人的資本のなかに企業の意思が現れ、それが働く人の行動に影響を与えると同時に、人的資本のなかに現れた働く人の意思は、企業の行動に影響を与えるのです。
人の働く環境は、働きの生産性に大きな影響を与えますが、企業経営において、人的資本と呼ばれるものは、生産性の向上に関して、持続的な効力を発揮する無形の環境のことです。当然に、設備や装置等の物理的環境も、生産性の持続的な改善に重要な役割を演じていますが、既に、会計上の資産として認識されていて、とりたてて人的資本と呼ばれる必要はありません。人的資本は、目に見えない無形のものであり、会計的にも認識されていないからこそ、特別に論じられるのです。
人的資本は無形の環境資産なのですから、人的資産と呼ばれるのが自然ですが、敢えて、人的資本という用語が使われるのには、意味があるはずです。つまり、資本は、事業にとって不可避的に発生する一時的な損失を吸収し、事業を持続可能にするものであり、企業は、資本があるからこそ、不確実な未来に賭けていけるのであって、同様に、人的資本は、働く人が自分の未来を安心して賭けていける仕組みとして、その能力を最大限に発揮させるものなのです。
どのようなものが人的資本になるのでしょうか。
組織規程、権限規定、人事評価、処遇、人事異動、登用、勤務の形態・様式・規律等の諸制度、あるいは、研修や教育等の人材育成、自己研鑽支援等の諸制度など、総じて働く人の行動に影響を与える仕組みは、全て人的資本です。また、制度は目に見えなくとも記述されていますが、記述され得ない文化的な風土や雰囲気も、働く人の行動に作用するのですから、人的資本です。更には、企業のもつ知名度や社会的信用などは、働く人の活動を助け、働く人に誇りを与えて、その行動を律するものとして、人的資本なのです。
しかし、念のためにいえば、制度や文化や名声は、それ自体が最初から人的資本なのではなくて、働く人の生産性を高める方向に機能するときに、人的資本になるわけです。つまり、人的資本は、より厳密にいえば、制度等の形式的な人的資本ではなく、それが真の人的資本として機能するように、設計して運用する経営の技術なのです。
働く人は、企業に対して、自分の未来を賭けるでしょうか。
自分の未来を賭けるとは、働く人の自己実現のことですが、それを二つの極に単純化すれば、企業の内での自己実現と、企業の外での自己実現とがあり得ます。当然に、純粋な両極はあり得ないわけで、働く人は、人生の航路上の自然な進行に従い、その都度の状況に応じて、自分自身の選択により、両極間での傾斜配分を随時に適当に決めているのであって、その任意の自己決定が働き方なのです。
では、人的資本は、企業の内での自己実現の方向に、働く人を促すものでしょうか。
人的資本は、企業の立場からいえば、当然のごとく、働く人を企業の内での自己実現の方向に導くべきものです。しかし、企業が主体となって、働く人の自己実現のあり方を規定するのであれば、伝統的な経営手法と差がないのであって、敢えて人的資本と呼ばれるには値しないのです。人的資本の本質は、働く人が主体となって、企業の内での自己実現を行えるようにすることです。
実は、ここでの論点は、企業の革新であり、企業における新たなものの創造です。つまり、変革には、程度の差こそあれ、必然的に、現状に対する否定的評価を伴うのに対して、現在の経営陣は、程度の差こそあれ、現状に肯定的なはずですから、理屈上、変革は起き得ないのであって、故に、この矛盾を解くものとして、人的資本が注目されているのです。
人的資本の前提は、企業に革新と新しいものの創造があり得るとしたら、その担い手は、企業の現状において、高く評価されていない人や、片隅に埋もれている人であって、要は異端の人である可能性が高いということです。そこで、人的資本の課題は、第一に、異端の人が企業を去らないように、多様性を認めることであり、第二に、異端の人の着想が企業経営に活かされるように、人材の発見と登用の仕組みを変えることになるのです。
そもそも、異端の人は企業に採用されないので、企業のなかに存在しないのではありませんか。
普通の企業は異端の人を敢えて採用しないかもしれませんが、それ以前の問題として、異端の人は普通の企業で働くことを望まず、最初から応募しないとも考えられます。故に、人的資本は、異端の人を活かすこと以前に、異端の人を引き付ける仕組みでなければなりません。人的資本のもとでは、企業が働く人を選別するのではなく、働く人が企業を選別するわけです。
更には、真に新たなものを創造できる人は、企業の成立の原点に返って、自分で起業するでしょうから、企業にできることは、そこへの出資という参画、事業が成長軌道にのった後での買収、もしくは提携しかなく、人的資本は、こうした起業支援の仕組みなどへ展開するわけです。
