人には、主観的には必要性を感じていなくとも、公正な立場から客観的に評価されるときには、必要であるはずのものがあります。例えば、人は、客観的には、病気が進行していて、治療を受けるために病院に行く必要があっても、主観的には、自覚症状が全くなければ、あるいは、何らかの症状はあっても軽ければ、病院に行かないわけです。そこで、定期的な健康診断があるのですが、敢えて医療を事業の一種とみなせば、健康診断は隠された需要を開発する営業戦略といえます。
金融サービスの利用についても、医療サービスの利用と同様に、人は、客観的には必要であるはずのものについて、主観的には必要性を感じていない、あるいは、感じていても実際の行動に踏み切れない場合があります。故に、金融サービスの利用実態についても、健康診断的な機能が必要なのであって、それが金融機関の真の営業戦略なのです。
金融機関の真の営業戦略とは、顧客の最善の利益を勘案することではありませんか。
昨年の法律改正で、現在では、金融サービスを提供する全ての事業者に対して、顧客の最善の利益を勘案する義務が課されていますが、義務とはいっても、顧客の最善の利益を勘案することは、金融機関の営業戦略として、実践されます。なぜなら、金融庁は、一貫して、金融サービスの質の高度化は、規制による強制では実現せず、金融機関が顧客の利益の視点で切磋琢磨することによって、結果的に生じると考えているからです。
ところで、この最善の利益は、顧客が主観において最善と考えているものではなく、金融機関が客観的に公正な立場から最善と評価するものです。つまり、顧客の主観的意図は、知識と経験の不足、誤情報の利用、情報解釈の誤り、感情的な好悪、情動の勢いなどによって、非合理的な方向へ誘導されやすいために、金融機関には、状況に応じて、顧客に合理的な再考を促す義務があるということです。
顧客の非合理的な判断や行動には、必要な金融機能を適切に利用していないことが含まれます。典型的には、若年の勤労層において、資産形成が不十分であることです。背景としては、客観的には、豊かな老後生活のための資産形成は必須の課題ですが、主観的には、遠い将来のことについて真剣に考えるのは難しく、ましてや、継続的な長期積立投資の原資を作るために消費を抑制することには、高い心理的障壁があるわけです。
金融機関の健康診断的な営業戦略とは、その心理的障壁を除去することですか。
金融機関として、顧客の家計の健康診断を行うとき、即ち、公正な立場から、顧客の家計における金融サービスの利用状況について、客観的に適正性を評価するとき、例えば、一方では、過小な資産形成を発見すると同時に、他方では、過剰な生命保険を発見するかもしれません。こうしたときは、心理的障壁を説得によって除去するまでもなく、金融サービスの利用の合理化によって、自然に資産形成の原資を確保できるわけです。
健康診断的な家計分析は事実の検証にすぎないわけですね。
客観的に評価されるときに、顧客の判断が非合理的でも、原理的には、自己責任原則は不変不動ですから、最終的には、顧客の主観的判断が優越します。故に、法律は、顧客の最善の利益について、単に勘案しろといっていて、把握しろとも、実現しろともいっていないわけです。勘案とは、顧客の非合理的な判断について、客観的な事実を示して、再考を促すことなのであって、顧客の意思を変更させることではないのです。
金融機関は、顧客の最善の利益を勘案するなかで、顧客の家計を健康診断的に分析して、例えば、資産形成の不足を発見しますが、そのときは、ローンや保険などの金融サービス全体の利用状況を合理化することで、資産形成の原資が捻出される余地を検討して、顧客に提案することになります。この提案の先、どこまで踏み込むか、あるいは踏み込まないかは、金融機関の営業戦略の問題なのです。
では、説得的な営業もあり得るわけですか。
金融機関は、顧客の家計診断を公正で中立的な立場で行えば、資産形成、死亡保障、医療保障などの領域において、不足を発見し、発見すれば、顧客に対して、不足を解消するように、説得的な営業を行うはずです。これは当然至極のことで、そもそも、顧客の家計診断は、営業活動の糸口を発見するためのものです。
しかし、顧客の最善の利益を勘案する義務は、金融機関に対して、少なくとも三点について、注意を喚起し、反省を促すものです。第一に、顧客の家計診断は、金融機関の営業の立場ではなく、公正中立な立場でなされるべきであって、金融サービスへの潜在的需要の発見は、あくまでも公正中立な分析の結果だということです。
