昔からある譬え話に、南海の島に上陸した靴商人の発想法の例があります。誰も靴を履いていないから、靴は売れないだろうと考える人と、逆に、これらの人が靴を履くようになれば大きな市場が形成されると考える人がいて、いうまでもなく、商人たるもの、後者でなくてはならないという話です。
ただし、理屈上の必須の前提条件としては、南海の島で靴を履くことが島民の真の利益に適うのでなくてはなりません。そうでなければ、そもそも、誰も靴を履くようにはならず、やはり、靴は売れないはずだからです。ならば、売れる靴は、南海の島の諸条件に適合したものでなければならず、そこに商人の顧客の視点にたった創意工夫が求められるわけです。
理屈はそうでも、事実としては、南洋の島を含めた世界中のどこでも、西洋の靴が履かれているようですが。
全ての商品は、その起源において、顧客の視点で生まれ、その成長において、商品自身の視点で作られ販売されるのです。西洋の靴も、遠い昔に、顧客の視点で生まれたのです。ところが、その靴を南洋の島に売りにいくのは、もはや、顧客の視点ではなくて、商品の視点に基づいています。
顧客の視点では、南洋の島で靴が生まれるにしても、西洋の靴が生まれるはずもないのに、ひとたび生まれてしまった西洋の靴は、商品自身の視点で南洋の島にまで売られていきます。そして、売れるはずもない西洋の靴も、商人の努力で売れてしまう。その結果、世界中どこでも西洋の靴が履かれている事態を現出するわけです。そこには、商品生産に基礎を置く資本主義経済の力強い成長力をみることができるでしょう。
しかし、商品には顧客の視点における起源があるはずで、資本主義経済の成長力の根源は、むしろ起源にあるのではないでしょうか。
商品の視点に基づく成長は、どこかで限界に達し、そのとき、顧客の視点で新しい商品が生まれる、そういう新陳代謝こそが資本主義経済の成長力なのでしょう。しかし、商品も、文化のなかに固く組み込まれると、そう簡単には死滅しません。西洋の靴は、明らかに西洋文化の世界制覇の一環として南洋の島でも履かれるようになったのであり、ひとたび履かれてしまった以上、すぐに消え去る気はないようです。
ネクタイという奇怪な商品は、日本にしっかりと定着しておりますが、さすがに気候風土との矛盾が著しくなり、ようやく没落の気配を感じさせるようになりました。喜ばしいことです。いずれ顧客の視点で衣料の革新が起こり、日本の職場風景は一変するのでありましょう。投資は資本主義の原動力ですが、この衣料産業の変動をとらえて、商品本位のネクタイ屋の株を売り、替わりに顧客本位の新興衣料企業の株を買う、要は、そういうことなのです。
さて、今回は、銀行は商品本位のネクタイ屋だという話でしょうか。
商品が流通すれば、必ず反対方向に貨幣が流れる、その貨幣を流す基盤が銀行業ですから、銀行業は、資本主義経済を底辺で支える基幹産業です。故に、特権的商品である貨幣を扱うものとして、文化的に確立したものとして、また、世界経済一体化において世界標準で統一されたものとして、商品本位の権化のように機能しているのです。
しかし、この重要な決済機能を銀行業から分離してしまうと、何が銀行に残るのかは大きな問題であって、実はネクタイ屋にすぎなかったということかもしれません。そういうことなら、現在、顧客の視点で決済機能の再構成を目指す動きが急加速してきているので、遠からず銀行が危機を迎えることは必定です。これがフィンテックの革命的衝撃なのですが、さて、銀行は、どうなるのか。
銀行の全ての業務を顧客本位の視点で再構成する必要がありますね。
まさに、それが金融庁の強力に推進している重点施策なのですが、銀行経営者には、森信親長官から説教を受けている程度にしか感じていない人も多いようです。しかし、それは困ったことかと思いきや、長官は少しも困っているわけではなく、そういう銀行は淘汰されればいいのだと冷たく見捨てているのです。
実際、資本主義の原理からいえば、商品本位が限界に達したとき、その商品に縋り付くものは市場原理で淘汰され、顧客本位で革新を起こしたものにとって代わられるだけです。その市場における生存競争こそが資本主義の本質なのですから、森長官のいうことは教科書的な市場原理論にすぎません。新奇に聞こえるのは金融庁の長官が銀行についていうからで、そもそも、そこに銀行の地位の特異性があるのです。
全ての銀行が淘汰されるわけでもないでしょうから、顧客本位の視点で改革できる銀行にとっては、大きな成長機会ですね。
森長官は、淘汰という言葉を多用するので、恐ろしい人のように思われていますが、実際は、顧客本位への転換を進めている銀行を応援しているのです。金融庁の用語でいえば、ベストプラクティス、即ち最善の業務運営の普及ということです。ベストプラクティスというのは、具体的には、経営原則、これも金融庁の用語でいえば片仮名のプリンシプルになるのですが、そのプリンシプルとして顧客本位を掲げ、顧客に対してプリンシプルに基づく行動を確約することをいいます。
確約すれば義務を生じます。その義務は、金融庁の大好きな片仮名で、フィデューシャリー・デューティー、即ちフィデューシャリーが負う義務と呼ばれています。フィデューシャリーというのは、顧客からの特別な信頼を得て、専らに顧客の利益のために働かなくてはならない人のことで、例として医師や弁護士を考えればいいのです。
銀行が顧客からの特別な信頼を得ていることは間違いありません。しかし、その信頼は銀行業の特権的地位に基づくものにすぎないのです。この商品本位の信頼を顧客本位の信頼に転換するためには、専らに顧客の利益のために働くことを確約しなければならない、それが金融庁のいうフィデューシャリー・デューティー、あるいは顧客本位の本質です。
