家庭の日常生活では、生活者が自分で料理をして食事をするのであって、料理店で食事をしたり、料理を買って帰って食べたりするのは、単なる食事以上の団欒や社交の機会として小さな非日常の楽しみを得るため、あるいは食事を用意する手間と時間を省くためなど、明確な利用目的をもってなされることです。
外食産業にしても、調理済みの食品を販売する中食産業にしても、利用者の様々に異なる利用目的に応じて、それに適切に対応するべく各事業者が差別性を競っているからこそ、産業として成立しているわけですが、利用者の様々に異なる利用目的は、日常の家庭料理があるからこそ明確に定義できているのです。
逆に、生活様式が変化していき、外食と中食の利用が日常となれば、自宅で料理することは、趣味として、食べること以上の作ることの喜びとして、また友人等を招待する特別な機会として、要は日常を離れた非日常として、全く別の意味と価値をもつでしょう。
金融機能についても、生活者や事業者が自分自身で工夫して、その必要性を充足させてきたのでしょうか。
お金を貸すことは誰にでもできます。金融機能の提供が金融機関に集中するようになったのは、それほど遠い昔のことではなく、かつては、生活者が一時的な資金不足に陥ったときには、お金を知人や親類縁者から借り、事業者も、取引相手との間で資金の貸借を行うのが普通だったでしょう。現在でも、事業者間で、商品の決済よりも代金の決済を遅らせて、実質的な金融機能の提供がなされることは広く行われています。
お金を保有するにも、銀行等に預金する必要はなく、それこそ箪笥預金でいいわけですね。
箪笥預金という言葉は、さて、いつ頃に生まれたものでしょうか。それは、お金を銀行等に預金しておくことが生活のなかに完全に定着したときで、おそらくは、現金による給与の支払いが社会から消え去ったときですから、実は、それほど古くないはずです。それ以前は、現金のまま手元に置くのが普通で、預金するのは特別のことだったに違いありませんから、現金保有が箪笥預金と呼ばれていたわけはありません。
では、現在では、なぜ金融機能の圧倒的に多くが金融機関によって提供されているのでしょうか。
当然のこととして、金融機関を利用することで、利用者の利便性が高まるからでなければなりません。実際、現金を保有することに比べて、預金することは、安全であり、利息が付き、決済機能を利用できるなど、はるかに利便性に優れています。
融資を受けるにしても、知人等に頼み込んで迷惑がられるのに比べて、自分の信用状況に応じた合理的な条件で金融機関から借りれば、規律のもとでの計画的弁済が促され、また、融資条件を改善し、融資を確実に受けられるようにするために、自分の信用状況をよくする自助努力が働くのですから、利用者の真の利益に適うわけです。
しかし、それ以上に、金融機関への金融機能の集中は、戦後復興と、その後の高度経済成長のなかで、最重要政策課題として、金融機関の保護と育成がなされた結果だと考えられます。なぜなら、産業界の旺盛な資金需要を満たすためには、国民の零細な貯蓄を金融機関に集中させて大きな塊にし、それを原資に投融資として産業界に還流させる必要があったからです。
そうしますと、金融機関は産業界の資金需要に応えるのが本業で、生活者のためのものではなかったということでしょうか。
政策的に最も重要だったのは、銀行や信用金庫等の預金取扱金融機関です。預金には信用創造という機能があって、簡単にいえば、預金を原資に融資を行うと、預金量が増幅していって、融資量を更に拡大できるからです。信用創造は、経済の領域で人類の発明したものとしては、株式会社と並んで最高傑作に位置づけられるでしょう。
こうして、預金は形式的には生活者のものであっても、実質的には産業界の資金需要を賄うものとして機能したわけです。しかし、預金には一定の利便性があり、また、銀行等に集積された預金が融資に変じて産業界に投じられ、その結果として産業界が成長し、国民所得の増大をもたらしたのですから、生活者にとっても、大きな利益があったのです。
その好循環が狂い始めるのは、30年ほど前でしょうか。
経済が成長していけば限界的な成長率は低下し、それに伴って産業界の資金需要が弱くなる一方で、国民所得が増大して生活者の蓄積が大きくなっていくので、政策的には、重点を産業界の利益から生活者の利便性へと移行させていく必要性が生じます。その移行とは、具体的には、生活者の立場からは、預金に替わる資産形成手段の利用であり、産業界の資金調達の立場からは、融資に替わる資本市場機能の活用です。
日本の場合、この金融構造改革の必要性は、昭和のバブルの頃、経済の低成長が定着し始めころに認知され、前世紀末のバブル崩壊後の金融危機のときには喫緊のものとして浮上し、以来、様々な小さな改革の試みがなされてきたのですが、抜本的変革は未だに実現せず、日本の金融の基本構造は旧態依然たるものであって、そのことが銀行等の持続可能性について深刻な疑義が呈せられる原因となっているのです。
