2023年11月、「金融サービスの提供及び利用環境の整備等に関する法律」が改正法として成立し、金融サービス提供事業者が広範囲に再定義され、その全てに対して、一律に、「顧客等の最善の利益を勘案しつつ、顧客等に対して誠実かつ公正に、その業務を遂行しなければならない」との義務が課されました。これは金融行政の歴史を画する偉業です。
実は、この義務のうち、後段の誠実公正義務は、従来から「金融商品取引法」等にあったのです。しかし、法律の条文としては、具体的内容を欠いていて、精神論的な意味しかなかったので、改正法は、「顧客等の最善の利益を勘案しつつ」という文言を付加することで、規範としての実効性を付与したのだと考えられます。
「勘案しつつ」というのは、規範としては、曖昧な表現ではありませんか。
そもそも、基本的なこととして、法律は、金融庁のいうミニマムスタンダード、即ち、最低基準として機能するものですから、現実的には、勘案していない事実が問題になります。そして、更にいえば、法律が発動するのは、顧客に不利益が発生したときですから、勘案していない事実と不利益との間の因果関係が問題になるわけです。
そこで、金融機関としては、顧客に何らかの不利益が発生している事態において、金融庁の行政処分を回避し、あるいは損害賠償を求める民事訴訟に対抗するためには、顧客の最善の利益を勘案した事実を証明できなければならないので、その証跡の確保が決定的に重要になります。つまり、法律の文言は抽象的でも、金融機関の行動を具体的に変化させ得るのです。
勘案した証跡があるからといって、本当に勘案したことになるでしょうか。
勘案した証跡があることは、ミニマムスタンダードとして、法律等の規制の強制によって実現されます。しかし、勘案した証跡があるからといって、必ずしも真に勘案したことにはなりません。近時、金融庁が抜本的な行政手法の転換を行ったのは、この規制の限界を明確に認識したからで、現在の金融庁にとって、金融機関が顧客の最善の利益を真に勘案することは、ベストプラクティスの追求と呼ばれることなのです。
ベストプラクティスの追求は、金融機関のビジネスモデルの問題として、競争環境のなかで実現されます。つまり、顧客の最善の利益について、勘案したことの表層的な証跡を確保しているだけの金融機関と、把握しようと真剣に努力している金融機関との差異は、顧客の目に明らかなはずであって、その評価に基づく選別により、前者は淘汰され、後者は成長するというのが金融庁の立場なのです。
勘案した証跡を残そうとする努力は、ベストプラクティスの追求への第一歩になるでしょうか。
いかに程度の低い金融機関でも、顧客の最善の利益に全く思いを寄せることなく、それを勘案した証跡を工夫しようとはしないでしょうし、そもそも、そのようなことは不可能です。つまり、勘案した証跡を残そうとすれば、必然的に勘案することになるのであって、それだけでも、金融機関経営に与える立法化の効果は大きいのです。
顧客の最善の利益を勘案しようとすれば、顧客との対話が促されるわけですか。
顧客の最善の利益の意味について、決定的に重要な論点は、顧客の主観における最善と、客観的に公正な立場から評価したときの最善とが異なり得ることです。この点については、国会における法案の審議過程で、金融商品の販売との関連において、明らかにされています。つまり、顧客の購入意向を公正に検討し、購入が顧客の最善の利益に反すると評価されるときは、金融機関は販売を辞退すべきかとの議員の質問に対して、金融担当大臣は肯定する答弁をしたわけです。
従来の規制のもとでは、顧客の意向に忠実であればよく、故に、金融機関は、顧客の意向確認に努力を払ってきたわけで、しかも、より正確にいえば、書面による顧客の意向確認など、証跡の確保に多大な労力を投入してきたのです。この場合、金融機関は、説明という名の一方的な営業話法を展開し、意向確認という名の一方的な質問を浴びせるだけですから、そこに対話はあり得ません。
しかし、新しい法律のもとでは、金融機関は、顧客の意向の裏側の背景を理解したうえで、公正中立な立場から、顧客の最善の利益を勘案しなければならず、それには、高度な対話力が要求されることになります。この対話は、単に顧客の属性を理解し、それに基づく提案を行うだけではなく、顧客と共に考え、共に感じ、共に思いつつ、顧客の最善の利益を共に見出していく協働になるわけです。
要は、対話への転換とは、金融機関による説明と質問を抜本的に変革することですか。