顧客本位により、銀行は、どう変わるのでしょうか。
商品本位の靴商人を顧客本位に改めることは、靴商人の廃業と広義の履物商人の創出になるほかないでしょう。自分の国では靴を売っても、南洋の島ではサンダルを売り、昔の日本では草履や下駄を売るのです。そうした異文化を跨ぐ多様な経験は、必然的に、顧客の視点での履物の創意工夫を促して、革新を生みます。これが真のグローバル経済の成長モデルなのです。
商品本位な銀行では、融資はお金という商品を貸すことであり、融資自体が銀行の商品ですが、顧客本位では、顧客の資金使途の実現が求められますから、例えば、それが設備の購入資金のときは、設備自体を貸すほうが顧客の利益に適うなら設備を貸し、運転資金の調達のときは、経営改善により運転資金を圧縮して調達の必要自体をなくすことができるなら、そう助言することになります。
つまり、商品本位の靴商人が顧客本位の履物商人になるように、商品本位の銀行は、法人融資分野では、顧客本位の企業財務問題処理の一括請負人に、個人金融分野では、投資信託、保険、住宅ローン等の商品本位の業務区分を廃して、家計財務問題処理の一括請負人にならなくてはならないのです。
もはや、銀行ではないようですが。
銀行が銀行に留まろうとする限り、銀行に未来はないでしょう。銀行という組織そのものが商品本位である以上、顧客本位の徹底は、銀行組織の解体と再編成になること必定です。こういうと言葉の響きは激烈ですが、技術的には少しも難しいことではありません。実は、既に、この事態に対応するために持株会社の制度が導入されているのです。
顧客本位な組織は持株会社の地平においてしか実現し得ません。そのもとで、銀行は顧客の視点で生まれてくる多様な業務の一部を担うものに相対化されるのです。銀行は永遠に商品本位です。それでいいのです。銀行に限らず、持株会社傘下の他の事業会社も、基本的には、商品本位でしょう。持株会社の要諦は、それら商品本位を、顧客の利益の視点で、顧客本位に再編成する機能です。
既に、メガ銀行は、そういう方向に舵を切っているようですね。
当然のことです。既に、三大メガ銀行では、持株会社の経営機能の強化に動いていて、傘下の銀行の相対化の方向は明確です。更に、持株会社のもとに帰属すべき他の事業会社の業務範囲の見直しも始まっているはずで、そのなかの最重点分野がフィンテックであることは自明です。金融庁も、この方向を後押ししていることは間違いありません。
問題は地方銀行ですが、さて、どうなっているのか。どうなろうと、森長官のいうように、淘汰されるべきものは淘汰され、残るべきものが残ればいいので、どうでもいいことかもしれません。
持株会社の構成において、鍵となるのは顧客との接点を担う部門でしょうが、どういう形態になるのでしょうか。
それは経営者の考えることであり、それだけを経営者は考えればいいのです。なぜなら、顧客との接点においてこそ、価値は生まれ、全ての革新が生じるのであって、そこに持株会社の企業価値の全てが集約されるからです。
商品の悲劇は、商品には価値を内包しないことです。価値は、顧客が見出すものであり、顧客のなかにあるのです。ネクタイは無価値です。顧客が着用したときに価値を生むのです。融資は無価値です。その資金が顧客の事業に投下され、回転されて初めて価値を生むのです。投資信託は無価値です。それが顧客の資産形成に寄与して初めて価値を生むのです。
銀行は無価値です。それは、遠くない将来、どこかの人も疎らな田舎で、なかにコンピュータの収まったコンクリートの箱として存在するだけのものになるでしょう。そこから発せられた電子信号は、世界を駆け抜けて、顧客を通過するとき、顧客のなかに価値を生むのです。
商品が無価値なら、商人も無価値でしょうか。
顧客が価値を見出したとき、その価値は間違いなく商人の貢献が作り出したのです。これが金融庁のいう顧客との共通価値の創造です。商人は、商品の側ではなく、顧客の側にあるとき、価値を創造するのです。商人が顧客の側にあると確約すること、これが金融庁のいうフィデューシャリー・デューティーです。
ならば、銀行員も価値創造できるでしょうか。
銀行員という言葉は、銀行が解体するので、もうすぐ死語となります。それを敢えて銀行を含む金融グループの社員という意味で使えば、銀行は無価値でも、銀行員は顧客の価値創造に貢献できます。ただし、そのためには、フィデューシャリー・デューティーを貫徹しなければなりません。
以上
次回更新は、9月7日(木)になります。
2017/02/09掲載「銀行死す、銀行員よ、死の覚悟をもて」
2016/08/25掲載「銀行が預金をやめるとき」
2016/08/18掲載「銀行がなくなる日に、銀行機能は甦る」
森本紀行(もりもとのりゆき)
HCアセットマネジメント株式会社 代表取締役社長
東京大学文学部哲学科卒業。ファンドマネジャーとして三井生命(現大樹生命)の年金資産運用業務を経験したのち、1990年1月ワイアット(現ウィリス・タワーズワトソン)に入社。日本初の事業として、企業年金基金等の機関投資家向け投資コンサルティング事業を立ち上げる。年金資産運用の自由化の中で、新しい投資のアイディアを次々に導入して、業容を拡大する。2002年11月、HCアセットマネジメントを設立、全世界の投資のタレントを発掘して運用委託するという、全く新しいタイプの資産運用事業を始める。