例えば、どのような小さな改革がなされてきたのでしょうか。
生活者の求める多様な金融機能のうち、銀行等は預金とローンしか提供できなかったのですが、順次に規制改革がなされてきて、現在では、投資信託や保険の取り扱いもでき、また同一グループ内の証券会社と協働すれば、株式や債券等の取引も行えるようになっています。これは、いうまでもなく、生活者に対して預金に替わる多様な資産形成手段を提供するためになされたことです。
しかしながら、極めて残念なことに、銀行等の経営実態においては、規制改革の背後にある金融機能の歴史的転換の意義と意味は全く理解されずに、投資信託と保険の販売は、単なる手数料稼ぎのための副業としか位置づけられていないために、顧客の利益を損なう多数の事例を生じさせているのです。故に、金融庁は、この事態を問題視し、顧客本位の徹底という呼び方で、その是正を強く求めてきたわけです。
今こそ、抜本的改革のときですね。
銀行等の事業基盤は完全に崩壊していて、それは巨額な過剰預金が破綻寸前にまで経営を圧迫している事実に現れています。もはや、預金を中核にして、それを産業界に還流させる機能は主役ではあり得ず、新たな主役は生活者のための総合的な金融機能の提供なのです。この転換をなし遂げられない銀行等は淘汰される、これは予測ではなく、理の必然です。
生活そのものを理解しない限り、生活者の立場には立てないのではないでしょうか。
金融機関として、生活者の視点において金融機能を適切に提供するためには、その機能を生活者が必要とする場面を正確に把握し、それが外部の金融機関によって提供されなければならない理由を理解する必要があります。この点、外食産業等においては、生活者が日常生活において自分で料理をする場面を正確に把握しているからこそ、それとは異なる機能を提供できているのと同じです。
例えば、老後生活の経済的側面の計画とは、支出見込みに対して、公的年金の受取り額、企業年金や退職金の額、住宅を売却したとしたら得られる金額、住宅を賃貸に供したとしたら得られる定期収入、自分の能力を活かした仕事から得られる報酬などを見積もり、その不足の有無を確認することです。
そして、不足が見込まれるときに、それを埋めるものとして、金融機能を通じた資産形成の補完的意義が明らかになるのです。金融庁は、このことを昨年の老後2000万円報告書において明らかにしたのですが、不幸にも、不足の原因が公的年金の不十分さであるかのような誤解を招き、野党の批判を受けるという憂き目をみたわけです。
そう考えると、老後生活に限らず、金融機関が提供する金融機能の役割は限定的ですね。
働いて得た所得を消費する、それが生活者の経済の基本ですが、所得と消費との間には時間のずれがあって、資金の過不足が生じる、それを調整するのが金融機能です。この過不足は、多くの場合、生活の知恵で、生活のなかのやり繰りで調整されています。それが家計規律であり、生活のなかに内包された自然な金融機能なのです。
しかし、その調整能力の限界を超えるときや、より上手に調整しようとするときには、金融機関の機能が利用されます。例えば、一時的な資金不足が大きすぎるときには、将来の所得で弁済されるローンが利用され、将来の消費に上手に備えるときには、家計の余剰を運用する資産形成が利用されるわけです。
こうした金融機関の利用は、家庭での食事の規律があるなかで、料理を作る時間がないときや、自分では作れない料理を食べたいときに、外食や中食が利用されるのと同じことですから、その上手な利用の前提として、生活者は家計規律を身につけていなければならないのですし、逆に、金融機関は、生活者の家計規律を前提にして、その支援に徹しなければならないのです。
以上
次回更新は、6月11日(木)になります。
2020/01/16掲載「お金を貯めて殖やして何が楽しいのだ」
2019/12/12掲載「倹約するな」
2019/11/21掲載「金融機関の勧誘行為を禁止しろ」
森本紀行(もりもとのりゆき)
HCアセットマネジメント株式会社 代表取締役社長
東京大学文学部哲学科卒業。ファンドマネジャーとして三井生命(現大樹生命)の年金資産運用業務を経験したのち、1990年1月ワイアット(現ウィリス・タワーズワトソン)に入社。日本初の事業として、企業年金基金等の機関投資家向け投資コンサルティング事業を立ち上げる。年金資産運用の自由化の中で、新しい投資のアイディアを次々に導入して、業容を拡大する。2002年11月、HCアセットマネジメントを設立、全世界の投資のタレントを発掘して運用委託するという、全く新しいタイプの資産運用事業を始める。