
プロフェッショナルが高度な知見と技能によって生きるとは、要は、不味いラーメン屋は淘汰され、下手な芸人に仕事はないという基本原則に従うことです。
プロフェッショナル(professional)は、名詞としては、何らかのプロフェッション(profession)に従事する人です。プロフェッションは職務であり、その内容は広いのですが、まずは、知的活動のうち、特定の領域に狭く定義されたものであって、弁護士や会計士の職務が代表例になります。つまり、弁護士は弁護士業というプロフェッションに従事するプロフェッショナルなのです。
弁護士の仕事は、一方では、高度に知的な活動ですが、他方で、顧客を代理して、訴訟を遂行し、また難しい交渉に従事するためには、技術的な修練が必要であり、そこに経験による熟練という要素が加味されてきます。そこで、プロフェッションの意味は拡張されて、熟練によって形成される高度な技術に基づく職務を含むことになるわけです。この類型のプロフェッショナルは、医師、料理人、音楽家から、芸人、スポーツ選手に至るまで、多種多様です。
そこで、プロフェッショナルは、形容詞としては、技術水準が高いという意味になるわけですか。
プロフェッショナルが形容詞として使われるとき、日本語では、プロ級、あるいはプロ並みといわれます。プロ級とは、高度な技術をもつプロフェッショナルを基準として、それと同等な技術力があるという意味です。しかし、日本語では、プロ級ではなく、敢えて、プロフェッショナルと形容される場合があります。例えば、あの人の仕事振りはプロフェッショナルだといわれるときは、さすがは職業人だという意味になるのです。
今度は、プロフェッションは職業になるわけですか。
職業とは、所得の源泉として行う職務ですが、プロフェッショナルの行うプロフェッションとしての職業は、ある知的領域における専門家としての能力、もしくは熟練を経た高度な技術のみで所得を発生させるものです。実際、弁護士は、その職務の遂行によって、報酬を得ているわけですし、芸人は、芸によって、身を立てているのです。
さて、専門的な知見によって、あるいは、磨き抜かれた技術によって報酬を得るためには、当然のことながら、提供される役務に関して、高度な品質が求められます。逆にいえば、報酬を得るに値しないような品質の役務提供では、味の悪いラーメン屋が即座に淘汰されるように、プロフェッショナルとしての生計は立たないのです。
故に、ここにプロフェッショナルとしての倫理規範が成立します。プロフェッショナルは、職務の遂行によって報酬を得るとき、職業人となり、職業人となったからには、技能の最高の品質を目指して、常に修練しなければならないのです。つまり、職業人としてのプロフェッショナルは、社会に最高の技能を提供するときに、それが同時に自分の利益の最大化になるように、職務を行わねばならず、この倫理規範が貫徹されている仕事振りについて、さすがはプロフェッショナルと形容されるわけです。
同じ法曹という職務にありながら、なぜ、弁護士はプロフェッショナルで、裁判官と検事はプロフェッショナルでないのでしょうか。
裁判官、検事、弁護士は、総称して法曹といわれて、同一の高度な専門的知見をもって職務に従事し、そのことで報酬を得ています。しかし、裁判官と検事は、組織の所属員として行動し、組織の規定に従った報酬を得ている点において、弁護士と根本的に異なっていますから、プロフェッショナルではないのです。
つまり、人は、所属している組織から与えられた仕事をしている限り、いかに高度な専門的能力をもっていても、また、いかに優れた技術をもっていても、プロフェッショナルたり得ないのです。プロフェッショナルは、自分の技能についての社会的評価だけで仕事を獲得し、実績によって社会的評価を高めて、更に仕事を呼び寄せるように生きていくわけです。
また、プロフェッショナルの報酬は創造された社会的価値によって決められます。逆にいえば、社会的に創造された価値が客観的に評価され得る職務についてしか、プロフェッショナルは存在しないのです。このことは、芸人の腕前、料理人の味、スポーツ選手の成績、弁護士の訴訟における勝敗、芸術家の作品などを考えれば、簡単に理解されることです。
プロフェッショナルは、個人として活動するもので、組織には所属し得ないのでしょうか。
