銀行よ、カネに豊かな色をつけてみよ

銀行よ、カネに豊かな色をつけてみよ

森本紀行
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カネに色がないならば、カネを商材にしている銀行において、どうして差別化が可能なのか。そもそも、無色透明の一般的なカネを、無色透明なカネとして扱うことで、どうして付加価値を生み得るのか。銀行は、カネに色をつけることで、本源的な付加価値を生み、色の違いという差別化を競うものではないのか。ならば、銀行よ、カネに個性豊かな色をつけて、世の中を明るくしてみよ。
 
 日本の三つの大きな銀行の看板は、赤、青、緑と、それぞれ異なる色をしていますが、赤い銀行の扱うカネは赤く、青い銀行のカネは青く、緑の銀行のカネは緑というふうに、看板の色が各行の経営の差別化を象徴しているという事実は、どうやら、全くないようです。
 しかし、もしも、全ての銀行において、同一の審査基準で融資を行っているのだとしたら、同一の諸属性をもつ債務者の企業に対しては、同一の融資判断がなされる、即ち、ある銀行で融資可能なら、他の銀行でも融資可能であって、その条件も同一となるはずです。
 そうならば、どこに銀行の差別化があり得るのでしょうか。また、企業は、融資を受けるとして、どこを評価して、どこに差異をみいだして、銀行を選ぶのでしょうか。
 
いわゆる親密さというか、長年の付き合いというか、企業と銀行との間にある非経済的な、地縁的な、あるいは人間的な関係性ではないですか。
 
 融資とは、資金の貸借である以前に、より根源的に、債権者の銀行と債務者の企業との間の関係性に基づく情報の対称性の構築です。これは当然のことで、融資を与信と呼ぶように、債務者の利息支払い能力と元金弁済能力に対する信頼なくしては、銀行として融資できるはずもなく、そのような信頼は、情報の対称性なくしては、構築し得ないからです。
 この融資の本質については、銀行界の常識として、少なくとも、誰しもの頭のなかでは理解されていることでしょうし、規制当局の金融庁においても、こうした関係性の深化を通じた銀行の融資力の強化を、重点施策として、掲げ続けていることから、建前としては、常に、誰しもの意識の前面において、とらえられているはずのことです。
 しかしながら、逆にいえば、金融庁が関係性の深化による融資力強化を重点施策に掲げるということは、金融庁の現状認識として、銀行界の現実においては、理論と実践との間の大きな格差を問題視せざるを得ないということです。つまり、確かに、銀行と企業との間には、ある種の関係性があり、それが融資の基盤になっているとしても、その関係性の質については、疑問の余地が大きいということです。
 金融庁としては、この質を改善しない限り、産業金融の担い手としての銀行は、真の融資力を伸ばせず、故に、経済成長の推進力の一翼を担うものとして、その社会的機能を十全に果たすことができず、ひいては、銀行自身が収益の低迷した事態に陥らざるを得ない、そのような懸念を表明せざるを得ないのです。
 
関係性の質といいますと、どこが問題なのでしょうか。
 
 融資の基礎となる関係性とは、あくまでも、情報の対称性なのであって、単に、現に融資残高があるとか、長い付き合いであるとか、定期的に銀行の担当者が顔を出しているとか、財務諸表等の基礎データを入手しているとか、そのような表層的なことではないのです。
 情報が対称的になるような真の関係性とは、企業の表層を超えて、企業の事業性の次元にまで深く降りたところでなりたつものです。故に、融資とは、金融庁の用語でいうところの「事業性評価に基づく融資」のことでなくてはならないのです。
 金融庁が「事業性評価に基づく融資」という用語を初めてもちいたとき、銀行界には、普通の融資とは異なるものであるかのように受けとめる向きが多かったようですが、それは誤謬であって、融資とは、須く、「事業性評価に基づく融資」なのです。
 企業とは、事業を営むもので、事業とは、キャッシュを投入して、より多くのキャッシュを回収し、ネットキャッシュを形成していくことの無限の連続です。融資とは、投入されるキャッシュを用立て、ネットキャッシュから利息の支払いを得て、回収されるキャシュから元金弁済を受けることにほかならないので、キャッシュフロー創出の現場、即ち、事業の現場でのみ、適正な融資判断がなされ得るはずのものなのです。
 情報の対称性とはいっても、銀行は高度に専門的な事業の詳細を知り得るはずもない以上、それは、キャッシュ創出の構造を理解し、それが機能しなくなる可能性と、その要因、即ち、リスクの所在を認識し、そのリスクを銀行として積極的に許容する、即ち、リスクテイクするのに必要な情報の範囲において、成立すればいいことであって、そうした意味での情報の対称性を成立させることをもって、事業性の評価というわけです。
 