第二は、顧客の金融サービスの利用実態を公正に評価すれば、不足が発見されるだけでなく、過剰も発見されるということです。消費者ローンや保険の分野においては、過剰な金融サービスの利用は少なくないわけで、金融機関には、過剰である事実を示し、それを是正するように提案する義務があるのです。しかし、多くの場合、過剰の是正から、不足を是正する原資が生じるのですから、このことは少しも金融機関の不利益ではありません。
第三に、過剰な金融サービスの利用は、過剰な営業の結果ではないかという点です。おそらくは、法律改正の主旨の一端は、この点の是正にあるのです。
金融サービスの範囲を超えて、より深く顧客の家計に踏み込むことも金融機関の営業戦略になるでしょうか。
金融サービスの利用は、顧客の家計全体の一部にすぎないので、それを顧客の最善の利益の視点で合理化しても、家計全体を合理化したことにはなりません。故に、当然に、金融機関の営業戦略として、家計全体の合理化のなかから、金融サービスへの潜在的需要を開発することが考えられます。しかし、この方向を徹底すれば、逆に、金融サービスを利用しないことによる家計の合理化の可能性が生じることに留意すべきです。
例えば、居住費の支出には、住宅を購入して住宅ローンを弁済する方法と、住宅を借りて賃料を払う方法がありますが、金融機関として、家計全体の構造を公正中立に分析するとき、賃貸が合理的であるとの結論に達すれば、住宅ローンの利用を提案することはできないわけです。
自己の最善の利益の実現について、自分自身で適切に判断できる顧客にとって、金融機関が勝手に助言することは迷惑ではないでしょうか。
今後、顧客の最善の利益を勘案することとの関連において、真の利便性とは何かについて、再検討が必要となることは必定です。なぜなら、現在では、金融サービスの利用に要する手続きは、多くがウェブ上で完結するようになっていて、合理的に金融サービスを利用している顧客にとっては、利便性が著しく向上していますが、そこには重要な問題が伏在しているからです。
ここでの論点は、顧客の最善の利益を勘案するのは、規制による強制ではなく、金融機関の営業戦略の実践なのであって、再考を促すことは、顧客の真の利益に適う営業だということです。つまり、顧客自身の操作によって、手続きがウェブ上で完結してしまえば、金融機関としては、営業の機会を失う可能性があるわけです。
例えば、住宅ローンの繰上げ返済ですか。
繰上げ返済がなされるとき、明らかに、顧客の手元には、まとまった資金がありますが、仮に、住宅ローンの金利が固定で低いのならば、その資金の使途として、繰上げ返済をせずに、資産形成に投じることは合理的であり得ます。実は、顧客は、主観的には自己の行動を合理的だと確信していても、客観的には、非合理的であり得るのです。
故に、法律は、顧客の判断は必ずしも合理的ではなく、それを金融機関が適切に是正すれば、顧客の利益になるだけではなく、金融機関自身の利益になることを前提にしているわけです。こうして、顧客の最善の利益を勘案する義務は、金融機関の利益誘因のなかに、その履行強制力をもつのです。
・脆弱な顧客を健康診断で強くする金融機関の義務(2024.6.6掲載)
脆弱な顧客の保護を目的に、行政は金融機関に対し、安全な利便性の提供を求めています。
・金融機関の自己利益追求が社会をよくする(2018.3.22掲載)
金融行政は「見える化」によって、顧客本位に基づくビジネスモデルの成長を促しています。
・金融のない社会のほうが望ましい(2017.2.2掲載)
顧客本位の観点で、金融と非金融のリバンドリングを行うことで、顧客の潜在需要をキャッチできます。
(文責:城)
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森本紀行(もりもとのりゆき)
HCアセットマネジメント株式会社 代表取締役社長
東京大学文学部哲学科卒業。ファンドマネジャーとして三井生命(現大樹生命)の年金資産運用業務を経験したのち、1990年1月ワイアット(現ウィリス・タワーズワトソン)に入社。日本初の事業として、企業年金基金等の機関投資家向け投資コンサルティング事業を立ち上げる。年金資産運用の自由化の中で、新しい投資のアイディアを次々に導入して、業容を拡大する。2002年11月、HCアセットマネジメントを設立、全世界の投資のタレントを発掘して運用委託するという、全く新しいタイプの資産運用事業を始める。