商品の価値と価格については、価格が形成されることで、価格に見合った価値が後で創造されるのか、それとも、先に価値の創造があるからこそ、価値に応じた価格が形成され得るのか、この先後関係は哲学的難問ですが、どちらにしろ、価格は価値を推定させ、価値は価格に反映されるので、価格は価値に一致すると考えるのが常識的です。つまり、商品には、価値に対応した適正な価格があるだけで、本来は、安い価格も、高い価格もないのです。
しかし、価値と価格は、常に一致しているわけではありません。なぜなら、ある商品の価格のなかに、その価値に関する情報が完全に織り込まれるためには、不特定多数の人によって、その商品が繰り返し取引されなくてはならず、それには時間を要するからです。むしろ、価値と価格は常に不一致で、価格は、価値に向かって、あるいは価値の近傍で、動き続けているというほうが実態に近いでしょう。
割安、割高があるということですか。
価値と価格が不一致ならば、価値よりも低い価格があるわけで、それを割安な価格といいます。同様に、価値よりも高い価格として、割高な価格があります。人が安く買えたと満足しているとき、それは価値よりも低い価格で取得したと感じているからであって、安く買う、高く買うという日常語は、割安に買う、割高に買うという意味にほかなりません。
人は、割安に買えたことに満足するのではなく、商品の価値に満足するからこそ、割安だと感じるのではありませんか。
商品の価値評価、あるいは商品への満足感は、当然に、消費者の主観に基づきますから、正確にいえば、価格が価値に向かって動くとは、多様な消費者の価値評価の平均値に向かって、価格が動くということです。
故に、割安と割高には、二つの次元があるのです。第一は客観的なもので、平均的な価値評価に対して、価格が低い、もしくは高いことであり、第二は主観的なもので、仮に、平均的な価値評価と価格が一致している、即ち、客観的には価値と価格が一致しているとしても、主観的には、平均の定義により、半分の人は割安だと感じ、半分の人は割高だと感じているわけです。
価値と価格が常に不一致だとしても、基本的には、価格は消費者の平均的な価値評価の近傍で形成されているので、人が安く買えたと満足感を感じているのは、多くの場合、主観的な割安感であって、同じ価格のもとで、半分の人は満足感を感じていないのでしょう。
株式投資でいう割安株の割安も、同じ意味でしょうか。
株式は金融商品といわれるわけで、その価格の形成は商品の一般原理に従います。故に、株価は、投資家の平均的な株式価値の評価へ向かって動き続け、しかも、その動きは、非常に不安定で、止まることなく継続します。なぜなら、投資家は、株式の発行体企業を取り巻く環境が変化していくなかで、不断に新たな価値評価を行い、その評価には大きな振幅を伴うからです。
故に、株価は、株式の客観的な価値、即ち、価値に関する投資家の平均的評価、別のいい方をすれば、市場の平均的価値評価とは常に異なっていて、割安になり得るわけです。英語のバリュー(value)は、価値のことですが、投資の専門用語としては、割安さ、即ち、株価を上回る価値の差分を意味します。投資戦略としてのバリュー投資とは、バリューが解消する過程、即ち、株価が価値に向かって動く過程に投資機会を見出すものなのです。
バリュートラップとは何でしょうか。
バリュートラップ(value trap)は、バリューの罠ですが、真のバリューは市場において形成される客観的な価値と価格との差であるのに対して、偽りのバリュー、即ち、バリュートラップは投資家個人の主観的な価値評価と価格との差にすぎません。真のバリューには、解消する可能性が十分にありますが、バリュートラップには、解消する可能性が乏しいわけで、故に、罠といわれるのです。
株式投資のファンダメンタル(fundamental)な条件、即ち、株式投資の基礎を形成するものは、株式の価値を把握する分析であり、その価値は、客観的に市場で成立するものであって、主観的な独断であってはならないのです。株価は、単なる与件であって、株式投資の本質は、価値と株価との間に、真のバリュー、即ち、バリュートラップではないバリューが見出されるときに、その株式を取得することなのです。
人は常に主観的であって、客観的な価値は把握し得ないのではありませんか。
人は主観的でしかないのですが、主観的であることを自覚できます。株式投資の格言に、「銘柄を愛すな」というのがあります。この格言は、銘柄を愛してしまえば、価値分析が偏向し得る点について、反省的自覚を促すものです。また、価値評価は多様な視点からの分析の総合であるべきで、高度な知的努力によって、主観的歪みを是正しようとすることこそ、株式投資の要諦なのです。