金融庁は、担保や保証に依存する融資について、批判的な見方をしているようですが、そのこととの関係は、どうなっているのでしょうか。
 
 とるべき担保があるのなら、担保をとること、あるいは、保証してくれる第三者がいるのなら、保証をとること、これは、銀行として、債権保全の立場からは、当然のことで、そこに、批判されるべき何らの理由もありません。
 ただし、もしも、「事業性評価に基づく融資」として、本来の融資のあり方を貫けば、まずは、事業性の評価に基づく審査があって、次に、融資実行の判断があり、最後に、担保等の保全の手続きがなされることになるはずです。
 ところが、金融庁のみるところ、銀行の実態としては、先に、担保価値や保証の有無についての審査があって、それに基づいて、融資実行の判断がなされていて、肝心要の事業性の評価が抜け落ちているのではないのかとの懸念を払拭できないのです。
 つまり、担保や保証に依存する融資判断のもと、事業性の評価が欠落することを通じて、融資の本質である情報の対称性が失われてしまったのではないのか、銀行と企業との関係は極めて表層的なものになってしまったのではないのか、そのことが銀行の真の融資力を本質的に低下させてしまったのではないのか、金融庁の論点は、まさに、そこにあるのです。
 
銀行と企業の関係が表層的なものになれば、担保価値や保証にかかわる判断は、どの銀行でも同じようなものでしょうから、与信判断が画一的になる、つまり、カネに色がなくなってしまいますね。
 
 融資が、真の融資である、即ち、「事業性評価に基づく融資」である限り、カネには、その銀行固有の色があるはずなのです。なぜ色がつくかというと、それは、情報の対称性の構築の仕方には、それぞれの銀行の流儀の差があり、個性の差、能力や経験の差がある、即ち、リスクテイクには戦略的な差別性があるべきだからなのです。
 つまり、事業性評価とは、事業のリスク評価にほかならず、どのリスクを、どの程度の量とるか、あるいは、とり得るかは、リスクの顕在化に対する対応能力の関数として、それぞれの銀行の固有のものであり、経営の頂点にある戦略そのものなのです。
 ここで、リスク対応能力というのは、必ずしも、静的な自己資本の厚み等の経営指標に表れる力のことだけではなくて、より多く、いわゆるハンズオンの能力といいますか、要は、銀行として、できる範囲における経営支援、即ち、動的な顧客への関与(エンゲイジメント)の力を意味するのです。つまり、カネに色をつけるとは、銀行間において、他の銀行では貸せなくても、当行の戦略と能力の下では貸せるというような戦略の差別性が明瞭になることなのです。
 