プロフェッショナルの代表である弁護士は、個人の資格において職務を遂行していますが、弁護士事務所に所属することもあります。しかし、弁護士は、事務所に所属していても、個人のままであって、事務作業の統合による合理化や、各弁護士のもつ異なる専門性の相互補完のために、事務所に寄り集っているだけです。いわば、事務所は、弁護士の利便性のための席を設けていて、弁護士は席を借りているわけです。
この組織に所属して席を借りるという構図は、どのプロフェッショナルについても、原理的に全く同じです。しかし、弁護士の場合は、純粋に知的な活動をしていて、文字通り、小さな席を借りる程度のことになりますが、プロフェッショナルの職種によっては、活動のために、施設、装置、営業基盤、資金、大量の補助作業者などを要することもあるので、借りる席が大きくなる、即ち、所属組織に対する従属性が強くなるわけです。
大きな席といえば、病院における医師の席でしょうか。
巨大な総合病院ともなれば、大きな建物に多くの高価な機器を備え、大量の看護師と事務職員を抱えているので、医師が病院の席を借りるというより、仕組みが逆転して、病院が医師を雇って、席を与えているかのようになります。同様に、芸人は、芸能事務所の営業力を借りているというよりも、芸能事務所に雇われて、その指示で仕事に出向くかのようです。
しかし、プロフェッショナルと所属組織との関係は、どれほど席が大きくなっても、席を借りるという構図なのであって、プロフェッショナルは、その厳しい倫理規範のもとで、個人として活動するのです。例えば、プロ野球の選手は、球団の運営企業に所属し、監督の指示で試合に出場しているようにみえても、実際には、努力して実力を高め、監督が自分を起用せざるを得ないようにし、成績を残すことで、それに見合った報酬を得るわけです。
厳しい倫理規範とは、不味いラーメン屋は淘汰されるという原理ですか。
立派な芸能事務所の芸人でも、芸が下手なら、仕事はなくて、所得もなく、逆に、売れっ子の芸人には莫大な所得があります。だからこそ、芸人は芸の道に精進するのです。不味いラーメン屋は淘汰され、美味いラーメン屋には行列ができるが故に、ラーメン屋は味のために努力を惜しまないのです。こうした行動原理に従うことこそ、プロフェッショナルの生きる道です。
では、プロフェッショナルの行動規範を貫徹させれば、企業でも、プロフェッショナルを雇えるのでしょうか。
企業のなかには、専門的知見や高度な技術を要する職務があって、それをプロフェッションとして定義できますし、外部のプロフェッショナルに委任している業務の内製化も可能ですから、企業はプロフェッショナルを雇えるのです。ただし、雇うという言葉は、理念的には、席を貸す、即ち、活躍の機会を提供し、活動に要する様々な資源を供与するという意味に解されるべきであり、プロフェッションの定義は、プロフェッショナルの創造した価値が客観的に評価され、それによって報酬を決定できるようになされている必要があります。
例えば、投資運用業では、そうしたプロフェッションを定義できるわけですね。
投資運用業は、複数の高度に知的な専門領域の職務によって構成されていて、各職務においては、熟練による技能の高度化があり、成果が客観的に計測され得ます。故に、投資運用業は、複数のプロフェッションの複合として、即ち、異なる領域のプロフェッショナルの協働として、定義されるのです。
ところが、日本の投資運用業者はプロフェッショナルの集合になっておらず、そこを金融庁は問題視するのですが、不味いラーメン屋は淘汰され、下手な芸人に仕事はないというプロフェッショナルの基本原則を貫徹させれば、簡単に改革できるはずです。
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(文責:翁)
次回更新は、4月10日(木)になります。
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森本紀行(もりもとのりゆき)
HCアセットマネジメント株式会社 代表取締役社長
東京大学文学部哲学科卒業。ファンドマネジャーとして三井生命(現大樹生命)の年金資産運用業務を経験したのち、1990年1月ワイアット(現ウィリス・タワーズワトソン)に入社。日本初の事業として、企業年金基金等の機関投資家向け投資コンサルティング事業を立ち上げる。年金資産運用の自由化の中で、新しい投資のアイディアを次々に導入して、業容を拡大する。2002年11月、HCアセットマネジメントを設立、全世界の投資のタレントを発掘して運用委託するという、全く新しいタイプの資産運用事業を始める。