企業が異端の人を得て、その人が自己実現によって企業を変革させたとしても、その後は、企業を去って、企業の外で更なる自己実現を目指すのではないでしょうか。
従来の発想であれば、企業を去った人は、企業と関係のない人、あるいは、最悪の場合には、企業に敵対する人になるわけですが、人的資本は、そうした人との友好的な連携を維持する仕組みでなければなりません。人的資本は、企業の内と外との境目を流動的にすることで、働く人の能力を開花させるわけです。
ただし、企業の内外の境目が明瞭でなくなって、企業の外延が緩やかに拡大しても、働く人は、拡張された企業の内側にいるのであって、ここでは、人的資本は、依然として、企業の内における働く人の自己実現を促し、企業と働く人の双方に、利益をもたらす仕組みなのです。
では、働く人の企業の外での自己実現とは、どのようなことでしょうか。
世のなかには、企業で働くことについて、安定収入を得るためと割り切って考えている人は少なくありません。こうした人は、安定収入を保障された環境のなかで、様々な領域で、様々に異なる方法で、自己実現の活動をしているわけですが、企業の立場からすれば、投じられた人件費に見合った貢献を得ている限り、そうした働き方は、少しも問題ではないわけです。
この場合、人的資本は、働く環境として、自由度の高い柔軟な勤務形態を提供することになりますが、その設計の要諦は、働く人の立場にたって、利便性を高めて、働きやすくすることで、より多様な人材を引き寄せ、また就労時間中の生産性を改善することにあります。こうして、投じられた人件費以上の貢献を働く人から引き出し得てこそ、働く環境は人的資本になるのです。
働く人の多くが企業の外での自己実現を目指したら、企業経営は困難になりませんか。
企業にとって、人的資本の重要な機能は、働く人の事実としての行動から、背後の意思を推定することです。例えば、自社の株式への投資を奨励する制度があるとして、誰も利用しないという事実があれば、そこから、働く人の企業に対する否定的な評価が推定されるので、企業としては、当然に、経営改善を行うことになるわけです。
また、制度が利用されているとしても、働く人は、積極的に利用しなければ人事考課において否定的に評価されるとの懸念のもとで、不本意ながら自社株に投資しているかもしれません。企業としては、そうした可能性を検証するために、同調圧力等の不健全な企業風土の有無を確認するはずで、場合によっては、経営改善の必要性が発見されるのです。
働く人の多くが企業の外での自己実現を目指すとしたら、そこには、企業にとっては好ましくない働く人の意思が推定されるのであって、企業としては、当然に、働く人が企業のなかで自己実現を目指してくれるように、経営改革を行うわけです。
では、人的資本は、働く人の意思が現れるように、設計されるべきでしょうか。
人的資本は、企業の意思が現れるように設計されるべきで、その企業の意思が働く人の行動に影響を与えるわけですが、同時に、人的資本の活用状況のなかに現れた働く人の意思は、企業の行動に影響を与えるのです。この相互連関こそ、人的資本の本質です。
・究極の人的資本は働く人の所有と参画の意識だ(2025.2.6掲載)
人的資本とは広い意味での働く環境に関わる資産であり、いわば、無形の精神的な空間として、空気のように見えない企業風土や文化として、働く人の行動に影響を与えるものです。
・金融の革新と人的資本経営の極限(2012.11.1掲載)
人と人によって支えられる「柔らかい」資産としての技術、あるいは技術等が化体した「柔らかい」資産としての人的資本が、企業固有の付加価値を形成しています。
・人的資本投資の理論(2013.7.3掲載)
企業の成長を支えるのは人間の創意工夫だという、基本思想を中核にし、人的資本投資の理論の再興を図ります。
(文責:広瀬)
次回更新は、2月27日(木)になります。
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森本紀行(もりもとのりゆき)
HCアセットマネジメント株式会社 代表取締役社長
東京大学文学部哲学科卒業。ファンドマネジャーとして三井生命(現大樹生命)の年金資産運用業務を経験したのち、1990年1月ワイアット(現ウィリス・タワーズワトソン)に入社。日本初の事業として、企業年金基金等の機関投資家向け投資コンサルティング事業を立ち上げる。年金資産運用の自由化の中で、新しい投資のアイディアを次々に導入して、業容を拡大する。2002年11月、HCアセットマネジメントを設立、全世界の投資のタレントを発掘して運用委託するという、全く新しいタイプの資産運用事業を始める。