カネに色がないことの弊害は、どのようなことでしょうか。
 
 銀行のカネに色がないことは、表層的な基準のもとでの画一的な融資判断になることであり、その結果、ある銀行にとって貸せる先は、どの銀行にとっても貸せる先となり、そこには、不毛な金利引き下げ競争しかあり得ず、ある銀行にとって貸せない先は、どの銀行にとっても貸せない先となって、そこでは、融資を受けられない企業を生んでしまうということです。
 ちなみに、銀行が貸せるということを、バンカブルといいます。カネに色がないということは、抽象的な銀行というものについて、バンカビリティが一つしかないということであり、カネに銀行固有の色があるということは、銀行の数だけ、バンカビリティがあるということです。
 バンカビリティが一つしかないことは、銀行間の競争によって、金利が下がることを意味しますが、それは、銀行の収益を圧迫して、体力を低下させ、銀行の融資力を弱体化させるだけでなく、金利が企業の信用リスクを反映しないものとなり、企業のコーポレートガバナンス改革を促す力をなくしてしまいます。
 特に、後段の弊害が重要なわけで、一定の条件を超えている企業の場合は、経営効率の改善を通じたバンカビリティの向上の努力をしなくても、簡単に銀行から資金調達できるので、少しも、コーポレートガバナンス改革が進まないのです。更にいえば、簡単かつ低利に資金調達できることは、資産の取得や買収等において、不適当な事案が排除されることなく、実行されてしまう可能性もあるわけです。
 故に、銀行が自己固有のバンカビリティの基準をもって、企業の事業性を評価し、ガバナンス改革を促すような毅然たる態度で融資することは、日本経済の成長戦略にとって、極めて重要なのです。
 
どの銀行からも借りられない企業ができてしまうことも、成長戦略にとって、大きな問題ですね。
 
 金融庁が「事業性評価に基づく融資」といい出したとき、銀行界の人は、融資条件の事実上の緩和を求めるものと受け止めたのではないでしょうか。
 しかし、「事業性評価に基づく融資」は、融資条件の緩和などでなくて、過去の静的な財務諸表の数値等に基づく画一的審査ではなくて、活きている企業の事業性の次元で、動的に将来を見据えた審査を行うことで、表層的にはバンカブルでない企業も、実質的にバンカブルになる場合が少なくないはずだというのが金融庁の論点であったわけです。
 こうしたバンカビリティの再定義は、当然に、各銀行の個性が強くでるものですから、多くの場合、どこかに貸してくれる銀行があることになり、企業の経営状況の景気変動等による短期的悪化に対しても、個々の銀行としてではなくて、銀行全体として、結果的に企業支援となるような融資姿勢を貫くことができる可能性があり、そのことは、経済の安定成長にとって、非常に都合がいいことになります。まさに、ここに、金融庁の金融行政の大きな目的があるのです。
 
カネに銀行固有の豊かな色を付けることこそ、成長戦略の要なのですね。
 
 各銀行がカネの色を競うことで、産業界のコーポレートガバナンス改革を促し、産業の隅々にまで成長資本を行きわたらせて、経済成長に貢献していくこと、そのような銀行のあり方を実現することが金融庁の課題なのです。銀行よ、今こそ、金融庁の期待に応えるべきではないのか。
≪ アーカイブから今回に関連した論考 ≫
2016/06/09掲載「カネは、モノに換えない限り、太らない
2016/06/02掲載「モノを借りても買っても、費用は同じ
2016/05/12掲載「学資ローンの条件を学業の成績で決めるフィンテック
2016/02/04掲載「銀行は、ヒトにではなく、モノとコトに貸したらどうだ
2016/01/21掲載「いっそ銀行に住宅仲介をやらせるか
2016/01/14掲載「決して潰しませんという銀行の確約
2016/01/07掲載「銀行は、カネではなくて、モノを貸したらどうだ
2015/12/10掲載「雨が降ったら傘を差し出す金融へ
2014/07/17掲載「オブジェクトへの金融
2012/11/08掲載「貸せない先に貸してこその銀行
森本紀行

森本紀行(もりもとのりゆき)

HCアセットマネジメント株式会社 代表取締役社長

東京大学文学部哲学科卒業。ファンドマネジャーとして三井生命(現大樹生命)の年金資産運用業務を経験したのち、1990年1月ワイアット(現ウィリス・タワーズワトソン)に入社。日本初の事業として、企業年金基金等の機関投資家向け投資コンサルティング事業を立ち上げる。年金資産運用の自由化の中で、新しい投資のアイディアを次々に導入して、業容を拡大する。2002年11月、HCアセットマネジメントを設立、全世界の投資のタレントを発掘して運用委託するという、全く新しいタイプの資産運用事業を始める。