなし得るのです。
・企業は人類の共通課題を解決できるか (2020.3.12掲載)
人類に共通する課題の解決における主体として、グローバルたり得ない政治よりも、グローバルになりつつある企業活動に対する期待が高まります。利用者の利益を適切に守り、公正な企業行動に徹することの利益が大きいことについて、企業の合理的判断がなされることが期待されていると論じています。
・なぜ現にある地方を新たに創生するのだ (2015.1.22掲載)
日本は、グローバル経済において「クール」でなければならない。それと同様に、地方は、日本経済において「クール」でなければならない。「クール」とは、その地方にしかないもの、真に固有なものを活かすこと、真に固有のものだからからこそ、地域の外で固有の価値を生むと論じています。
・運用委託の構造とアセットアロケーション (2014.6.19掲載)
グローバル化の進展により、国別の分散投資効果がなくなっており、新たなる資産分類を析出し、そこに個性的な専門の運用会社を配すること、これこそが、真の分散投資なのだと論じています。
(文責:大山)
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森本紀行(もりもとのりゆき)
HCアセットマネジメント株式会社 代表取締役社長
東京大学文学部哲学科卒業。ファンドマネジャーとして三井生命(現大樹生命)の年金資産運用業務を経験したのち、1990年1月ワイアット(現ウィリス・タワーズワトソン)に入社。日本初の事業として、企業年金基金等の機関投資家向け投資コンサルティング事業を立ち上げる。年金資産運用の自由化の中で、新しい投資のアイディアを次々に導入して、業容を拡大する。2002年11月、HCアセットマネジメントを設立、全世界の投資のタレントを発掘して運用委託するという、全く新しいタイプの資産運用事業を始める。