ファンダメンタルな条件だけでは、株式投資は成立しないのではありませんか。
真の投資家は、ある株式の銘柄の客観的価値について、徹底的な分析を行い、自分の確信が形成されたとき、価格との比較において割安であれば、その銘柄に投資するのです。故に、価格が自分の信じる価値に一致したら、売却しなければならないわけで、これが売却規律(sell discipline)とよばれるものです。売却規律は、株式投資のテクニカル(technical)な側面です。
実は、売却規律を厳格に守ることは非常に難しいのです。例えば、得てして、ある銘柄を買えば、その株価は下がるものですが、ここで、多くの人は、心配して売ってしまいます。これが狼狽売りです。その後、下がった株価が買値まで上昇すると、心理的に売りたくなります。やれやれと安心して売ってしまう、いわば、お疲れ様売りです。
また、買った後に、株価が上昇して、価値評価を超えても、もっと上がると思うので、心理的には、売れないものです。株価が下がったままで、戻らないことも多いわけですが、一定期間を超えて、株価が戻らないなら、価値評価が間違っていたはずなので、判断の誤りを認めて、売らなければならないのですが、多くの場合、保有し続けることになります。それを塩漬けというわけです。
こうした売却規律に反した投資行動は、いかにファンダメンタルな価値評価分析が優れていても、その意味を失わせることになりますから、実は、テクニカルな売却規律は、ファンダメンタルな価値分析よりも、重要だとすらいえるのです。
売却規律を徹底すれば、短期的な売買が生じるのではありませんか。
売却規律のもとでは、買うときに、売る価格が決まっています。つまり、買う判断と、売る判断との二つがあるわけではなく、買って売るという一つの判断があるわけです。一般に、判断を要する局面の数が少ないほど、心理的に誤った行動をとる可能性を小さくできますが、売却規律においては、徹底した価値分析のもとで、買って売ることが最初に決断されているので、心理の介入する余地そのものがないのです。
心理的弱さを克服するために、売却規律が必要とされているので、短期間で株価が上昇し、売却予定価格に達したときは、売却を躊躇すること自体が心理的弱さの露呈なのですから、いかに短期でも、売却すべきなのです。そもそも、長期とは、長期的な視点での価値評価のことであり、価値の実現までの時間は結果にすぎないのですから、保有期間の長短にかかわらず、価値の実現があれば売却するのです。逆に、長期保有を掲げることは、塩漬けの弊害を正当化することにもなるわけです。
どうすれば、売却規律は徹底されるのでしょうか。
売却規律の要諦は、価値評価に関する確信度の強さにあるのであって、強い確信は、徹底した調査分析によってのみ、形成され得るのです。しかし、確信は、妄信や独断ではなく、妄信や独断を回避しようとする冷静で客観的な分析の結果でなくてはなりません。心理的な弱さを克服するためには、強い知性による客観的分析と、強い意志による主体的規律の徹底が必要なのです。
・価値と価格とインカムとバリュー(2010.1.14掲載)
価値と価格やバリューなどの概念は、株式投資のみならず広く投資の世界で用いられるものです。
・資産運用の腕前が上がるのは規律をもって賭けるから(2022.9.29掲載)
規律をもって運用するのは、株式投資のみならず資産運用全体に必要なことです。
・責任なきところ投資成果なし(2017.11.16掲載)
今回論じられなかった、資産運用をする際の組織ガバナンスのあり方について論じています。
(文責:城)
ご登録いただきますとfromHCの更新情報がメールで受け取れます。 ≫メールニュース登録
森本紀行(もりもとのりゆき)
HCアセットマネジメント株式会社 代表取締役社長
東京大学文学部哲学科卒業。ファンドマネジャーとして三井生命(現大樹生命)の年金資産運用業務を経験したのち、1990年1月ワイアット(現ウィリス・タワーズワトソン)に入社。日本初の事業として、企業年金基金等の機関投資家向け投資コンサルティング事業を立ち上げる。年金資産運用の自由化の中で、新しい投資のアイディアを次々に導入して、業容を拡大する。2002年11月、HCアセットマネジメントを設立、全世界の投資のタレントを発掘して運用委託するという、全く新しいタイプの資産運用事業を始める。