新しい法律は、顧客の主観的な最善の利益は、公正な立場で客観的に評価するとき、むしろ顧客の利益に反する場合があり得るとの前提に立っています。つまり、この法律は、規制が保護すべき対象として、顧客の主観的意図ではなく、客観的な経済厚生を掲げているのであって、そこには根本的な発想の転換があるわけです。
この転換の背後には、金融サービスのような抽象的なものについては、顧客の主観的意図は、知識や経験の不十分さなどのために、不合理な方向へ誘導されやすいとの判断があり、そして、更には、いかに不合理なことでも、それが顧客の意思であると確認されると、金融機関の責任が問われ得なくなる点についても、留意されていると考えられます。
実際、金融機関による金融サービスの内容説明は、顧客の利益を守るためというよりも、免責要件を確保する自己保身の側面が強いように思われますし、過剰なまでに詳細な情報提供は、むしろ、顧客に苦痛を与えているともみられます。ましてや、質問による顧客の意思確認の手続きは、証拠書類の完備が目的となっているようです。
そうした金融機関の自己保身が対話を妨げてきたわけですか。
そもそも、対話は人と人との間でしか成立せず、自己保身で身構えた金融機関が顧客と対話できるはずもありません。顧客の全体を人として見ることと、顧客の特定の需要を切り離して見ることとは、根本的に異なるのであって、顧客を人として見るのは、人としての金融機関の職員ですが、顧客の需要を見るのは、金融機関の構成要素としての職員です。金融機関の職員は、顧客の最善の利益を勘案するには、人としての生活者の視点で顧客と対話しなければならないのです。
対話によって、顧客の最善の利益は把握され得るでしょうか。
法律は、把握しろとはいっていなくて、勘案しろといっているだけです。この勘案という言葉は、法律に用いるには曖昧で不適当のようですが、実際には、高度に工夫されたものだと考えられます。つまり、動かし得ない基本原則として、顧客の自律、および顧客の自由意思のもとでの自己責任があるので、金融機関にできることは、あるいは金融機関のなすべきことは、勘案に尽きるのです。
勘案とは、現実的には、顧客に再考を促すことになりますか。
国会での質疑に関連していえば、金融商品の購入を求める顧客について、販売が顧客の最善の利益に反すると判断するときは、正確にいえば、金融機関は販売しないのではなくて、顧客の再考を促すのであって、再考を促すことが対話の起点になるわけです。再考を促しても、顧客が応ぜずに購入を希望するのならば、金融機関は販売すればよく、その販売は、顧客の最善の利益を勘案したうえでの販売となるはずです。
顧客の最善の利益を勘案することは、金融機関の利益になるでしょうか。
金融機関は、顧客との取引の現状を徹底的に再点検すれば、最善の利益に反している事例を無数に発見するでしょうが、その不合理な現状こそ、自分の利益源泉だというのなら、事業の持続可能性は全くありません。金融機関経営の常識として、あるいは商業の常識として、顧客の最善の利益を勘案して、不合理を合理化する過程において、顧客との共通価値が創造されると考えるべきことです。
・こうすれば金融機関は顧客の最善の利益のために働かざるを得なくなる(2023.9.21掲載)
金融庁は、顧客本位であることを利益誘因とした競争を促進すべく、「見える化」により、提供している金融機能の質の差を開示するよう促しています。
・顧客満足は顧客本位ではない(2017.1.12掲載)
「顧客の客観的な経済厚生」を問うことは、種々の金融サービスの社会的機能は何かという問いに行き着きます。金融機能全体がその問いに立ち帰ることが求められています。
・非金融とテクノロジーが破壊できない金融こそ真の金融だ(2023.12.7掲載)
高度な参入障壁によって長らく特権を維持してきた金融機関は、非金融機能への対応やテクノロジーの進化により、競争に巻き込まれ、ビジネスモデルの変革を迫られています。
(文責:城)
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森本紀行(もりもとのりゆき)
HCアセットマネジメント株式会社 代表取締役社長
東京大学文学部哲学科卒業。ファンドマネジャーとして三井生命(現大樹生命)の年金資産運用業務を経験したのち、1990年1月ワイアット(現ウィリス・タワーズワトソン)に入社。日本初の事業として、企業年金基金等の機関投資家向け投資コンサルティング事業を立ち上げる。年金資産運用の自由化の中で、新しい投資のアイディアを次々に導入して、業容を拡大する。2002年11月、HCアセットマネジメントを設立、全世界の投資のタレントを発掘して運用委託するという、全く新しいタイプの資産運用事業を始める。